「将棋の渡辺くん」を読む

僕は飛行機が苦手で、なるべくなら乗らないでおきたい人間ですが、それでも鉄道や車と比べて、効率に明らかに差がある時は、飛行機を選択します。

あまり慣れないために、離陸の時にはいまだに手に汗をかきます。小学生くらいの子供が落ち着いて乗っているのを見ると、なんとも複雑な気分になります。

さて、そんな仕方なく飛行機に乗った時、搭乗中も困ることがあります。それは飛行機の中で何をしたら良いか分からないことです。普段、乗らないために何が可能かも分からない(国内線なので多分、設備的にはサービスはない)のです。

窓際の座席なら外を見ていくらか楽しめますが、それでも途中は雲の上なので退屈になります。

そのような時によく読んでいるのが「将棋の渡辺くん」というマンガです。

この作品は将棋棋士の渡辺明との日常を奥様の伊奈めぐみさんが描いたものです。

将棋棋士の日常や対局以外の姿は、それぞれ棋士や記者などが書いた書籍がいくつかあります。以前の記事で紹介した先崎学九段のエッセイや河口俊彦八段の著書も素晴らしい著述だと思いますが、それは棋士という仕事が前提にあって、そこに日常が加えられた描写のように思います。

「将棋の渡辺くん」の場合は、ちょうど棋士の生活を私たちが見ている視点とは裏側から見ている感覚です。それは奥様だから書ける視点と言えるでしょう。日常の生活の中に棋士という仕事があるという描写です。

ここで渡辺明という棋士についても紹介したいと思います。

渡辺明は1984年東京都出身の35歳で、将棋界の8大タイトルのうち、棋王、棋聖、王将の3冠を保持しています(2019年9月1日現在)。

四段(プロ棋士)になったのは2000年4月で、加藤一二三、谷川浩司、羽生善治に続く4人目の中学生棋士でした。

当時、将棋界の第一人者であった羽生善治はちょうど30歳で、これから年齢を重ねるにつれて棋力が落ちてくるであろう羽生に代わる次世代のスター棋士として注目を浴びていました。

現実に羽生は4年後の2004年に王座の1冠まで後退して、一時の異常な勝ちっぷりがさすがになくなります。奨励会の時代から「若い時の大山名人(大山康晴十五世名人)に雰囲気が似ている」とも言われて、次に渡辺の時代が来るのではないかと考えられていたのです。

渡辺は2004年に20歳の若さで、名人と並ぶ将棋界の最高峰である竜王位を獲得、以降2012年まで9連覇して棋界初となる「永世竜王」の資格を得ました。

確かに素晴らしい才能を見せつけていたのですが、当初に言われた「羽生の次に時代を築く」という評価とは違うように見えました。竜王位こそ早い段階で獲得しましたが、それ以外のタイトルは2011年に王座位を獲得するまでさらに7年を要しています。

一方で羽生は1冠に後退した2004年のうちに、次々にタイトルを奪取して、すぐに4冠まで勢いを回復します。渡辺の対羽生の対戦成績は38勝40敗(2019年9月17日現在)です。かつて大山康晴に対して中原誠が大きく勝ち越していた(中原の107勝55敗)ように、時代の旗手が代わる時は直接対決で大きな差が開きます。羽生善治も谷川浩司に対して大きく勝ち越しています(羽生の106勝62敗:2019年9月19日現在)。

羽生の棋力の持続が長くなることで、渡辺が埋没してしまった感があります。平成20年度の竜王戦七番勝負で渡辺は羽生相手に将棋界初の3連敗からの4連勝をして防衛を果たしました。このような流れは、かつて若かりし頃の羽生がNHK杯で名人経験者を連破して優勝したことに被ります。ここから渡辺の時代へと進んでも良かったように思いますが、そうもなっていません。

将棋界には「名人20周期説」というものがかつてあって、そのまま受け取ると名人になるような人材は20年に一度現れるという説なのですが、ニュアンスとしては「一時代を築くような棋士」という感覚の方が近いと思います。最近はそうでもないですが、将棋界の名人は交代が少なく、棋士にとっても思い入れが最も強いタイトルでした。米長邦雄永世棋聖が「名人は神に選ばれたものがなる」と言ったのは有名な話です。

木村義雄(1905年生まれ)通算8期
大山康晴(1923年生まれ)通算18期
中原誠(1947年生まれ)通算15期
羽生善治(1970年生まれ)通算9期

谷川浩司(1962年生まれ)通算5期
森内俊之(1970年生まれ)通算8期
渡辺明(1984年生まれ)名人在位なし

木村義雄→大山康晴→中原誠→羽生善治と、20年前後で時代を築く棋士が誕生しているように見えます。特に大山康晴と中原誠の名人在位期数はずば抜けています。さて、この20年というのは前の世代の棋士が全盛期を過ぎて、棋力が衰え始める時期とちょうど一致していたのではないかと思います。しかし、この20年からズレた棋士もいて、谷川浩司九段も紛れもなく歴史に名前を残す名棋士ですが、大山、中原、羽生といった棋士と比べると、無双的な勝ち方をしていた期間が短かったように思います。それは中原誠ら前世代の棋力が残っていて、後ろから羽生世代がすぐに迫ったという時期的な要素も大きいでしょう。

この20年からズレたという意味で渡辺明も谷川浩司と境遇的には似ているのかと思います。さらに言うと、時代が進むにつれて棋士全体の棋力が上がり、一部の棋士が長い期間勝ち続けるというのはより難しくなっているのではないかと思います。

〈通算タイトル保持数〉
2019年9月1日現在
羽生善治 99
大山康晴 80
中原誠  64
谷川浩司 27
渡辺明  23

大山、中原の時代は今よりもタイトル数が少なかったのでそれを考慮する必要がありますが、渡辺もこれを見れば間違いなく歴史に名前が残る棋士ということがわかります。

さて、渡辺明は今までの先達とは違う空気を持った棋士と言えます。例えば、前の世代である羽生善治、佐藤康光、森内俊之というのは、あまり自分から主張をせずに、自身の対局に集中して、他のことからは一線引いて身を置いているような雰囲気がありました。渡辺はメディアにもよく登場して、ブログを開設するなど自身の表現にも積極的なように見えます。それは将棋の良さを伝えたいという使命感のようなものが強く、過去の一流棋士たちはあえて積極的にしなかったところを、渡辺は果敢に取り組んでいるのでしょう。自身を用いて将棋の普及活動をしていると言えます。

そのような意味では真面目な棋士のように思いますが、誤解も受けやすいようにも見受けられます。一時、将棋界を震撼させた三浦弘行八段の不正疑惑の件に関しても、週刊誌の取材に応じて、結果的に謝罪する事態になっています。その経緯についてはおそらく様々な事情があったのでしょうが、渡辺の性質が悪い方向に出た事件とも言えるでしょう。

さて、話を「将棋の渡辺くん」に戻すと、そんな個性、主張が強い渡辺を陰ながらフォローしている形にも見えます。昔の妻は内助の功を求められましたが、渡辺明、伊奈めぐみは才能に恵まれた新しい時代の夫婦の形のように見えます。

ほんわかした絵柄にほんわかしたキャラクター、ストーリーで、のんびりと読むことができます。それでいて時々、渡辺の人生、勝負観に触れられているところもあって、勝負事に生きている人や盤ゲームにいそしんでいる人は楽しめると思います。絵は簡略なようでも狂いが大きいわけではありません。そのような絵を描くにはそれなりの素養が必要です。「南国少年パプワくん」を描いた柴田亜美を思い起こさせます。

これ以前にマンガを描いたことはなく、美大など絵の専門教育を受けたのかと言えば、そうではないようです。伊奈は将棋棋士の伊奈祐介六段の妹で、自身も女流育成会員(女流棋士の育成機関所属)だったそうです。「なんでこんなに絵が上手いの?」と、小さい頃にマンガを描いていたこともある僕にはそれが驚きです。

僕が難しいことを考えずに力を抜いて楽しめる数少ない娯楽なので、興味がある方は読んでみてください。

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兼業作家。2023年4月『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)上梓。歴史全般が興味の対象ですが、最近は大正~昭和の文化、芸術、演劇、映画、生活史を多く取材しています。プロフィール写真は愛貓です(♂ 2009年生まれ)。よろしければTwitterのフォローもお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。