ありふれたはずの8月6日

【アイキャッチ画像:中村真一郎撮影(以下、特に注釈のない写真は中村氏撮影)】

 大塚のホテルを出ると傘をさしている人がいる。軽く撫でる程度の小雨だったが、地面にはまだらではなく、しっかりと湿った跡があった。歓楽街の顔も持つ大塚なので、仕事を終えた水商売らしき人、そのお客らしき人、背広を着てこれから出勤らしき人など、様々な表情の人々が歩いていた。おそらくその人たちにとって、8月6日は365日のうちのありふれた1日に過ぎないのだろう。

 JR目黒駅の西口から出て、五百羅漢寺へと向かう。いつもは大黒天の木陰に沿うように歩くのだが、この日に限ってはそのシルエットもおぼろげな淡い存在だった。
 8月6日に雨が降るなんて私の記憶にはなかった。小磯一斉さんに聞いたら、やはり記憶にないと言っていた。事務局長の青田いずみさんは「台風の日にやったこともあるんですけどね」と話していた。

 8月6日は広島の原爆投下日である。
 かつて「桜隊」という移動劇団があった。広島に滞在していたために、被爆して劇団員9人が亡くなり、悲劇の劇団として知られる。
 戦前、軍国化を進める当時の日本では、表現、言論も厳しく規制されて、演劇も例外ではなかった。軍部は演劇を国威高揚のために利用しようと考え、大政翼賛会が設立した日本移動演劇連盟に協力しなければ公の場で演劇を上演することはできなくなった。劇団は指示のもと、各地方の軍関連の病院、農村漁村を巡演して芝居を続けた。戦争末期になり、空襲によって東京から地方への移動もままならなくなり、当局は劇団疎開というあらたな命令を出した。劇団ごと地方に常駐させて、そこから周辺に移動演劇をさせるというものである。
 桜隊が選んだのが広島だった。

 当時、広島に滞在していた桜隊の劇団員には、新劇の団十郎とよばれ、今でも名優の誉高い丸山定夫、宝塚歌劇団出身で映画『無法松の一生』で全国的な人気女優となっていた園井恵子、築地小劇場内に設立されたプロット研究所出身で、後に最初の原爆症患者として認定される仲みどりなどがいた。
 終戦後、かつて桜隊と縁があった新劇関係者がこの目黒五百羅漢寺に殉難碑を建立。1970年代から、この8月6日には毎年法要が行われ、現在はそれに伴う平和を祈る催し物を主体とした追悼会も行われている。

 僕も2023年にはじめて参加させてもらい、毎年、殉難碑に手を合わせるとともに、ささいな手伝いなどしている。会場に到着し、旧知の方々にご挨拶をする。昨年の原爆忌以来、1年ぶりに会う方もいて、懐かしくも嬉しくもある時間である。

JR目黒駅から山の手通りへ進み、五百羅漢寺への小道を見た写真。矢印の小道に進んでください(2026年8月6日千和撮影)。
道を歩いて行くと右手に五百羅漢寺があります。階段を上っていただき……(2026年8月6日千和撮影)
階段を上がった左手に会場の入口があります(2026年8月6日千和撮影)。

 8時となり法要が始まった。
 遺族や関係者は本堂に移動し、残った者はホールのモニターでその様子をみる。読経の後、8時15分には平和の鐘を鳴り、一同で1分間の黙祷を行う。
 会の終了後であるが、青田さんや常盤貴子さんが「今年の鐘はずいぶんと響いていた」と話し、他にも何人か同じことを思っていた、ということがわかった。「なんでだろうね」と不思議がった。
 その後、本堂、ホールの者も順番に殉難碑の前に移動して焼香し、法要は終了となる。

会場のホール内観。遺族など関係者以外はこちらで読経の様子をみて黙祷します。
読経と黙祷が終わると、お寺側の案内に沿って本堂の前に移動します。
順番に殉難碑の前でお焼香をします(読経、お焼香は8時からの法要と、10時からの追悼会で2回行われます。8時からの参加が難しい方は10時からの追悼会からお越しください)。

 法要終了後(だいたい8時半くらい)から、追悼会が始まる10時までは少し時間が空く。法要は時間が少し早いので、その時間に間に合わない人たちは、この時間帯に到着する。
 長い時間のようでも久々に会った人たちとお話ししているとあっという間に過ぎてしまう。僕はこの記事用に写真を撮るべく、境内を回っていた。そうすると入口の階段下から、声をかけてくれる人がいた。
 写真や動画の撮影を担当する中村真一郎・順子夫妻である。
 夫の真一郎さんは写真と動画撮影が趣味で、各地のイベント、駅や空港、自然地などに足を運んで写真を写し、それをSNSに投稿している。僕が毎年、法要・追悼会の記事を書けるのは、真一郎さんが撮った写真や動画を提供してくれるからである。人にカメラを向けるのが苦手な僕は、いつの間にか努力をしなくなり(今年は例年以上に撮らなかった)、何かと気にかけてくれるので、すっかり中村夫妻頼みになってしまった。

 一緒に会場に移動して、ホールの後ろで真一郎さんが撮影用の器材を組み立てている間、僕は奥様と世間話をしていた。気がつくと、真一郎さんがいなくなっていた。

「いや、またどこか女の人のところに行ってるんですよ。昔は気付かなかったんですけどね。すぐ女の人のところに行くんです。なんかすぐに仲良くなって話せるんですよね。男の人のところに行くのは珍しくて、だから(夫が)千和さんのところに寄っていくのは本当に珍しいんです」と、不思議な褒め方をされた。

ホールでの誘導、記帳の案内をしていた夏月都さん(左)と谷芙柚さん(右)。中村さん、しっかり撮っています!

 ご主人が戻ってくると、奥様に勧められて、ある質問をしてみた。
「どうしたら、女の人と自然に話せますか?」
 僕はその時の真一郎さんの一点の曇りもない爽やかな顔を忘れることはないだろう。
「それはね、下心をなくすことですね」
 そして「あと、哲学をする女房を手に入れることですね」と付け加えた。

 9時半になり、門のところで小磯一斉さんや石川勝利さんとお出迎えをする。
途中から東久留米からきた間宮みきさんや藤田さんも一緒に立ってくださり、賑やかに来場者を迎えた。
 曇っていた空はすっかり晴れて、気温は例年ほどではなかったが、それでもすぐに汗ばむ気候だった。化粧をしている女性は、いろいろ気を使う役目だろうけど、ニコニコと通り過ぎる人と挨拶を交わしていた。
 ぽつりぽつりと、五百羅漢寺の門を人々がくぐっていく。
「道に迷って、こんな時間になってしまった」と汗びっしょりの来場者の方を見て、(あれ、去年も同じやりとりしなかった?)となんだか、再会の嬉しさも混じった嬉しい気持ちになった。
 今年は例年よりも時間ギリギリ、あるいは遅れてくる人が多かったように思う。
「まあ、いつもこんなもんですよ」と小磯さんは泰然としている。
 劇団新制作座の眞山蘭里さんがあわてて駆け込んできた。
「いや、中央線が停まっていてね。高尾からでしょう。いやあ、まいった」
 ふと、八王子の緑豊かな山々に囲まれた新制作座の稽古場や居住区を思い出した。戦後間もなく結成されて当時の姿勢を守る劇団と、風化と対峙する原爆忌は、どこか共通の背負うものがあるように感じる。

 この日の追悼会の出席者は70名弱。
 ここ数年、100人程度の申し込みがあり、一部はお断りをするほどだったので、用意された椅子は少し寂しく見えた。ただし、省かれた座席部分は柱の影で演目が十分に見えない場所で、今年は第2部で映像を流したので、全員が比較的適切に観覧できるという意味ではよかったかもしれない。

 昨年に比べて申し込みが減った理由については、昨年が戦後80年という節目だったという点、そして、今年は常盤貴子さんが出演する演目がないということもあっただろう。
 僕も今年は常盤さんは来ないものだと思っていた。ところが普通に黒いワンピースらしき装いでホールをスタスタと歩いていた。シーラカンスをはじめて発見した現代人は、きっとこんな気持ちだったんだろう。
「いらしてたんですね」というと、「わたし、今日、受付やるんですよ」と常盤さんは表情も変えずに答えた。「この人は、なにを言っているんだろう?」と僕は首を3回くらい傾げた。
 聞くと、事務が人数不足で、その話をしたら心よく常盤さんが引き受けたという。そして今日は受付で座っているという。やっとの思いで会場にたどり着いて受付を見たら、常盤貴子が座っている……何人の心臓を止めるつもりだろうか。
 さらに常盤さんは「御本(『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』)の購入希望者がいたら、サインしてもらえるんですか?」と聞いてきた。物販までするらしい。
 天下の常盤貴子さんに、書いた本を売っていただけるなんて、国書刊行会(出版元)の神内編集者が聞いたら、どんなに喜ぶだろうか。「ああ、とうとう我が本もここまで来た」と抱き合って泣いたことだろう。しかし、悲しいかな、仕事熱心な神内編集者は今日も出勤中なのである。

 3冊しか用意がなかったが、ありがたいことに全て売れた。この日は受付に常盤さんがいたこともあったのか、ずいぶんと冊子類が売れて、募金も集まっていたように思う。こんなことなら本を50冊くらい持ってくればよかったと痛く後悔した。

追悼会の始まりは今年も山崎勢津子会長の挨拶から。

 今年の追悼会は3部構成だった。
 第1部は江津萩江さんのひ孫であり、俳優の大関愛さんが〈『桜隊全滅』を書いて ―仲みどり追跡―〉を朗読した。この江津の文章はもともとは『彷書月刊(ほうしょげっかん)』という情報誌の1998年8月号に寄稿されたもので、この日販売された冊子『資料集「移動演劇桜隊」』にも収録されている(原文の題は〈仲みどり追跡― 『桜隊全滅』を書いて〉)。

 『桜隊全滅』は1980年出版である。
 先行文献である『ガンマ線の臨終』(八田元夫 未来社 1965年)、『丸山定夫・役者の一生』(丸山定夫 ※1 ルポ出版 1970年)、「苦楽座移動隊日誌」(池田生二 雑誌『新劇』1966年7-9月号)、「移動演劇さくら隊原爆殉難記」(乃木年雄 要約が『広島原爆戦災誌 第2巻』広島市 1971年に収録)などをまとめ、さらに生存者の証言や調査取材をもとに隊員たちの経歴、桜隊宿舎の見取り図、現在地などを記している。プロット研究所で先輩だった仲みどりについては診療記録、剖検記録を調べて、東大医学部で臓器の標本を確認している。
 今は堀川惠子さんの『戦禍に生きた演劇人たち』(講談社 2017年)もあるし、ネットで簡単にまとまった情報が手に入るが、それ以前の時代には「桜隊」のことを知りたいと思っても手に取れる書籍はほとんどなく、この『桜隊全滅』がその役割を一身に背負っていたといえる。私も桜隊に関心を持ち、一番最初に読むことが出来たのはこの本であった。長らく(おそらく現在も)桜隊のことをしっかり知りたいと思ったらこの本を取るべき、というバイブル的存在である。

※1 『丸山定夫・役者の一生』は丸山定夫の遺稿集という構成。

『桜隊全滅』江津萩枝(未来社 1980年 写真は1997年の第4刷)千和撮影

 追悼会の前。たまたま大関さんに少し話を聞くことができた。
「江津は磯部四郎の家系で相当に裕福な家だったようです。でも、自分の家の裕福さが、誰かから奪ったもので出来ているのではないかと疑問を持ち、そのような葛藤がプロレタリアへの関心や演劇の道へ進むきっかけになったのだと思います。そのようなことが自伝に書いてあります」
「え? 江津さんの自伝があるんですか」
「ありますよ」
「それは……」
 僕の顔を見て、たぶん大関さんは何かを感じとったのだろう。
「いやいや、意外に楽天とかで普通に売ってるんですよ」
 笑いながら教えてくれた。そう、国会図書館にしかないとか、古書で1万円以上するとか、普段から資料を探すことをしているとついハードルを高く想像してしまう。
 検索してみると、確かに『メザマシ隊の青春 ―築地小劇場の青春―』(江津萩枝 未来社 1983年)という本が出版されていた。

『メザマシ隊の青春 ――築地小劇場とともに』江津萩枝 未来社 1983年 千和撮影
第一部より。朗読前に挨拶をする大関愛さん。 

 予定の時刻になりステージに一人、大関さんが立つ。迎える拍手の中、江津さんとの思い出、今日への思いなど挨拶が行われた。それから朗読が始まったのだが、ここからはその内容を一部抜粋、追っていく。

 広島の原爆で全滅した「移動劇団桜隊」の追跡調査をする事を内心で決意したのは1977年8月、古びた尼寺であった頃の目黒五百羅漢寺庫裡でもたれた33回忌追悼会の時だった。
 世話人田中正雄があと片付けをしながらポツリと「仲さんが一番長く生きて、東大病院で死んだ事は判っているんだが、まだ誰も調べていない。このままだと風化しちゃうな」と呟いた。その瞬間私の心が閃いた。築地小劇場のプロット演劇研究所で二期先輩、いつも堂々としていて姉御肌の気風(きっぷ)の佳さが魅力的だったあの人……まだ誰も調べていないのなら私がやろう、何年かけてでもトコトン調べてみようと決意した。が手懸りも資料も無い。
(以下別枠による引用は〈仲みどり追跡― 『桜隊全滅』を書いて〉より)

 大関さんはちょうど30歳という。一方で江津さんは1910年生まれなので、この朗読内容の当時は70代半ばということになる。声については特に年齢の考慮や、全体を通じて演技は行われていなかったと思う。若い声なのだが、力強く、そこに江津さんの信念や思いの強さがよく現れていた。
 この冒頭の言葉を聞いて、僕は自分の15年前を思い出した。園井恵子さんの人生をたどる時に、資料はどこにあるのかわからず、存在するかもわからなかった。でも、アマチュアの自分には時間の締め切りはなく、何年かかってもやり抜くのだと誓っていた。江津さんが自分と全く同じことを考えていたようで、胸が熱くなってしまった。

 八田元夫の『ガンマ線の臨終』未来社刊の薄い本が1冊あったが、丸山と園井の死への経路がわかるだけ。団体や組織の力を借りたら東大側が警戒して、充分調べさせてくれないかも知れない。一老友としてお願いするとしても何か糸口はないかと考えた末、翌年の二月朝日新聞の「声欄」に当書してみたところ、二六日の紙面に私の「声」が載った。
 この「声」の反響は大きくて、当時の病院関係者、未知、知友、報道関係などから懇切な教示や助言を様々頂いた。日米講和条約成立後、ドッと堰を切ったように世に出てきた原爆関係の様々な著書、専門的報告書、記録類などの事も教えられ、次々と読み、一心に学ぶうちに、原爆被災全体の中に桜隊の全貌が見えてきて私の仕事は軌道に乗り、1980年8月、著書『桜隊全滅』が未来社から出版された。

 会場で聞きながら「一老友」という言葉がとても印象に残った。「老友」は「女優」とも「老雄」とも響きが近い。実際に聞きながら、どれだろう? と想像していた。どれもこの文脈で使うにはそれなりに含みがある。「老友」はあまり使わない言葉のようにも思うが、仲さんとの関係をここでは友人と表わしていることが興味深い。僕はこの「老友」という言葉に、江津さんが仲さんの間に、余計なものを入れずに、ただの人間同士の関係でありたいという、静かでさりげないけど強い意思を感じた。
 朝日新聞に投書したことで、多くの情報が得られて調査が進展したことは、時代背景も大きいのだろう。現在だとたとえ悪意がなくても、個人情報の観点や企業の事なかれ主義などで、プライバシーに関わる情報を入手するのは難しくなっている。
 確かに社会整備が進んで良くなったことは多くある。しかし、人間の善意を拠り所にした社会基盤がもはや信頼されないものになっていることをこの一節から連想して、少し消化しきれない感情の沈殿したものを残した。

仲は京橋川のほとりで暁部隊に助けられて宇品の臨時収容所に入り、そこで二夜を過ごした。どんな二夜だったか、医療もなく薬もなく、何故の苦難であるかも判らぬまま人々は仲の眼の前で死んでゆく。仲はこの時、自前の強靱な意思と勇気をかきたてて生きる道を考えたと思う。八日午前収容所を抜け出して上り臨時一号列車に乗り込み、十日未明東京杉並の母の家に辿り着いたが苦悶は募るばかりなので16日、東大病院に行き、都築第二外科に入院した。
この時の「剖検記録」は精緻周到を極めたみごとなもので、私は感動のあまり一夜眠れなかった。

 「一夜眠れなかった」という言葉にも僕の意識が留まった。江津さんは医師の剖検記録の見事さとその意思を称賛しているが、医師でもない江津さんに、はたしてどこまでその記録の出来映えがわかったのだろうか。僕も医療従事者だが、剖検記録など普段読まないので、その内容を比較や評価することはできない。矛盾を指摘したいのではない。江津さんは仲さんへの動機をあれだけ語りながら『桜隊全滅』ではきわめて論理立てて、むしろその感情を押し殺して書いているように思える。その江津さんにしても、その時(記録にたどり着いた時)のことを思い出すと、自身の仕事を遂行できた感謝、仲に尽くしてくれたであろう医療従事者への感謝、様々な感情が頭を去来して、論理性を越えた「感情」にいくらか心を支配されてしまったのではないかと思うのである。
 僕は江津さんの残したものを読んで、本来の彼女は思いの強いの人だと感じているので、その部分が出たことに意識が留まったのだと思う。

東大医学部本館内標本室には、仲の破壊された肺組織の一部分と、血液が黄変している大腿骨の切断面の一部が標本瓶の中で、戦争と原爆の惨を今も告白し続けている。

 朗読が終わると、会場は大きな拍手に包まれた。今回の朗読は江津さんの寄稿そのままで、特にアレンジなど加えていない。だけど不思議とその声からは、ただ文章に沿っているだけではない、伝わる何かがあった。

江津萩枝さん(かまくら妙隆寺、丸山定夫碑にて)和田幸夫撮影(撮影年月日不明)

 帰りの電車で大関さんと一緒になり、この日の感想や思いを聞くことができた。
大関愛「曾祖母(江津萩枝)の過去について、親も祖父母もあまり関心がなかったように思います。でも、私は自分が役者ということもあるのか、とても惹かれるものがありました。最近までほとんど何も知らなかったんですが、江津さんが残したものを読むと、私が今まで考えてきたことと一緒なんですね。自分1人で考えていた世界が、江津さんを見ていると一緒だと思ったんです。江津さんがどういう思いだったか、完全に表現することはできませんが、その根底にある核廃絶とか、目指す世界が同じように思いました。山崎さんと青田さんとは2回稽古をしました。田中正雄さんや江津萩江さんが生きた時代を私を介して投影するようなイメージを持っていました。仲さんの標本が眠っているという部分は、私の思い、感情を乗せられたら良いと思っていました。いろいろと思い入れが強くて、どこを出すかどこを出さないか、ディレクションの部分で山崎さんや青田さんには助けてもらい、聞きやすい形にしてもらいました。今回、どのように伝わったかはわからないですが、世代を超えて、私が読んだという力があったのではないかと感じました。やはり、文章を残すこと、語り直すことの力はすごいと感じます。聞いていただきありがとうございました」

 第2部は昨年8月7日に〈戦後80年報道特別番組〉としてテレビ愛媛が放映、その後YouTubeで配信された『亡びるな 生きろ 俳優丸山定夫と桜隊の青春』の上映が行われた。
 僕がテレビ愛媛のスタッフをはじめて認識したのは2024年の追悼会だった。その数日後に劇団新制作座の見学に行ったのだが、眞山蘭里さんがすでに取材を受けていて、さらに今後も予定があることを話していた。関係者への取材も複数回行っているようだった。
 その後も僕が見かけただけでも、2025年の追悼会、今年も4月14日の五百羅漢寺での殉難碑の掃除の時に駆けつけて、愛媛出身の女優・清家朋代さんの取材をしていた。この日も来場して追悼会の様子を13日の番組で報道している(その番組部分は「YouTube」で閲覧可能)。
 愛媛と東京は決して近くない。予算もかかるだろうに、ずいぶんと丁寧に取材している印象だった。完成した番組は、1時間で丸山定夫の人生をまとめたものだった。
 丸山さんの姪・澤田静江さんの証言や所蔵する手紙からは、その人となりが伝わってきた。
 槇村浩吉(桜隊の事務長)の孫・眞山蘭里さんからは証言だけでなく、新制作座の地方公演の様子も取材していた。これは桜隊が行っていた移動演劇の空気が新制作座には色濃く残っているからである。
 途中、『どん底』のルカに扮した丸山の肉声が流れたが、それは古きよき新劇を感じさせて、格調高く、名優と呼ばれた所以を感じさせるものだった。

「わしの知っている男にこの世の中にはきっとどこかに正義の国があると信じていた者があってな、いつかはその正義の国に行けると楽しみにしていたもんだ。ある時、偉い学者先生のところへやって行って、正義の国はどこにあります? ってきいたもんだ。そこで学者先生、地図を広げて、やあ探したわ探したわ。(「見つかったか? 爺さん」と聞かれて)いいや、見つからなかった」(『どん底』ルカ役より)

 丸山定夫の出自からはじまり、よく調べられたドキュメンタリーという印象だった。あまり注目されなかったかもしれないが、戦前の園井恵子の舞台映像(宝塚時代の動画)もあり、丸山の舞台写真も含めて、僕としては映る資料を色々と眺めるだけでも楽しい番組だった。写真や映像がない部分は、桜隊や丸山のもの以外で(例えば「移動演劇」関連の書籍などから)画像を補填しイメージを助けている。新しい発見という意味では少し物足りないかもしれないが、イメージがダイレクトに伝わる映像の特性を生かして、丸山定夫の導入を示したとすれば意義深いと思う。この番組は後続の丸山を研究する者たちにとって、ひとつの入口として手助けになるだろう。

 僕は丸山定夫について、人となりのイメージは少しあるものの、多くの演劇人をひきつけた魅力がどのようなもので、どこからきていたのか、その本質を知るにはまだ遠いところにいる。今回のドキュメンタリーを見て、丸山のことをより深く知りたいと思った人は多いのではないだろうか。僕もあらためて丸山定夫について知りたいと思った1人である。 

第3部の冒頭。トイピアノの鍵盤を観客方向に向けて畑奉枝さんが挨拶。

 第3部は「トイピアノとともに『平和への祈り』」と題して、トイピアニスト・畑奉枝さんのコンサートが行われた(賛助出演:打楽器奏者・椎名友樹)。
 第2部終了後に休憩の時間があり、いつのまにか、トイピアノがステージに並べられていた。僕はトイピアノの演奏を聴くのがはじめてで、イメージしていたのは鍵盤だけのシンプルなおもちゃだった。しかし、壇上に並んだものをみると、本物のピアノをひとまわり小さくした、子供の背丈ほどのものもあった。それはおもちゃというより、精巧なミニチュアのようだった。
 最初に畑さんがデモンストレーションのように、並んだトイピアノを次々に弾いていった。曲名はわからないが、思わずディズニー映画を思い出すような幻想的なメロディだった。実際にトイピアノの前を移動する畑さんは、ピアノを弾くというよりも、どこか音を生み出しているようで、ファンタジーの一場面を連想させた。
 トイピアノの音はそれぞれ違うのだが、どれも共通するのは、繊細で音程は高いけれども響きは必ずしも長く続かない。本物(?)のピアノが力強く、一定の高さを保ちつつ響き続けるのと対照的だった。
聴いている方は、その音がどれだけ続くのか、保証されないままにその世界に身を置く。常に不安定な状態で感性を刺激される。
 畑さんは4月14日の殉難碑の掃除の時に、トイピアノの特質について「未完成」という言葉を使って説明していた。この日も「未完成」という言葉を何回も使っている。確かに一音一音は未成熟で、心に振幅を与えるには不十分かもしれない。しかし畑さんという奏者が加わり、未完成な音が複数重なることで調和して、本来は生まれなかった世界が現れることになった。
 不完全なものが集まることで何かを生み出すという世界は、たぶんやさしい世界だと思う。観客は無意識にその世界への渇望を感じ、トイピアノのメロディを通じて癒されるのではないか。

 畑さんには重度の統合失調症の兄がいる。愛媛ではじめてトイピアノの大規模なリサイタルを成功させて、凱旋のような気持ちで親にトイピアノを見せに行った時のことだ。母親はすでに亡くなっていたが、愛媛の実家には父と兄が暮らしていた。
「これが私のトイピアノなの」
 そこには誇らしさを顕示したい気持ちもあったのだろう。父の前でリサイタルやトイピアノについて語る畑さんの横で、もう何十年も家に引きこもっている兄は「ふん、おもちゃのピアノか」と訝しげに眺めていた。そして、ひとつのトイピアノの前で鍵盤に指をそわせた。
得意げに話していた畑さんが兄の弾く未知のメロディに釘付けになった。それは聞いたことはないが、しっかりした旋律だった。兄は小学校以来、もう何十年もピアノは弾いていないはずなのに。
「お兄ちゃん、なんで弾けるの?」
「音楽なんて、頭ん中にいつも流れている。そういうもんやろ」
 それにしても、なぜ兄はトイピアノに触れようと思ったのだろうか。
「おもちゃやろ。不完全なもんや。兄ちゃんと同じや」
 その言葉を聞いた時に畑さんの目からは止めどめもなく涙があふれ出た。何十年も両親や兄に抱いていたわだかまりや恨み、あらゆる負の感情が涙と一緒に洗い流されるのを感じた。
 それから畑さんは兄と向き合えるようになったという。

 最後の作品(朗読とトイピアノによる構成)『夜明けを飛ぶ鳥』はこの日のために制作されたもので、画家の半田正子の絵を背景に、同じく画家の半田敬史郎の文章を椎名友樹が朗読した。その世界観をトイピアノと椎名さんのメタロフォン(おもちゃの鉄琴)の繊細な旋律が彩る。その音はたしかに祈りのようだった。
 畑さんはSNS上で次のように語っている。

「誰かを」責めるでもなく、「誰かに」懇願するでもなく、「自分は何を?」と自らに問う文と絵に心打たれ、今回のために制作しました。

 『夜明けを飛ぶ鳥』は、戦争中に声をあげずに沈黙を守っていた老婆の告白、自問が作品の底に敷かれているが、それは激しく感情を突き動かす旋律にはならず、寄り添うようなものである。おそらくそれはトイピアノの特性であり、畑さんの育ててきたものなのだろう。

最後は例年通り、浦吉ゆか副会長が閉会の挨拶で締めくくった。
今年も見事な司会ぶりの三輪桂古さんだったが、「移動演劇を〝いじょうえんげき〟と言ってしまった」と最後に噛んだことを可愛く口惜しがっていた。

 毎年、8月6日が終わると、一年の区切りがついたように感じる。前事務局長の近野さんが「昔は今年の追悼会が終わったら、すぐにまた来年の会議を始めるという、そんな感じだったんだ」と言っていたのを思い出す。
 山崎会長は打ち上げの席で「来年は何をしましょうかね」とはやくも心配していた。
 常盤さんは「ここに来ることで、毎年戦争のことを考えることができます」と語った。翌日は能登半島地震復興のシンポジウムのために大阪に向かっている。

 昭和20年の8月6日に原爆が投下されるまで、おそらく8月6日という日に特別な意味はなかった。しかし、戦後81年が過ぎた現在、戦争や原爆の壮絶な痛ましさも風化し、8月6日はありふれた夏の一日に戻ろうとしているのかもしれない。

 毎年五百羅漢寺にくると、時代から取り残された何かが伝わってくる。戦時中や終戦直後の記憶だけではない。原爆忌で集まった桜隊のかつての仲間たちの思い、その時の熱気、そして平成に入り、原爆忌の会が世話人体制から事務局制になり、新たな世代が情熱的に戦争や原爆を捉えようとした2000年以降のエネルギー……。あらゆるものが時間が過ぎて薄れていき、なかったもののようになる。小さな火がまだ五百羅漢寺には残っていて、そこにさらに若い世代が時々通りかかり、物珍しげに見つめる。

 不変のものはないけれど、大切なものを先の時代に繋ぐことはできるかもしれない。たぶん、その記憶もだんだんと薄れていく。時間に抗うのはたいていは人間の愚かさを示すが、この場合は少しの美しさも含んでいるのだろう。
 残されたものをまた来年も見に訪ねたい。

「絶対に女優の横では写真に写らないんだ」という信念を持っていた佐藤成美さんが今年の集合写真では夏月さんの横で写っていました。

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兼業作家。2023年4月『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)上梓。歴史全般が興味の対象ですが、最近は大正~昭和の文化、芸術、演劇、映画、生活史を多く取材しています。プロフィール写真は愛貓です(♂ 2009年生まれ)。よろしければTwitterのフォローもお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。