過去の恨みがなくならない人に伝えたいこと②

 このブログ、開設当初は人生の生き方や考え方など、普段自分が思っていたことをツラツラと書いていたのですね。でも、色々と考えが深まるにつれて、気軽に書けなくなってしまい、その方向の記事は長らくご無沙汰になってしまいました。

 人によって与えられた環境も、持っている性質も違いますし、同じような境遇でもその人の成長過程によって答えが変わることもあります。ただ「こういう問題にはこう考えれば良い」という、シンプルな図式の記事を書くのが自分の中で難しくなったのです。今、初期の記事を読むと考えが足りないように思うところもあり、少し恥ずかしくなります。

 あまり閲覧数も多くないブログですが、本当にごくたまにですが、コメントをいただくこともあります。思って見なかった記事が閲覧数が多いこともあります。この「過去の恨みがなくならない人に伝えたいこと」(2019年7月4日)は閲覧数は多くないのですが、時々コメントをいただいていました。たまたま朝起きたら、新しいコメントが入っていて、このお返事をしながら、記事の更新をしてみようと思った次第です。

コメントを引用させていただきます。

共感しました。過去の恨みを忘れられないのは当時その問題に対してうまく対処できなかった弱い自分を、現在の自分が完全に受け入れられていないのだと思います。当時相手に抵抗せず自分を大切にできなかった無力感が消えずに、10年以上前のことが今でもこみあげてくることがあります。立ち向かわなかった無力感、悔しさはどのように癒せますか?自分の弱さとの向き合い方で役立ったご自身の経験をシェアしてくださるとありがたいです。この記事で初めてブログ拝見しました。他の記事もこれから読ませていただきます。

 その時の記事では、過去の恨みのなくならない理由を「その時に上手く対処できなかった自分を許せないから」と結論づけています。読み返してみて、ただ一方的に考えついたことを述べるだけで、ずいぶんと未熟な記事だと思いました。そこからこのように肯定的な部分を見出していただき、この方自体の謙虚なお人柄も伝わってくるようです。

 「過去の恨みがなくならない」理由について、もう5年ほど前の記事ですから、自分の考えも少し変わっていて、もちろん「その状況に上手く対処出来なかった自分自身の弱さを許せない」という記事の要素はあると思うのですね。でも、他にも様々な要素があって、やはり人間は自分が大切で生存欲求も承認欲求もありますから、自分自身のアイデンティティや場合によっては直接身体に危害を加えられたことに対する心の傷は残ると思うのです。原始時代ではその痛い経験を生かして、次の危険を回避する知恵に繋げていたのだと思います。また、「こうあるべき」という倫理や道徳から外れた相手に対して許せないという気持ちもあると思います。仏教では「執着」などと呼ばれますよね。

 様々な要素があると思うのですが、さて自分に当てはめて考えると、いまだに「過去の恨みを忘れられない」ことはあって、それは記事を書いた以降も新たに遺恨が生まれたりもしています(笑)
 解決する方法ですが、決まった答えがあるわけではないですし、ひとつの何かが癒やすわけではなくて、いくつもの要素が複合的に治していってくれるものだと思うのですね。私もそうなのですが、何か問題や悩みがあると、それを解決してくれるひとつの答えを求めがちなのですが、そういう特効的な都合の良い答えはなかなかありません。
 それに心の傷ですが、強さによっては完全になくなることはないのかもしれないと思います。なので、それを少しでも癒やして、どうやって生きて行くべきかという論点について、私なりの考えをいくつか述べさせていただきます。

  ひとつは、人間はいつもあること(記憶)を心にとどめておくことはできません。目の前でたいへんな事態があったら、そちらで頭が一杯になると思います。良いことでも悪いことでも、上乗せされると過去のものは一瞬でも消えて、強いものでも徐々に薄れていきます。少しずつでも時間が経つにつれて癒やされていくということですね。そのことをまず心に置いていてほしいです。
 なるべくなら、心の傷の上に優しい思い出を積み重ねていかれるのが良いと思います。コメント主様のように無力感や悲しい思いをされたなら、そのことで人の痛みが分かるのではないかと思います。他人に優しく誠実にお付き合いするうちに、人間関係も豊かになり、優しい思い出が上乗せされることで、心の傷はなくならなくても少しずつ薄れていくのではないかと思います。

 何かに悩む時、人間は視野狭窄に陥ります。自殺する時などは最たるものです。しかし、自殺を思いとどまった人が振り返ると、あの時思いとどまって良かったと言います。
 今、囚われているその心の傷の出来事は、現在の自分に実際に何らかの被害を与えているのか? たいていはそんなことはないと思います。影響がない出来事を囚われていることで、貴重な時間を浪費し、そのことによって失われている大切なものがあるかもしれません。冷静に捉えれば、その傷自体は存在していても、現在の自分には必要がないようにも思えます。
 理解しても囚われるゆえに「深い傷」なのですが、忘れることはできなくても、まず、何か問題や悩みに囚われている時は視野狭窄に陥っていることを理解してください。

 あまり、深刻でなく軽い恨みを書かせていただくと、もう10年以上前になりますが、あるハンバーガーチェーンで注文しようとしたところ、目の前に客はいなかったのですが、他の客の注文を袋に詰めていたのか、「待っていてください」と言われてすぐ横の椅子に座っていたのですね。そうしたら、後から来た客がカウンターの前に並び始めて、店員さんも言い出せずにそのまま注文を聞き始めたのです。店員さんが「あちらに一人待っていますので」と言っても良かったですし、私の方で「すみません、先に待っていましたので」と言って入れば良かったのかもしれないですが、当時の自分は言い出せず、結局一番後ろに並びました。その時間にお客さんが集中して結果的に5人くらい後でした。自分の番が来た時、こちらは一言も文句も言わず、店員さんからも少し気まずそうでしたが謝罪の言葉はありませんでした。
 大したことではないのですが、いまだに時々思い出して腹が立つのです(笑)

 しかし、視野狭窄という観点から説明すると、スマートに一言いって列の前で注文すれば一番良かったのでしょうけど、並ばされた後に例えば店員さんを怒鳴ったとしたらどうでしょうか。それはそれで自分の器の小ささを感じて嫌な思い出として残ったと思うのですよね。人を傷つけなかったことで自分が多少傷ついたかもしれませんが、冷静に比べてみれば、我慢したのもそこまで悪い選択ではなかったとも思います。人間はもうひとつの選択肢を実感を持って想像しにくいのですが、苦痛を受けた選択も長い目で見れば大きな間違いではなかったともとれるのですね。

 もっと深刻な恨みもあって、今も時々思い出して、身体が燃えるような怒りに心が奪われそうなことも全くないわけではないのですが、目の前の問題ややることに追われていると、それもまた引っ込んでいます。もし、天災や戦争が目の前にくればそれどころではなくなると思いますが、スケールが少し違いますが同じような原理だと思います。

 人生には理不尽なことも多くありますが(むしろ理不尽なことばかりですが)、長い視野で見れば、積み重ねていたことがそれなりの結果で出ると思います。視野を広く持ち、人格と知恵を磨きながら、誠実に目の前のことに取り組むことで、身の回りの状況も変わり、結果的に辛い思い出も肯定できる、あるいはいくらか癒やされる日が来るのではないかと思います。

 少しきれいごとに感じられるかもしれませんし、あくまで考え方のひとつですが、何か少しでも得るものがあれば幸いです。

2 件のコメント

  • コメントの返信と新しい記事のアップありがとうございます。私は人と対立したり揉めるのが心理的負担で、相手が高圧的だったり強い立場だと、自分のニーズを満たせずに諦めてしまうことが多かったです。しかし、それではその場は収まっても、時間が経つにつれ自分が心に傷を負って苦しむことに気づき、これでは理不尽な世の中には対処できないと学びました。トラブルに直面したときに自己犠牲的にならずに自分を大切にするためにも、適切な自己主張は必要で、時に相手と揉めることは避けられないのではないかと考えるようになりました。本心に沿う行動をとれず、自己犠牲をしてしまうと恨みになりやすいというのが私の考えです。自己犠牲をしないことが今後新たに恨みを抱かないための予防策と考えていますが、その点どう思われますか。よろしければお聞かせください。過去の恨みに関しては、自己の決断と選択の責任からは逃れられないので、人生経験を積み心の器を広げるうちに自然と徐々に癒されていくのを待つしかないのかと、ブログを拝見して改めて感じました。自分が成長して視野が広がり、抽象度の高い視点で見れるようになると、過去の受け止め方も変化していくと思いました。

    • そうですね。まず人と対立したり揉めたりするのは私も心理的負担です。以下の文についてもとてもよく分かります。仰ることを考えていく上で、まず世の中には全く話にならない状態もあって、暴君みたいな人や、どうしようもない劣悪な環境ですね。それは何とかしてその場を回避する(場合によっては逃げる)しかないと思うのですよね。そういう場合を除いて、ある程度関係を築ける人や環境が相手という前提でお話させていただきます。

      「これでは理不尽な世の中に対処できない」と仰っているんですが、すでに立派にこの世の中に対処されているのではないかと思います。生きている以上はお互いにニーズがあり、お互いのニーズを調整しながら生きるものだと思いますが、私は簡単に譲れることなら譲った方が良いと考えています。自分の自己主張を通す手段もあって、そういうテクニックもあると思うのですが、実際に自分もやられた経験があるのですが、やられた方はそれなりに覚えているんですね。恨みを買う立場になるわけです。そういう恨みを買い続けるような人間に周りは近寄ってきません。人生は人間関係が肝要ですから、そのような状況では豊かな人生は送れないと思うのですね。恨みやわだかまりもそれはありますけど、それはどう生きても、たぶん自己主張を通してもその先で新たなトラブルを生むと思うのですね。それだったら譲れるところは譲って「与える」方が良いと思います。きれいごとばかりでは難しいこともありますけど、原則はこういう考えですね。

      私は仏教徒ではないんですけど、この動画(「大愚和尚の一問一答」)に出てくる相談を思い出しました。途中の「悪友に搾取されることはありますよ」という点に注意して理解していただければ、参考になるのではないかと思います。
      https://www.youtube.com/watch?v=i1lYUj9tv4o

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    ABOUTこの記事をかいた人

    兼業作家。2023年4月『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)上梓。歴史全般が興味の対象ですが、最近は大正~昭和の文化、芸術、演劇、映画、生活史を多く取材しています。プロフィール写真は愛貓です(♂ 2009年生まれ)。よろしければTwitterのフォローもお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。