遺された者たちに過ぎる時間【2024年移動演劇桜隊追悼会記】


 堀川惠子さんの『原爆供養塔』という作品に次のような文章がある。
 去年、2014年の8月5日、広島を訪れた時にこんな出来事があった。
 相次ぐ台風の影響に晒され、町は連日、雨が断続的に降り続いていた。びしょ濡れのまま取材先に向かうタクシーに飛び乗ると、老齢の運転手が話しかけてきた。
「お客さん、明日の式典も、たぶん雨じゃね」
「雨の6日は初めてです」
「私もずっと広島じゃけど、雨は記憶にないね」
 やはりそうかと思い、話題を繫いだ。
「まあ、少し涼しいくらいが、楽でいいですよね」
 そうですね、と調子をあわせるだろうと思ったが、運転手から返事はなかった。信号待ちの車内が急に静まる。何か気に障ったのだろうかと心配になった。
「あんまり涼しくてもね……」
 信号が変わりかけた時、運転手は前を向いたまま口を開いた。
「あんまり涼しくても、……申し訳ないからね」
 エンジン音に紛れてはいたが、彼は確かにそう言った。
――涼しい思いをしては、亡くなった方に申し訳がない。
 ハンドルを握る手の皺、白髪まじりの後姿、七〇は越えていただろう。つぶやいた言葉の先にあった面影は父か母か、それとも兄弟だったろうか。運転手は死者に詫びながら今を生きていた。

(『原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年』文春文庫 2018年 P405)

 8月6日は日差しの強い夏の盛りがよく似合う。たが、今年はやや雲が多く、日が陰った空だった。
 目黒駅から五百羅漢寺への道は去年一度歩いただけだったが、坂の上下を繰り返し、大黒天の樹木がやさしく日陰を作る道は、不思議と懐かしく迷うことなくはなかった。
 一年に一度行われる移動演劇桜隊の法要、並びに追悼会は、五百羅漢寺と移動演劇桜隊平和祈念会(旧原爆忌の会)が執り行っている。昨年の追悼会に講演で呼んでいただき、参加するのは二回目だった。
 この天気は平和祈念会の今年の状況の暗示に思えなくもなかった。メンバーそれぞれの活動もあり、会でお手伝いできる人員は不足して、会長、副会長とも年齢、病気もあり体調も万全ではなかった。

時の過ぎゆく中で

五百羅漢寺本堂

 五百羅漢寺の正門から、一七段の階段を上り、左手の建物が会場であった。昨年、人知れずこっそり会場入ろうとしたところ、青田さん(青田いずみさん:平和祈念会事務局長)につかまり、「お名前は!? 予約はなさってますか!?」と、詰問を受けながら初対面を果たした受付前である。
 今年は去年以上に忙しそうだから、青田さんは大丈夫だろう。本名で予約してあるし、どうせ顔も分からないだろうと、安心してこっそり入ろうとしたら、軽やかに走ってきた三輪桂古さんに横から「あっ! 今日もよろしくお願いします!」と元気に挨拶されてビクッとなった。

 この日は例年通り、8時から本堂で法要、黙祷が行われ、その後に焼香に移る。本堂で読経が行われる中、手を合わせて目を閉じる。

 初めて法要に参加した前回からはや一年が経った。本堂で手を合わせた時、思ったよりも心の内は平静だった。もちろん戦争を直接経験したわけではないが、感情が揺さぶられない自分に疑問と咎める言葉が浮かぶ。
 戦争で凄惨な経験をした人たちを想像すると、自分とは逆で、思い出したくなくても心の傷として抱えながら生きている。自分たちができることは、その人たちや記録と触れて不十分ながら体感することだが、それも日常の中ですぐに忘れてしまう。
 戦争を体験して語ることのできた世代が次々とこの世を去っていって、話を聴くこと、接することができなくなると「不十分であった体感」ですら機会が失われていく。
 放っておくと戦争の存在が頭の中からなくなりそうで、自分の中でも着実に進行する風化を感じずにはいられなかった。

 焼香を済ませて旧知の人たちに挨拶などしていると、朝日新聞の三浦記者(盛岡総局)から声をかけられた。記者でありながら、『五色の虹』『牙』『太陽の子』など数々のノンフィクション受賞作の著者でもある彼は、桜隊の一員である園井恵子さんの記事を書くために取材を続けている。以前に著書のことで取材を受けたことがあり、会うのはその時以来だった。
 『牙』や『太陽の子』はアフリカが舞台だが、そこで起こっている問題にはいずれも日本が関わっている。治安も日本と比べものにならないほど低い地域で、時に命の危険すら感じさせる描写もあるが、社会や人間の闇の部分を浮き彫りにしている。
 そんな彼は一見温和だが、さすがジャーナリストという性質の持ち主で、腰は低いが譲れないものはしっかり持ち合わせている。
 一緒に歩いていると、車道に面した縁石に登って遊んでいる子供がいて、私などは何も考えずにそのまま通り過ぎるのだが、彼は「ほらほら、危ないよ。降りないとダメだよ」と注意するのである。
 この日も参列者の邪魔だと、NHKの機材の置き方に抗議していた。

 三浦記者と話していると、会場の左最後列からこちらをじっと見つめる視線に気がついた。
 隠れていても、その上背で目立ってしまう国書刊行会の神内編集者であった。昨年に『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』を上梓した際の編集者である。
 宝塚歌劇のファンで、本の〝はなぎれ〟の部分を銀色にして、「ここは銀橋をイメージしました」と胸を張るような男なのであるが、ファンとしての分を守ろうとする男で、このような会場で元タカラジェンヌを見つけてもむやみに近づかない。場合によっては、呼んでも「いやいやいやいやいやいや」と頑なに拒んだりする。
 去年のブログでどんなに茶化して書いても文句は言わなかったが、ただ、「宝塚歌劇の大ファンで」という部分については直してほしいと言いだした。不思議に思っていると「自分は比較的新しいファンなので、『大』は恐れ多いので付けないでほしい」ということだった。
 神内編集者と現在取材中の案件のことなど話していると、時間は9時を回っていた。

殉難碑前の焼香の様子

 10時からは追悼会で、9時を過ぎたあたりから大勢の方々が来場する。私は正門前で誘導の役割をいただいていたので、そちらに向かった。
 とはいっても、受付前には佐藤成美さん(昨年の音楽朗読劇『昭和の夏にあったこと』の演出家)や、正門前は他にも小磯一斉さん(俳優)という関係者の方々がいるので、私は高齢の方々にエレベーターの声掛けをして、必要に応じてそちらに誘導していた。
 ゆっくりゆっくりと、参列者の方々が集まってくる。杖をついている方、腰が曲がった方、シルバーカーを押してくる方、車で付き添いの方と共に来られる方、皆、ゆっくりで、ぽつりぽつりという言葉がいかにも似合っていた。この暑い中、皆、静かだった。群れもなさず、一人一人、何かしらの思いを持って来られたのが伝わってきた。

「8時の法要に間に合うつもりだったんだけど、遅れちゃったなぁ」
「こんなに(駅から寺は)遠かったかねぇ。去年はもっと早く着いたんだけど。ギリギリになってしまったねぇ」

 エレベーターへの道を案内する際、皆、優しい笑顔を浮かべていた。桜隊の亡くなったはるか遠い過去を、あるいはそれぞれの自分の過ぎた時間を噛み締めているように感じられた。五百羅漢寺にとって8月6日は、たぶんそのような日なのだろう。

 私が参列者をエレベーターに案内して戻ってくると、たいてい小磯さんがいなかった。車などの来場者に停める先を尋ねられたり、イレギュラーな問い合わせに対して、寺の関係者のもとに走って調整していた。飄々とした雰囲気の小磯さんだが、さすが古参という機敏さだった。

 開演が近くなると小磯さんが声をかけてくださり、私は会場のホールに戻った。すでにホールは満員で、スタッフは遅れてきた来場者用や、演者たちの席を別に用意し始めていた。
 10時からは追悼会だが、第一部が始まる前に読経と焼香が行われる。関係者は本堂へと移動して、人数の関係でそちらに移動できない人たちはホールのモニターで読経を見守った。手を合わせている人、ただ目をつぶっている人、それぞれに思いを馳せていた。
 本堂に移った人たちが焼香から戻ったところで、追悼会前の小休憩に入った。

桜隊2024『手紙』

桜隊2024『手紙』情景

 休憩中にトイレに行っておこうと、建物の入口近くに進むと、美郷真也さんがマスク姿でニコニコと立っていた。
「何してるんですか?」
「ここで案内してるんです」
 聞くと、来訪者に受付票に名前を書いてもらうよう案内する役目だという。時間は10時半を過ぎていたと思うが、まだ数人の参列者が途切れ途切れに入口をくぐっていた。「どうぞ、こちらに。はいこちらにお願いします」と、堂に入った案内ぶりである。

 美郷さんは宝塚歌劇団74期生で、同期には和央ようか(宙組)、森奈みはる(花組)、麻乃佳世(月組)、白城あやか(星組)、渚あき(星組)とトップスターが5人もいる。その煌星のような74期生の中で最期まで歌劇団に在籍した生徒である。宙組の組長という重責を担っていた時期もある。
 何かの席では必ず組長の経歴が紹介されて、ニコニコしながら「いやいや」と首を振るシーンがその度に見られる。神内編集者などは「いやいやいやいやいや、組長ですよ、偉い人なんですから」と10歩くらい下がる勢いである。
 美郷さんの人柄は昨年の記事でも紹介したが、それに甘えてつい絡みたくなってくる。

「美郷さんはとても偉い人だと聞きました」
「えー、偉くないですよ(ニコニコ)」
「みんな、偉いって言ってますよ」
「え〜(ニコニコ)、偉くないですよ〜(ニコニコ)、誰がそんなこと言うんですか〜(ニコニコ)」

……すっかり癒されてしまった。

 美郷さんと話していると、控え室方向の少し離れたところに谷芙柚さん、君澤透さん、常盤貴子さんが立っていた。いずれも追悼会第一部の演者である。こちらに気がついて、常盤さんが手を振ってくれた。
 「緊張しますかー?」と声をかけると、君澤さんと常盤さんは「?」という怪訝な感じだったが、谷さんが気を遣って「私は少し緊張してます」と答えてくれた。
 美郷さんと一緒に「楽しみにしてまーす!」と声をかけると、「ハードル上げるんだから」と常盤さんがつぶやくのが聞こえた。

 休憩が終わり、第一部が始まるとの声が聞こえた。ホールの外で遠目で見ていようと思ったが、金田径子さんら受付のスタッフたちが気を遣って「中に入ってください」と招き入れてくれたので、ホールの入口近くに立っていることにした。
 三輪桂古さんの司会進行のもと、桜隊平和祈念会・山崎勢津子会長の挨拶があり、桜隊についての簡単な概要が述べられた。会場の中にはこれまで桜隊に接点がなかった人もいるだろうから、この説明は導入の助けになっただろう。

移動演劇桜隊平和祈念会・山崎勢津子会長の挨拶

 山崎会長の挨拶が終わると、入口付近では佐藤成美さんが手際よくあちこちに動いて、三輪さんのタイトルコールとともに、私の目の前にあったスイッチに手を伸ばした。照明が落ちて、ホールの入口はわずかな隙間を残して閉じられた。
そこに静かに常盤さんが入ってきた。

第一部は「桜隊2024『手紙』」という題で、桜隊の一員で原爆投下直後に倒壊した宿舎の中で亡くなった森下彰子と、その夫であった川村禾門の二人の手紙をもとに構成された朗読劇である。
 森下彰子役を桜隊平和祈念会の谷芙柚さん、川村禾門役を青年座所属の君澤透さん、語りを常盤貴子さんというキャスティングだった。
 正面のスクリーンではイントロの静かな音楽が流れ、在りし日の森下彰子さんや残された手紙が映し出される。

 気がつくと、自分の少し前に登場を待つ常盤さんの背中があった。後ろ姿の常盤さんをゆっくり見る機会もないので珍しい立ち位置だった。原爆忌の法要で見かける常盤さんは、あたり四方に透明で控えめなオーラを出す印象だった。圧のない、静かで涼しげなものである。しかしこの時はそれとは違い、身体の周りに覆うように、全体の気が逆立っているように見えた。緊張というよりも、厳粛な舞台に心を合わせているようにも思えた。

 スクリーンには川村から彰子に宛てられた最後の葉書の映像が映り、心ここにあらずという様子の君澤さんが現われて最初の朗読が始まる。「宛てない便りを書くような気がして」という言葉は、終戦後に安否が分からなくなった彰子への不安な気持ちを綴った葉書の冒頭である。

左:常盤貴子さん(語り)、右:君澤透さん(川村禾門役:青年座)

 最初の葉書の朗読が終わると、君澤さんに宛てられていたスポットライトが消えて、ほんのりと薄暗い明かりの中、右手に谷さん、左手に椅子に座った常盤さんが浮かび上がった。

常盤(語り)「森下彰子と川村禾門さんが結婚したのは、1944年7月のことでした」
谷(彰子)「今、一緒にならなければ、一生、この人の妻になることはできない」

 召集令状が届いた恋人に彰子は結婚を申し出る。一週間後に出征しなくてはいけないという禾門に彰子は「だから一緒になりたい」と静かに言う。
 日活演技研究所での出会い、演技に邁進しながらも心を通わせる様子が禾門の回想として語られ、結婚時に再び時間は戻る。

谷芙柚さん(森下彰子役)

 離ればなれになった二人は時間を決めてお互いの名前を呼び合うことにした。そして毎月三日の結婚記念日には同じ月を見ながらお互いに手紙を書く約束をする。

谷(彰子)「絶対、絶対約束よ。彰子は、川村禾門の妻として、恥ずかしくないよう留守をお守りしています。寂しくなったら、お月様を見て、あなたを想っていますから」

 出征後の手紙の往復で彰子は「あなた、お元気でね」と綴っている。広島に行くという彰子に禾門は「(危ないから)東京に残ってほしい」としたためた。しかし、その手紙が彰子のもとに届くことはなかった。
 そして戦後… 彰子を失った禾門は再婚し、職を転々としながら生きて行く。その禾門に亡くなったはずの彰子が声をかける。彰子を忘れようとしていた禾門だったが、彼女の思い出もともに生き続けていくことを決意して朗読劇は幕を閉じる。

 終演後に出演者の思いが述べられ、さらに自然と常盤さんが聞き手を務める形でアフタートークが行われた。

 (桜隊の法要に)参加するのは3回目、舞台に立たせていただくのは2回目なんですけど、今回は森下彰子さんと川村禾門さんに焦点を当てるということで、あまりにも彰子さんが〝純〟で、誰にも読まれると思っていない手紙なので、本当に素直で真っ直ぐな気持ちがそのまま書かれていて、それを大切に話したいとやりました。「愛しい愛しい」「大事な大事な旦那様」というのは、私の中では慣れない言葉だったんですが、あの状況下の中で結婚されて、二日後に(禾門は)朝鮮に発たれて、やはり相当に愛しい思いがあったんだろうなと、文面からでも伝わってくるようでした。〈法要に回を重ねて参加したことで変化はあったか? の問いに〉どこかで日常に追われるところがあり、あらためて戦争のことを考える時間をいただけるのはありがたいと思います。あと、この回に参加させていただいていたからこそ、広島に行った時に感じるものが全然違っていて、桜隊の碑を前にやっと出会えた、(一礼して)お待たせしましたという感じでした。何ていうか、とても不思議な気持ちになりました。

君澤 今回演じた川村禾門さんを昨年違う舞台(『獅子の見た夢』劇団東演)で二ヵ月間演じていました。その時は京城(朝鮮)にいる頃が主な舞台でしたが、今回は京城に旅立つ前の姿だったりとか、戦後、川村禾門さんは大変な人生を歩まれたようですが、そういった姿も描かれていたので、またひとつ発見が出来たと思っています。〈昨年、今年と川村禾門を演じて、周りの役者仲間などと何か戦争について話す機会はあるか? という問いに〉昨年の『獅子の見た夢』の時には、二十代の若い人と戦争について話す機会があったのですが、戦争はどこか遠い、今はないものと思っている人が多い印象で、今世界で戦争が起こり日本もこの先どうなっていくんだろうという中で、選挙にも興味ないですという人たちが自分の周りではけっこう多くて… 舞台をきっかけとして戦争を話す機会があったのですが、それを自分のこととして、自分の未来のこととして話せるように、輪を少しずつでも広げていきたいなとあらためて思います。

常盤 会に参加させていただくのは四年目なんですが、なぜここまで、ここに来させていただくのかというと、今までずっと演劇の方々が繫いできてくださったこの会を、ここで途絶えさせてはいけなのではないか。私たちが未来にバトンを渡さなければ、知らない人がほとんどになってしまう。今、私たちは重要な時代を生きていて、ちゃんと未来にバトンを渡す役目を担っているんだということを思っています。私は映像が多いので、園井恵子さんと丸山定夫さんが出られていたように、映画の方の意味合いでいるんですが、皆さんは演劇の方もおられれば、映画に出ている方も、スタッフの方もたくさんおられると思います。みんなで一緒になって、戦禍を生きた演劇人たち、お芝居を愛した人たちをちゃんと後世に伝えて、この戦争というものによって、やりたいこともやれず、言いたいこともいえず、大好きな演劇を続けることもこれだけ難しくなるということを、伝えていきたいと思っています。一緒にぜひ伝えていきましょう。よろしくお願いいたします。

終演後の様子。右から司会進行の三輪桂古、谷芙柚、君澤透、常盤貴子(敬称略)

 槇村浩吉と小室喜代

第二部『桜隊と槇村浩吉』右から眞山蘭里さん、小津和知穂さん(劇団新制作座)

  第二部は、劇団新制作座の眞山蘭里さんと小津和知穂さんが『桜隊と槇村浩吉』という題で講演をした。
 桜隊のことを少しでも調べたことがある人なら、槇村浩吉さん(本名:小室新之助)については桜隊の事務長であり、原爆投下後の広島に八田元夫とともに安否を確認しに入市し、妻・喜代さんや隊員たちの遺骨を確認したことなどが印象に残っているだろう。
 私の記憶に残っているのは、遺族などに事務長として送った謝罪の手紙である。劇団を代表して広島行きの不明を謝罪するもので、それを見て、槇村さんには律儀で理路整然とした印象を勝手に持っていた。感情をあらわにして、著書でも憤りを隠さない八田元夫と比べると、妻・喜代さんの遺骨を発見しても取り乱した様子がない槇村さんは、どこか静かで落ち着いた事務方の人物というイメージだった。

 前もって少し補足をすると、戦後に槇村さんは、眞山美保さん、草村公宣さんとともに劇団新制作座を設立し、後に眞山美保さん(女優・作家)と再婚する。12歳下の眞山さんは初婚だった。眞山さんと槇村さんは八王子にある劇団新制作座の施設内で暮らし、残された槇村さんや先妻である小室喜代さんについての資料も、現在は同劇団の理事長である眞山蘭里さんが管理している。
 眞山蘭里さんは幼い時から新制作座の施設内で過ごし、晩年の槇村さんについてもよく見てきた。小津和知穂さんは18歳の時に劇団に入り、『泥かぶら』の17代目も拝命した。現在は19代目の泥かぶらの育成や演出、企画制作を務めている。
 劇団は数年前から法要に献花をしていて、お二人は花だけでなく実際に五百羅漢寺に足を運んでいた。今回の講演はそこから平和祈念会が依頼したことがきっかけだった。

この日も劇団新制作座から殉難碑横に献花された。

 拍手の中、二人が壇上に上がると、まずスクリーンに山伏のような老人の映像が映し出されて、矍鑠とした男性の口上が場内に流れた。1985年に槇村さんが冒頭を務めた『泥かぶら』時の写真と録音である。『泥かぶら』は眞山美保のはじめての戯曲で、1952年に愛知県一宮市で初演された。眞山美保自ら演出、主演を務め、後に文部大臣奨励賞を受けた。現在に至るまで新制作座の看板であり、根源といえる作品である。
 続けて小津和さんが眼鏡をかけてマイクの前に立ち、槇村さんと喜代さんの紹介が行われた。

 槇村浩吉さんは1911年東京都銀座出身。新築地劇団では昭和初年以来、東野英治郎と並ぶ新人と称された。後に苦楽座に参加、原爆投下時には東京に俳優探しに戻っていたため難を逃れる。
 小室喜代さんは1915年福島県出身。1934年東京都立麻布尋常小学校の教諭となり、薄田研二夫妻の仲人で槇村と結婚。桜隊に参加した当時は小学校は集団疎開し、東京の自宅も空襲で焼失して、桜隊に参加するのは選択の余地がない状況だった。夫不在中の広島で被爆して命を落とす。

 戦後の槇村さんはテレビ放送が始まる前、「おらあ三太だ」(NHK)「あいうえおじさん」(ラジオ東京)などの朗読で人気を博した。1950年に眞山美保さん、草村さんとともに劇団新制作座を創立すると、「日本中が劇場」「大衆の中で大衆のための芸術を続ける」という信念のもと、日本各地を公演で回るが、当初の経営が軌道に乗らないうちは、槇村さんがラジオやテレビで稼いでくるお金が頼りだったという。
 やがて劇団の経営が軌道に乗ると、槇村さんもテレビやラジオを捨てて、劇団員たちと一緒に日本全国を回るようになる。

 戦争の爪痕が徐々に目の前から消え始めた1953年、眞山美保の第二作となる『草青みたり』は「悲しみを力に変えて、楽天主義を武器に」という精神のもと、槇村さんの朗かな声から始まったという。その再演が眞山蘭里さんの手によって行われた。

眞山蘭里さんによる『草青みたり』冒頭部分の再演

 新制作座の劇団員たちの墓は舞台を模して作られていて、それは「モニュメント」あるいは「記念碑」と呼ばれている。正面には眞山美保とその父である眞山青果の言葉のレリーフが掲げられている。そこには槇村さんとともに、広島の宿舎跡地で槇村さんが拾い集めた喜代さんの骨が小さな壺に入って眠っているという。
 お話が終わった後、こちらは青田いずみさんが聞き手でアフタートークが行われた。

眞山 桜隊時代に、若い時に、各地を回った槇村の記憶が、我々新制作座の土台になっているのではないかと思います。戦争については寡黙でしたが、熱いところは熱かったです。〝拳闘〟〝拳闘〟と言って、よくボクシングのタイトル戦をビデオに撮っておくように言われました。あと麻雀が強かったですね。うちの劇団はまず麻雀を覚えさせるんです。それは、一緒に遊べないやつと一緒に全国を回って演劇なんかできないっていう、そういう考えなんですね。喜代さんについて槇村さんから聞いたことはないんです。眞山美保と再婚したでしょう。そのところで遠慮もあったのかもしれません。さきほど(第一部で)川村禾門さんが森下さん亡き後に写真を燃やして忘れようとしたでしょう。それと同じだと思います。(芝居に対しては)とにかくストイックで、我々には優しくて親しみやすいところもあったんですが、とにかく勉強熱心で、一人で(脚本の)全役を読んで、全部録音して、それを始終聞き直して、また勉強するという、それを毎日やっていましたね。悲しみとか苦しみとか山ほどあったと思うけど、それを全て演劇に注ぎ込んでいたんじゃないかと思うんです。

小津和 私が18歳で劇団に入った時には、もう槇村先生はだいぶお年だったんで、ですから、皆さんに「槇さん、槇さん」って。「また槇村先生、甘いもの盗んでいっちゃったー」って。もう、とても大きく包んでくれる、若い人を愛して、大きな翼みたいな、安心感があって… そんな感じでした。それでいて面白くてね、懐かしいです。

第二部終演後のアフタートークの様子。左から進行の青田いずみ、小津和知穂、眞山蘭里(敬称略)

未来に繫ぐバトン 

殉難碑前で焼香に並ぶ列

 第二部が終わり、来場していた桜隊の関係者から一言ずつ挨拶があった。「園井恵子を語り継ぐ会」の柴田和子会長、佐々木光司事務局長、続いて遺族を代表して、木南直樹さん(丸山定夫の姪の子供)が挨拶をした。

柴田会長「園井恵子の人生を語り継がなくてはいけないという思いで、30年間取り組みを続けております。広島の閃光のもと、人生の全てを一瞬にして失った、園井さんをはじめ、桜隊の方々のことを伝えていかなくてはいけないとあらためて思いました」

木南様「これは遺族の会ではありません。新劇人の会です。あの苦難の時代に芝居を通じて何かを伝えたい、それで原爆という暴力により命を絶たれてしまった、その新劇人の熱い思いを伝えるところだと思っています。それをいかに後世に伝えていくかが重要なことで、今後も続けていくためには、若い人たちの力が必要だと思います」

 最後に平和祈念会の副会長である浦吉ゆかさんが終演の挨拶を述べた。

「今年はオリンピックのことで世界が賑わっておりますが、オリンピックは平和の祭典だったと思います。しかし、まだ残念なことにロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのガザ空爆は終わっていません。平和だからこそスポーツを楽しめる、これは芸術にも演劇にも言えることです。桜隊の隊員たちが夢半ばにして、原爆の犠牲になってしまった。日本を二度と戦場にしてはいけないと思います。そして若者たちの生活や将来を奪ってはいけないと思います。来年は戦後80年です。戦争を実体験し、そういう方が減ってくる中で、この思い半ばで亡くなられた人たち、このことを語り継いでいかなくてはいけないと思います。今日はお暑い中、お集まりくださいまして、ありがとうございます。この会はこのようにお集まりいただく方、周りで支えていただく方があってこそ続けていけます。これからもどうぞよろしくお願いいたします。本日はありがとうございました」

浦吉ゆか(平和祈念会副会長)による終演の挨拶

 満員だった会場がひと席、またひと席と空席になり、スタッフたちは後片付けを始めた。残った来場者たちはそれぞれ挨拶をしたり、記念に写真を撮ったりしている。

 スタッフと関係者一同の集合写真に今年も写らせていただいた。
 シャッターを押そうとすると、別のスタッフの姿が見えて「入って入って!」と中断する。
逃げ出すスタッフもいる。
 「お母さん! お母さん! 入って!」と声をかけられた女性がいて、「誰のお母さん?」と誰かが聞くと、「私のお母さんです」と三輪さんが言って、笑いが起こった。隣にいた佐藤成美さんが、女優2人の後ろは嫌だと言って場所を変わった。
 日本はまだ平和なのだと思う。

 第二部のアフタートークで青田さんは「今年は意識したわけではなかったが、期せずして亡くなった隊員だけでなく、川村禾門さんや槇村浩吉さんという生き残った人たちの話にもなった」と語った。
 新藤兼人監督の映画『さくら隊散る』の中で槇村さんは証言者として登場したが、そこで、妻であった喜代さんの話は一切されていない。川村さんは残された彰子さんの写真を燃やしてしまったという。愛する人を失った心の傷に向き合うのは、残酷すぎるほどの苦しみを伴うのだろう。
 もし、森下彰子が生き延びたとしたら、その後はどうなったのだろうか。周りと同じように年をとり、夫の悪口を陰でたくさん言う妻になったかもしれない。小室喜代は、演劇で全国を回ろうとする夫に戦後は付いていったのだろうか。あるいは教職に戻り、たくさんの教え子をまた世に送り出したのだろうか。
 生き残った川村禾門さんと槇村浩吉さんの人生は深い悲しみと苦しみを背負ったものだったに違いない。しかし川村さんは新しい家族を持ち、槇村さんも新しい家族を持って、自身も設立した劇団で一生を演劇に費やした。それは喜びが全くない人生だったのだろうか。
 生きている者には生きるための義務が伴う。悲しみや苦しみも避けられない人生の過程のひとつである。平和な世の中に生きて、悲しみや苦しみを味わっていたとしても、そこに何か喜びを見いだせるとしたら、それは幸せな人生なのだと思う。少なくても、広島の原爆で命を失った9人が望んでも得られなかった未来である。
 常盤さんが話していたように、その平和を維持していくために未来にバトンを繫ぐのもまた、今の日本に生きる人たちの義務だろう。
 この日、劇団新制作座の眞山蘭里さん、小津和知穂さんは「勇気づけられた」と御礼を何度も口にしていた。それは受け継いできたものを次世代に繫ぐ難しさを、身をもって感じているからだろう。「移動演劇桜隊平和祈念会」も「園井恵子を語り継ぐ会」も思いは同じで、だからこそ共鳴するものがあったのだと思う。

  来年の自分はどのように生きているのだろうか。
 来年もこの場所に来られるだろうか。
 そして来年は8月6日らしい快晴なのだろうか。

演者、スタッフ一同の記念写真
 この記事の作成に当たっては、桜隊平和祈念会の中村真一郎様から写真を提供していただき、当日の動画も閲覧、確認させていただきました。また法要と追悼会においては、ここで紹介した他にも、多くのスタッフ、協力者の尽力のもと成り立っています。それらの方々に心から感謝申し上げます。

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ABOUTこの記事をかいた人

兼業作家。2023年4月『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)上梓。歴史全般が興味の対象ですが、最近は大正~昭和の文化、芸術、演劇、映画、生活史を多く取材しています。プロフィール写真は愛貓です(♂ 2009年生まれ)。よろしければTwitterのフォローもお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。