責任を取らないのは当たり前か?

「責任をどう取るんだ?」という言葉は糾弾の常套句に思います。

テレビのニュースを見ていると、様々な不祥事が目に飛び込んできます。カメラの前で頭を下げて、フラッシュが待っていたとばかり、人々の身体を照らします。何度も見た光景です。

資金のやりくりが出来なくなったとか、会社の従業員が犯罪を起こしたとか、世間か顧客に迷惑をかけたという理屈でしょうが、少し時間が経つと世間は忘れて、テレビも次のニュースを取り上げます。そして同じように、しばらく経つと次のニュースに移ります。

被害を受けた人に完全に補償が行き届くかというと、それはなかなか難しいようです。それゆえに頭を下げているのでしょう。

記者会見に出てきて頭を下げる経営者もいれば、世間から行方をくらます経営者もいます。被害を受けた人からすれば、最後まで責任を全うして損害を償ってほしいところですが、頭を下げている経営者にしても、その役職から離れれば、我関せずという顔をします。

国の責任を問う裁判にしても、問題が起こったのは数十年も前で、その時の担当が揃って現場にいないということが多々見られます。

現在の首相なり大臣が謝罪するのは、国を代表してでしょうが、自分自身が悪いことをしたという意識はないと思います。実際に関わったわけでもなく、その心境は自然かもしれません。では、問題に実際に関わった人の責任はどうなるのでしょうか? おそらく問われることはないのだろうと思います。

組織において、個人の責任が追求されることは多くありません。刑事罰を受けるような違反をした場合は別ですが、そうでなければ個人は職を失う以上の損害を受けることはありません。記者会見で頭を下げているのも、個人が頭を下げているわけではなく、社長や会長といった役職として謝罪をしているわけです。役職がなければ頭を下げる必要はなくなります。

僕は以前、病院で勤務していましたが、そこでも、よほど大きな過失がなければ、個人の責任を問われることはありません。看護師が点滴を入れ間違えて、業務上過失で起訴されるニュースは時々見ますが、過失が明らかなケース以外で個人の責任が問われることはありません。

政治にしても会社にしても医療にしても、個人の責任を必要以上に追求してしまうと、事なかれ主義に偏る恐れがあります。それでは、かえってサービスを受ける側の利益を損ない兼ねません。そのため、組織の一存のもとに行動する形を取ることで、責任の所在を組織にして、個人の責任を前面に出さないようにしているのだと思います。

さて、僕は施設に勤めていたこともあるのですが、入所されている利用者様においても「責任」の問題を考えさせられることがあります。

介護にしても医療にしても、サービスは本人の意思に沿って行われるのが基本です。周囲はその人が前向きに生活を送れるように、色々とアイデアを考えます。例えば、時々であっても、過ごし慣れた家に帰ったらどうかと考えたとします。

しかし、外泊であればその時の世話は家族がすることになり、それなりの労力を生じます。体調によってはリスクもあるかも知れません。サービスを提供する側からは、リスクがあることを勧めることはなかなか出来ません。

このような時、家族もなかなか自分たちから家に帰そうとは言い出しません。慣れないことをするのは多くの人が躊躇します。施設で過ごしてもらう方が楽でいいと考えている家族も多いのが現実だと思います。

このような構図を見ると、利用者様に対して誰1人責任を負っていないことに気付きます。医療は身体が健康を保つように、介護は生活が行えるように努めています。しかし、本人の立場に立ってリスクを冒してまで一生懸命に尽そうとは思っていません。あくまで仕事の範囲内でサービスをしているに過ぎません。家族も大変な思いをしてまで、あえて自分たちから本人の希望を叶えようとはしません。

様々な事例を取り上げて何を伝えたかったかと言えば、結局、他人は(家族においてさえも)誰も自分の人生の責任をとってくれないということです。自分の人生の責任を取れるのは自分だけなのです。

施設での話ですが、医療、介護、家族とも方針を決め兼ねている場合、本人が何か意思を示すかというと、それもまた少ないように思います。施設に入所するような身体の状態で、何かを決断し、目標に向かって自分で進むというのは口で言うほど簡単なものではありません。何かしたいと思っても誰かの助けを借りなくてはならず、受け身的になるのがほとんどです。

人間は他人の作ったレールに乗って判断を任せた方が楽です。それも1つの選択です。しかし、他人も家族も、そして自分自身ですら責任を取らない人生は、果たして誰のためのものなのでしょうか、そう思わずにはいられません。少なくても、身体も頭も働くうちは、自分で人生の選択をして、責任を持つように心がけたいものです。

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兼業作家。2023年4月『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)上梓。歴史全般が興味の対象ですが、最近は大正~昭和の文化、芸術、演劇、映画、生活史を多く取材しています。プロフィール写真は愛貓です(♂ 2009年生まれ)。よろしければTwitterのフォローもお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。