日本シャンソン100周年に向かって 記念コンサート&第2回シンポジウム(2025.6.1)

 宝塚少女歌劇団が昭和2年に『モンパリ』を制作して、2027年で100年が経つ。モンパリが日本語訳を付けられた初めてのシャンソンという史実から、宝塚という地域で「日本シャンソン100周年に向かって」というシンポジウムがシリーズ化されている。
 「日本シャンソン100周年にー」は長年、関西を中心に文化活動のプロデュースをしてきた河内厚郎氏が実行委員長で、宝塚在住でシャンソン歌手として活躍する須山公美子さんとともに企画が進められている。

 昨年12月に第1回が開催されて、この6月1日は第2回である。第1回は宝塚歌劇団出身の風かおるさん、瀬戸内美八さん、関西シャンソンの長老格の川島弘さんがゲストに迎えられて、コンサートとともに、宝塚歌劇団出身で講師としても長年活躍された、深緑夏代さんについての回顧が行われた。
 第2回はもう一度、宝塚について深く掘り下げることが目的で、主催者から、岸田辰彌、白井鐵造、高木史朗の3人の演出家を軸に、宝塚とシャンソンの関係についてお話ししてほしいと依頼があった。
 岸田先生は『モンパリ』でシャンソンにはじめて日本語訳をした人物とされているし、白井先生は岸田先生の後を受けて、宝塚にレヴュー黄金期を築いた演出家である。高木先生は戦後に『シャンソン・ド・パリ』などいくつかのシャンソンを題材にしたレヴューを発表している。

 自分には過去に戦前のタカラジェンヌ・園井恵子の著書があり、現在は深緑夏代、千秋みつるという元タカラジェンヌであり、シャンソン歌手の姉妹の取材をしていて、その活動が依頼のきっかけであった。

 このシリーズは基本的に二部構成となっていて、一部はシンポジウム、二部はコンサートという形になっている。この日の第二部は須山さんと桐さと実さん(宝塚歌劇団61期生)のコンサートが予定されていた。

 事前に一部のトークと二部を上手く連携させるために、須山さんとやり取りをしていたのだが、いくつか要望を出した。ひとつ目は岸田先生、白井先生、高木先生の訳詞作品をバランス良く構成してほしいという点、ここから結果的に岸田先生作詞の『ハレムの宮殿』という曲が加わった。ふたつ目はラケル・メレの曲を加えてほしいという点で、彼女は白井先生がジョセフィン・ベーカー、ミストンゲットに次いでパリで人気があったと評している歌手だった。ここから『おゝセニョリータ』という曲が加わった。
 あと、もうひとつ要望があって、それは『ローズパリ』の挿入歌である『算術の歌』、『花詩集』の挿入歌である『大将となるには』の2曲をラインアップに入れてほしいというもので、この2曲は歌劇団の節目の記念誌などの年表で、よく紹介されるちょっとした歴史的な曲だった。前者はエッチンタッチンの愛称で人気だった橘薫さんと三浦時子さんのコンビ、後者は天津乙女さんが歌っていた。
 この3つ目の要望は結局伝えることはなかった。典型的なコミックソングで、時代的にもズレがあり、現代の歌手に歌わせるのはあまりに気が引けたのだ。

 4月になり、須山さんから送られてきたコンサートの曲目を見て驚いた。伝えなかった『算術の歌』と『大将となるには』が「白井鐵造メドレー」というタイトルのもと、しっかり曲目に加えられていたのだ。さらにメドレーには『ホテルペキン』『サルタンバンク』も並んでいた。
 戦後には高木史朗作詞の『シャンソン・ド・パリ』と『華麗なる千拍子』由来の曲が並び、この曲目を見た時、心が浮き立つばかりであった。
 歌を通じて昭和30年ほどまでのレヴューや宝塚の歴史を回顧できるプログラムになっていた。

 6月1日。開場は13時半であるが、コンサート(第二部)のリハーサルが見たくて、10時半ほどに会場に入った。その出来によって、第二部に繋げる言葉も少し変わってくるというのもあるが、早くどんな歌になっているのか見てみたかった。
 会場近くの仁川駅は、阪神競馬場の最寄で、競馬場側の出口を降りると、直接繋がる地下通路の入口がある。この第2回シンポジウムは当初、15日の予定だったが、その日がGⅠ宝塚記念の当日だったため、河内先生が機転をきかせて、この1日に変更した。

会場の宝塚市公益施設「さらら仁川」

 会場のさらら仁川に入ると、すでにリハーサルは始まっているという。私服の須山さんが歌っていて、それを同じく私服の桐さと実さんが座って聞いているという構図だった。一曲が終わるとマイク越しに須山さんから声を掛けられた。すぐに桐さんが近くに駆け寄ってきて「桐です、今日はよろしくお願いします」と頭を下げられた。
 桐さんは、このコンサート当日を迎えるまで須山さんに何度か会っていた。依頼を受けても当日に音合わせをして、それで済ませる演者も多い。気を使う須山さんに、桐さんは「ほら、顔合わさなくちゃ分からないこともあるじゃないですか」と積極的に打ち合わせに取り組んだ。その後もピアニストを交えた音合わせを2回ほど重ねて、この日を迎えている。

 リハーサルの須山さんと桐さんは対照的で、須山さんは「ここをもう少し〇〇」「ここはどちらが良いと思いますか?」などとピアニストの吉田幸生さんに聞きながら、直前まで細かいアレンジを加えていた。一方の桐さんは一度歌って、それでおしまいであった。

 今回歌う曲は、戦前のものも多く、中には公演以来1回も歌われていないのではないか、というものもある。「すみれの花咲く頃」や「宝塚 心の故郷」などはその後も歌われてきたので、時代を経た洗練が加えられている。しかし、今回歌われる多くの曲はそのような時代の風にさらされず、いわば長い時を眠っていたようなものである。そのような曲を現代の歌手に歌わせて良いものだろうか、と少し思うところがあった。
 しかし、現代の歌手が久々に蘇らせると、メロディに多少の時代の差は感じさせるものの、現在聴いても楽しく、美しさを感じさせるものが多かった。
 これなら第一部でどんなにコンサートの期待感を高めても大丈夫だと確信した。

リハーサルの様子

 控室で過ごしていると、河内先生が奥様を伴って到着された。挨拶をするや否や、素早く鞄から原稿を取り出した。それは第一部の発表原稿で、はっきりと線が引かれていた。「ここ、おかしくない? 時代が100年くらいズレてるよ」と言われた。外国の話で、資料をそのまま引用したのだがそれが間違いだった。「これは〇〇の間違いだと思うなぁ」など指摘される先生をよそに、病気をしてもまだまだ健在だと(自分がした間違いを脇に置いて)嬉しくなった。

 第一部はさらら仁川の藤原館長より挨拶があり、続いて河内先生から当シンポジウムの趣旨が説明された。
 お話しするテーマは「戦前戦後に宝塚からシャンソンを発信したパイオニアたち〜岸田辰彌、白井鐵造、高木史朗」というもので、宝塚とシャンソンの関係を、その3人の先生を軸に話すという内容だった。岸田、白井の両先生は、宝塚における洋物路線やレヴューを日本に定着させた存在であるし、高木先生は戦後に多くの意欲作、名作を生み出し、「華麗なる千拍子」では宝塚初の芸術祭賞を受けた。いずれも宝塚だけでなく、日本の芸能という括りにおいても、歴史的な演出家といえる。

【概要】
 岸田先生がアメリカとヨーロッパの外遊から帰り、昭和2年に日本初のレヴュー『モンパリ』を発表するが、岸田先生はそこでシャンソンの「モンパリ」も持ち帰り、日本語訳をつけて舞台で歌わせた。これが日本語訳により歌われたはじめてのシャンソンと言われている。その後、レヴューの人気に伴い、白井先生もアメリカとヨーロッパに渡り、帰国後は『パリゼット』『セニョリータ』『ローズパリ』『花詩集』など次々にレヴューの名作を生み出す。白井先生の作品には岸田先生以上に外国の楽曲が取り込まれていて、それが作品の雰囲気をより高めた。同時にシャンソンをはじめ、それらの歌はまだ西洋音楽に馴染みのない観客に新しい時代の音楽の到来を感じさせた。昭和15年ほどから戦争のために日本とシャンソンの繋がりも断絶していたが、終戦後、高木先生がヨーロッパに渡り、帰国後の昭和27年にレヴュー『シャンソン・ド・パリ』を発表する。3ヵ月後に日本劇場で「巴里の唄」というシャンソンコンサートも開催されて、このふたつの公演は昭和20年代後半から30年代にかけての爆発的なシャンソンブームへと繋がっていく。

 このシンポジウムは予定が全て終了した後に、書籍が制作されて、今回の話も収録される予定とのことである。内容について詳しくは、その時にまたあらためて読んでいただければ良いが、所々に登場する宝塚のレジェンドたち、例えば天津乙女さんとか、深緑夏代さんとか、越路吹雪さんとか、往年のスターの名前が出てくる度に、頷きは強くなり、目が合うと、その熱い思いがダイレクトに伝わってきた。
 宝塚とシャンソンを愛する人たちが集まっていたのだろう。同時に宝塚OGにせよ、シャンソン愛好家にせよ、何かしらの芸の道を進んでいる人たちである。古き良き時代のレジェンドたちの熱い軌跡に共感してくれたのだと思う。

 私からの話が終わり、続いて河内先生とのセッショントークの時間になった。アドリブが苦手な自分としては、とても心配だったが、河内先生がリードして喋ってくれたので、幸いにして(たぶん)無事に終えられたと思う。
 会場から質問してくれた方がいて、越路吹雪さんのポーズの取り方の由来や、越路さんと寿美花代さんの関係を聞く質問で、専門的でありながら、他の方々の興味も引く内容で、第一部を華やいだものにしてくれた。

第一部のセッショントーク(左:千和、右:河内厚郎先生)

 第一部が終わり、休憩を挟んで第二部のコンサートが開催された。須山さんは緑地のワンピースに黒のボレロを身に纏いシックな出で立ちで、桐さんはレトロな袴姿だった。「今日は大正時代の娘役です」と開口一番切り出した。

前述のように、発表から長いと100年、短くても60年以上経過した楽曲がこの日のコンサートのラインナップである。時間を越えて観客に楽しんでもらえるのか、というのは歌わない自分としても大きな懸念だった。しかし、須山さんと桐さんによって甦った数々の曲は、古典ではあったかもしれないが、そのメロディは決して現在に通じないものではなかった。

第二部:コンサートのプログラム

 「パリゼット」は乙女の若き可能性に満ちて、「ローズパリ」はどこか悲しくも気高さを感じさせた。それは当時の観客に与えた感情そのものなのだろう。

 あらためて驚かされたのは「白井鐵造メドレー」で、その中の「大将となるには」(「花詩集」挿入歌)では、「大将となるにも、最初は二等兵」という軽快なメロディのもと、「オイッチニイ、オイッチニイ」と銃をかついで行進する振り付けで歌い上げた。「算術の歌」(『ローズパリ』挿入歌)では、原典では雪野富士子演じる教師と、橘薫・三浦時子(エッチンタッチンの愛称で戦前の人気歌姫コンビだった)の生徒コンビの掛け合いのもと歌われるのだが、その劇の部分も含めて再現された。教師役は桐さんで、コミカルな生徒の演技は須山さんが担当して、歌は二人がエッチンタッチンになりきって歌われた。その後の「サルタンバンク」も劇中のセリフが再現されて、ここまでやるかという再現度であった。

 「大将となるには」の前に、桐さんが「私、記念公演でエイコ先生(天津の本名が鳥居榮子)がジャン二等兵に扮して『大将となるには』を歌ったのを後ろで聞いていたんです。エイコ先生って小さいでしょう? 何て可愛らしいんだろうって、その時思っていたんです」と思い出話を披露した。
 そうなのだ、桐さんやたぶん、この日に会場にいた何人かの元タカラジェンヌは「天津乙女」ではなく「エイコ先生」なのだろう。そして、そうでない人たちにとっても、私が感じるより「天津乙女」はずっと近い存在なのだと思う。第一部で話していた時も、その名前が出てくると大きく頷いている人たちが何人もいた。
 天津さんに限らず、人生の同じ時間をともに生きてきた舞台人や歌が登場すると、それぞれの人生の軌跡も甦ってくるのだろう。知人に久しぶりに会うような、そのようなコンサートだったのかもしれない。 

 他にも「宝塚 心の故郷」はもともとがティノ・ロッシが歌ったものだけに、二枚目の男役だった桐さんのどこまでも伸びる歌声が楽しめる一曲だった。須山さんの「華麗なる千拍子」は、もともとジャック・ブレルが歌った「千拍子のワルツ」がもとだが、寿美花代さんが舞台で歌った時から、これでもかというくらい詰め込む歌詞が印象的な曲だった。原曲も早口で歌詞過剰気味なのだが、日本語にして歌おうとするとさらに難易度が上がって、もはやきちんと歌えるかを楽しむ趣きすらある。高木先生も歌わせること自体に楽しさを感じていたのかもしれない。この日、ジャック・ブレルが大好きという須山さんは、これは避けられないと果敢に選曲して、そして歌いきった。

第二部:コンサートの様子(左:須山公美子さん、右:桐さと実さん)

 公演中、公演後と何人かの来場者とお話する機会に恵まれた。
 一人目はコンサートで隣に座った男性で「宝塚歌劇出身者が歌うシャンソンと、そうでない歌手が歌うシャンソンは何が違うのか、何か違うと私は思うんです」と仰っていた。その時は公演中であまり話ができなかったのだが、過去にたくさんの歌劇団出身者のシャンソンを聴いて、まず思ったのは、舞台に登場すると華やかさが違う。基礎を学校で時間をかけて習っていて、その後も舞台で磨きをかけている。卒業後も歌う人はもともと歌唱を得意としていた生徒が多いだろうから、前提として技術がある程度高いものを備えている。そして、舞台で演じるという経験を続けてきた宝塚出身者は「3分(あるいは2分半)のドラマ」と呼ばれるシャンソンのドラマ性に少女期から向き合っており、その点が高い親和性を持っていると捉えている。ドラマを表現するというシャンソンの根源に、始めた段階からいくらか近い場所にいるのである。
 二人目は杖をついた女性で、深緑夏代さんにシャンソンを習っていたという。私は深緑さんについて取材をしているが、実際にあったことがないので、何気ないことでもイメージを補う大切な言葉になる。この時も貴重な思い出話を聞かせていただいた。ケガをして歌うのを中断しているが、またシャンソンを歌い続けたいと仰っていた。シャンソンの中に強くドラマ性を感じていた深緑さんは、歌手の生き方や軌跡をそこに投影させることを求めていた。おそらく、それを通じてその人の感情が上手く表出されて、その人の人間的な深みが増したり、人生が豊かになることを望んでいたのだと思う。今日、来場されていた人たちは、深緑さんとの関わりは別にして、何らかの手段でそれを続けている人たちだったと思う。歌い続けると言ったその女性のことを、深緑さんもきっと喜んでいるのだろうと感じた。

フィナーレは来場者の方も一緒に「すみれの花咲く頃」を歌った。

 少しの時間であるが、近くの居酒屋で打ち上げをした。その途中で須山さんが「今日の日本ダービー、ジョバンニはどうなりましたかね」と言った。競馬にはサイン馬券というジンクスがあって、不思議とその日(あるいはその年)に由来のある名前や番号の馬が馬券に関わることがある。例えば2008年の有馬記念では1番人気のダイワスカーレットが勝ったものの、2着には出走馬中最低人気のアドマイヤモナークが入り大波乱の結果になった。その年の北京五輪が8月8日に開催されていて、枠番8-8は最低人気が絡む馬券にも関わらずそれなりに売れていたという。後付けの理論に違いないのだが、競馬ではよく見られる現象のために気にするファンも多い。
 今日、話をした中で、岸田辰彌先生の若き日の師といえる存在が、帝国劇場に招かれていたジョバンニ・ヴィットーリオ・ローシーであった。自分たちしか分からないサイン馬券であるが、「もし馬券に絡んでいたら、一生忘れられない馬になりますね」と話していた。

 打ち上げも終わり、桐さんと私だけが仁川駅から西宮北口駅に向かうので、そこまでご一緒させていただいた。このシンポジウムが始まる前からずっと思っていたのは、現代の歌手に100年近く前の、それも道化的な曲を歌わせて良いのかという疑問だった。特に二枚目男役だった桐さんに歌わせるのはどうなのかとずっと気にかかっていた。それを話すと「どうしてですか、私、ああいう歌好きなんですよ、それに今日は男役じゃなくて大正時代の娘役でしたし」と笑った。「それに葦原邦子先生の舞台とかで歌ったこともあるんです」とも語った。葦原邦子さんを中心に宝塚OGたちが一時期、チャリティコンサートを毎年のように行っていた時期があって、おそらくその中で往年の曲も歌われていたのだろう。現代はおそらく断絶してしまっているが、少なくても桐さんの世代までは、今回のような宝塚のクラシックな歌も受け継がれていたのだ。
 電車の中では短い時間だったが、様々なことを聞かせていただいた。「男役の人が退団すると、まずやりたいのは髪を伸ばして、スカートを履くことなんです。それが現役時代は出来ないことなので」。「桐さんもそうだったんですか」と尋ねると、「ええ、まあ」と少し控えめに答えが返ってきた。「昔のファンの方は往年の男役の姿を求めるけど、体も声も変わってきてそれが難しくなってきます。今度、男役の総決算のような気持ちでこれをやります」と公演の案内をいただいた。

 日本ダービーでジョバンニは8着であった。翌日、須山さんからメールがあった。そこには「出走馬中、クロワデュノール(1着馬)が唯一のフランス馬名でそこがサインでしたね」と綴られていた。

 
 

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兼業作家。2023年4月『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)上梓。歴史全般が興味の対象ですが、最近は大正~昭和の文化、芸術、演劇、映画、生活史を多く取材しています。プロフィール写真は愛貓です(♂ 2009年生まれ)。よろしければTwitterのフォローもお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。