村山聖を想う

リハビリの専門学校に通っていた頃、校舎が名古屋駅から15分ほどの場所にありました。オセロに熱中していた僕は、勝負事の要諦を知りたいと将棋や競馬の本を読みあさり、水曜の学校帰りには名古屋駅のキオスクで「週刊将棋」というタブロイド紙を買い求め、電車で読みふけるという、そのような学生でした。

その時に僕が応援していたのが先崎学と、今回紹介する村山聖(さとし)でした。

村山聖は1969年生まれで、同学年に佐藤康光、1学年下に羽生善治、森内俊之、先崎学、丸山忠久、藤井猛、郷田真隆、2学年下に深浦康市、屋敷伸之がいます。

これらの棋士たちは1990年代から2000年代にかけて将棋界の頂点争いの中心となり「羽生世代」とも呼ばれます。

その羽生世代の中でも村山聖は個性豊かな棋士として知られていて、実力も誰もが認めるところでしたが、1998年に29歳の若さで亡くなっています。

かつて「将棋世界」という雑誌の編集長であり、生前の村山と交流があった大崎善生は村山の人生をまとめて「聖の青春」というノンフィクションを書きました。映像化もされたので、これで村山聖を知った人も多いのではないでしょうか。

村山聖は5歳の時から腎ネフローゼという難病を患っていました。当初は一般の小学校に入学しますが、病状が悪化して、院内学級と養護学校で小学校生活の大半を過ごしました。一緒に過ごしていた子供が次の日には亡くなっているという経験もして、そこでの生活は村山に独特の人生観を与えました。この入院中に父親から将棋を習い熱中するようになります。母親には将棋の本や雑誌をせがみ、それを読んで勉強しました。

10歳から広島市内の将棋道場に通い、さらに実力をつけて中学に上がった頃にはプロ棋士になりたいと思うようになりました。プロを目指すには広島から離れて養成機関で対局をしなくてはいけません。家族や周囲は身体の負担を考えて反対しましたが、親戚一同も含めた会議で、村山は1人、大人たちを説き伏せて進路を決定します。

将棋のプロ棋士になるには規則で師匠が必要です。村山は森信雄を師匠に、プロ棋士の養成機関である奨励会の門を叩く予定でした。奨励会の試験では文句のない成績を残したのですが、ここで思わぬアクシデントが起こります。他のプロ棋士から村山の奨励会入りは許さないとクレームが付いたのです。

村山はプロを目指すにあたり、最初、以前に出入りしていた将棋教室の席主に相談していました。その席主は「まだ早い、2、3年待った方がいい」と答えますが、一方で将来のプロ入りに備えて、知己だったそのプロ棋士に村山の弟子入りを依頼していたのでした。

結果的にそのプロ棋士は面子を潰された形になり、森信雄との力関係もあり、村山は試験に合格しながら奨励会入会を許されないという事態になりました。村山は「大人は卑怯じゃ、どうしてじゃ、どうしてじゃ」と泣きじゃくったと言います。そして、そのショックで体調を崩し入院してしまいます。

森は村山の奨励会の件に責任を感じて、退院を見て大阪の自分のアパートに村山を呼び寄せます。自分のもとで将棋の勉強をさせようとしたのです。森からの提案は村山の気持ちを立て直し、師匠と弟子の共同生活が始まります。

森は当時独身で、狭いアパートに2人っきりで、弟子の生活全般の面倒を見ました。将棋界の師弟関係は昔と違い形式上のもので、実際に師匠から将棋を教わる機会はほとんどありません。ごくたまに熱心な師弟関係があり、それがむしろ希有な例として取り上げられるくらいです。同世代の羽生善治にしても親もとから奨励会に通っていて、同世代でもほとんど師匠と暮らした経験を持つ者はいません。

師匠の家で一緒に暮らす弟子を「内弟子」と呼ぶのですが、森と村山の関係は一般的な内弟子とも違っていました。森は村山の学校の手配をして、自転車の練習に付き合い、髪を切るのが嫌だという彼をむりやり床屋に連れて行き、熱を出せば付きっきりで看病をしました。嫌がる村山の髪を洗うこともありました。2人の関係は実際の親子以上の、何か動物的とも言える純粋な絆があったように感じられます。

森は棋士としてはエリートではなく、輝かしい戦績はありません。工場勤務から19歳でプロを目指した苦労人で、年齢制限でプロの道が閉ざされる危機も経験しました。最近、話題になっている藤井聡太さんが14歳でプロ棋士になったことを考えると、その違いが感じられるかと思います。そんな森のアパートには不思議な仲間たちがぶらりとやってきました。プロになれなかったかつての仲間、世界中を放浪している者など定期的に訪れては泊まっていきました。森はそのような人たちの宿も提供していました。一緒にいた村山は森の人生観も吸収していきました。

翌年の奨励会を好成績で合格して、村山はプロ棋士を目指す一歩を踏み出します。奨励会入会と同時に村山は一時的に広島に戻りますが、16歳の時に再び大阪に移って1人暮らしを始めます。森のアパートから徒歩5分の場所に部屋を借りて、森の部屋の合鍵を使って自由に出入りしていました。

奨励会時代の村山の有名なエピソードがあります。関西の将棋会館の控え室で、ある対局の検討が行われていました。将棋会館では実際に棋士が対局を行う「対局部屋」と「控え室」があります。控え室では、その日対局のない棋士や奨励会員などが、現在進行形で行われている対局を並べるなどして検討しています。

その日もある対局の難解な局面が検討されていました。その時、検討の中心にいたのが関西将棋界の重鎮、内藤國雄九段で「たくさん駒を持っている、詰むだろう」と結論を出したのですが、それに異論を唱える者がいました(異論を唱えたのは淡路仁茂九段とも奨励会員とも言われています)。「村山君が詰まないと言ってます」。その言葉に内藤は検討を見直しますが、一見簡単に詰みそうな王将がなかなか詰みません。その検討には周囲の棋士も加わって様々な手順を試してみます。それはあたかもトップ棋士たちと1人の奨励会員の対局のようでした。結局、詰み手順は発見できず、内藤は「詰まない、その村山君とか言う奨励会員の通りや」と認めます。

このようなエピソードから関西の将棋界では「終盤は村山に訊け」という言葉が生まれました。プロになる前の奨励会員でありながらすでに実力を認められたのです。1986年(昭和61年)11月5日、村山は四段昇段を決めます。将棋界は四段からがプロであり、奨励会の会員たちは皆まずそこを目指しています。日本各地の天才少年がプロを目指してしのぎを削る奨励会を、村山は2年11ヵ月で卒業します。それは体調不良で休場した期間も考慮すると破格のスピードでした。村山聖当時17歳でした。

プロになった後も村山の快進撃は続きます。初めて参加したC級2組の順位戦で9勝1敗の好成績をあげて、C級1組に昇級したのでした。

順位戦とは将棋棋士の中心になる棋戦で、C級2組、C級1組、B級2組、B級1組、A級の5つのリーグに分けられています。

棋士は1年かけてリーグで対局をして、上位2〜3名が昇級します。最上位であるA級は10名という狭い門で、そこで優勝した棋士が名人と対局します。

各リーグは1組ずつしか上がることができず、名人に挑戦するまで最速で5年かかる計算になります。下位のリーグになると50人近く在籍している場合もあり、1敗しただけでも昇級を逃す時もあります。藤井聡太さんが2018年のC級1組の順位戦で、9勝1敗の成績を残しながら4位で昇級できなかったことが記憶に新しいところです(C級1組の昇級は2名)。

将棋で最も伝統があるタイトルが名人であり、特に古い世代の棋士ほど思い入れがあります。また、名人につながる順位戦は、所属するリーグによってその対局料が決まり、棋士生活において中心となる棋戦と言えます。

村山が広島でプロを意識し始めた頃、21歳という史上最年少(これは現在も破られていません)で谷川浩司が名人になりました。それから村山にとっても最大の目標は名人でした。プロを目指すことに反対する家族や親戚一同を前にした時も「谷川を倒すには、今、今行くしかないんじゃ」と説き伏せています。

村山が参加した時のC級2組は53名いて昇級の定員はわずか3人でした。この狭き門をわずか1年で突破したのでした。

さて、村山の存在が世間に知られていく中、それとは別に快進撃を続ける巨大な新星がありました。羽生善治です。15歳でデビューした羽生の勝ちっぷりは突出していて、前年はC級2組の順位戦こそ8勝2敗で昇級を逃していたものの、全棋士が参加する天王戦で優勝するなど50勝11敗で.819という驚異的な勝率を残していました。当時の将棋界は東の天才・羽生、西の怪童・村山と両者を並び称しました。

この2人がはじめて対局したのが1989年(平成元年)1月24日、C 級1組の順位戦でした。村山の作戦が功を奏し、序盤からわずかに優勢で将棋は進みます。羽生も懸命に喰らい下がりますが、なかなかその微差が縮まりません。勝敗を分けたのは終盤の村山のただ1手の緩手でした。「その村山さんの緩手は読んで読んで、読みすぎたことが結果的にもたらしたものでした。ほんのわずかのちょっとしたことが怖くなったんだと思います」と羽生は語っています。勝負が終わったのは日付が変わった0時48分、14時間を超える熱戦は126手で羽生の勝ちとなりました。感想戦(局後の検討)が終わったのは午前3時を回っていました。羽生が去った後も村山は盤から離れられませんでした。髪をかきむしり両手で顔を覆い「なんて強いんだ」とうめくようにつぶやきました。

この最初の対戦が2人の行く末を暗示しているようにも思います。マンガ「月下の棋士」の単行本には巻末に河口俊彦(故人・将棋棋士)の「月下棋人の譜」というコラムを掲載していて、7巻の巻末は村山聖について書かれていました。このコラムは村山への愛情に溢れていて、僕の好きな文章のひとつなのですが、そこから抜粋します。

村山が四段になったのは昭和61年だが、60年から62年にかけては将棋界の当たり年で、羽生名人、佐藤前竜王、森内俊之八段など今のスター棋士がそろってデビューした。それから現在に至るまで、この新人類棋士と呼ばれた四人は常に勝ちまくった。羽生は名人、竜王など六冠王になり、森内、村山は今年A級八段に昇進した。同じように勝っていたのだが、成績をよく見ると、村山が少しずつ遅れをとっている。四段、五段のころから羽生と村山は好敵手とはされたが、羽生がいつも勝った。羽生と佐藤が棋界最高位である名人と竜王になったのに対し、今年ようやく後ろに追いついたに過ぎない。まだ実績では仲間の三人に負けている。

(引用:河口俊彦「大器晩成の棋士ついにA級昇進 村山聖」月下の棋士7巻.1995 より)

この文章が表すように、羽生が棋界を席巻し、同世代の棋士たちがタイトルを競う状況にある中、同程度の才能と評されていた村山の成績は物足りないものでした。唯一、タイトル挑戦したのが23歳の時、第42期王将戦(1993年)でした。結果は0勝4敗で挑戦失敗、この時は第1局の直前まで高熱にうなされていて出場も危ぶまれていたのですが、なんとか対局にこぎつけたものでした。

名人につながる順位戦は勝ち進み、河口のコラムに書かれているように1995年(平成7年)にはA級に昇進します。しかし、翌1996年度のA級順位戦では、降級をかけた一番で島朗に良いところなく敗れて、B級1組に降級となります。将棋人生で初めての降級でした。

さらに村山に悪い知らせが届きます。この年は血尿と体調に悩まされていて、本人も「僕、癌じゃないかと思うんです」と周囲に漏らすくらいでした。しかし受診した東京の医師はろくに調べもせずに「精神的な症状」と判断していました。

A級順位戦が終わり、広島大学付属病院で精密検査を受けると、膀胱に腫瘍があり、しかも腎臓の片方は機能していない、残った腎臓も危機的状況とのことでした。さらに数日後、膀胱の腫瘍は癌だと説明されました。

医師からは癌を治すには手術で膀胱を摘出するしかないと説明を受けますが村山は悩みます。そして1997年のB級1組の順位戦が始まります。初戦の中村修八段戦を勝利、ここで村山は手術を決断します。

6月16日、村山28歳の誕生日に手術は行われました。8時間半に及ぶ大手術は成功し、翌日に村山は集中治療室から個室に移されます。村山はさっそく父に将棋盤と棋譜を持ってくるように頼みました。23日には自力で歩き始めます。

7月14日、B級1組順位戦2回戦。順位戦は手術のため、2週間延期してもらいました。それでも手術から1ヵ月も経っておらず、医師は必死に止めましたが村山は耳を貸しませんでした。

この村山聖八段ー丸山忠久七段戦(段位はいずれも当時)は、間違いなく歴史に残る1局だったと言えます。村山には元看護師の女性が付き添い、万が一に備えて控え室に待機していました。

この時の様子を先崎学九段が当時の雑誌に書いています。このエッセイの描写もまた、将棋の対局を書いた文章では並ぶものがないくらい優れたものだと思います。雑誌「将棋世界」1997年9月号「先崎学の気楽に行こう」からの引用です。

大阪で偶然に、村山-丸山の順位戦を観る機会に恵まれた。

村山聖は、王将リーグで羽生と戦った頃の村山に、あるいは終盤は村山に訊けといわれた頃の村山に戻れるかというのが、最近の僕の関心事の一つだった。そのためには、まず充分な休養が大事であると考えられた。村山君は、元々体は弱いのだが、最近は特に悪化して、6月の中旬に手術をした。8時間半にも及んだ、生命も危ぶまれたほどの大手術だった。

当然、半年なり一年なり休場して、体力の恢復にあてる。これが常識である。誰しもがそう思った。

だが彼は順位戦を指すといいはった。噂では、入院中の棋譜が手に入らないか、との打診があったときく。身内、医者は正気の沙汰ではないと止めた。この常識以前の正論を彼はきかなかった。

緒戦の中村戦を指すときいたとき、書きにくいことを書いてしまえば、彼は死ぬ気だな、と思った。将棋盤の前で、死んでも悔いはないんだろうなと思った。8時間半の手術をしようという人間が、深夜に及ぶ順位戦を指すのは、生理学上無理があることは本人が一番よく知っているだろう。

村山君は中村さんに快勝した。矢倉のお手本ともいえる攻めが決まった。丸山戦は術後の初戦である。

順位戦は、彼にとって、特別な棋戦である。よく、医者に止められている酒を飲んで酔っ払ったとき「はやく将棋をやめたい」ということがあった。この言葉の上には「名人になって」という冠が隠されている。名人になることだけが彼の望みであり夢なのである。

一年、いや半年でも休めば、名人になるのが一年遅れる。普通の人にとってはたかが一年でも、小学生の頃から正月の度に、来年の正月まで生きられますようにと祈った彼にとっては絶望的な長さだろう。

将棋の内容は村山君が序盤から積極的に指し回して圧倒した。まったく病み上がりの人間の指す将棋とは思えなかった。いよいよあとは寄せるだけという局面を迎えたのは深夜の十二時だった。ここまで村山君には一手の悪手もなかった。

寄せの入り口で、一手、村山君がぬるい手を指した。守りの銀を攻めに使ったために一挙に自陣が危うくなった。局面は混沌として、粘り強さが身上の丸山君のペースかと思われた。

時刻は一時を過ぎた。丸山君も簡単な勝ちを逃した。その代わり、妙な自陣飛車がでて、もうなんだか分からない。

一時二十分。やっとはっきり村山勝ちになった。村山玉も危ないが、絶好の攻防の桂がある。

桂を打てばお終いだった。村山君は一分将棋のなか詰ましにいった。瞬間、あっ危ないなと思った。本能で打てそうな桂を打たなかったのが嫌な予感を呼んだのである。

丸山君はするりと玉をかわした。奇跡的に詰まない。彼得意の形だ。もう桂は打てない。村山君は仕方なく必至をかけた。

今度は村山玉が詰むか詰まないか。モニター画面で一所懸命に読んだが、さっぱり分からない。難解極まりなくどの筋も詰みそうであり、また詰まなさそうである。

正しくは詰まなかったそうである。ただし、これは次の日、若手数人でさんざんつついた結論で、一分将棋の実戦には影響がない結論である。

最後は三十三手詰め、村山君にはツキがなかった。終了は一時四十三分。

感想戦は一言もなし。村山君の顔は見るに忍びなかった。

いいものを見た、と思った。無神論者の僕だが、あの状態で、あれだけの将棋を指す奴を、将棋の神様が見捨てる訳がない。本心からそう思えてならなかった。

後に名人となる丸山忠久もこの時、相当な勢いがあり、この2人の対局は文字通り死闘と言えるものでした。先崎学の文章が表しているように、最後の勝敗はどちらに転んでもおかしくなく、村山には運がなかったと言えます。

村山はその後のB級1組順位戦を9勝3敗で終えて、丸山忠久(12勝0敗)に次ぐ2位となり、1年でA級復帰を果たします。しかし、ここで最悪の知らせが村山に届きます。癌の再発でした。

癌再発の告知をされた翌日にも対局がありました。NHK杯テレビ将棋トーナメントの決勝で、相手は羽生善治でした。

この対局は生放送で僕も見ていたのですが、村山が勝ちの寸前で大ポカをして大逆転負けをします。解説者もまさか村山がそのようなミスをするとは思っていなかったのでしょう。羽生とともに、局後の言葉に困っていたのが印象的でした。

村山は1年休場を選びます。病状は一般には公表されていなかったものの、先崎のエッセイを読めばただならぬ状況であると推測ができました。それだけの思いで対局していた人間が休場を選んだという事実は、何よりも重い意味を持っていました。もしかしたら、とうとうその時が来てしまうのかもしれないと僕も感じていました。

1998年8月19日発売の「週刊将棋」には「村山八段逝去」と見出しがありました。この時、僕はどのような感情を持ったのか、あまり覚えていません。あるいは一般の新聞でニュースをすでに知っていたのかもしれません。

村山聖死去を知らせる新聞(週刊将棋 1998年8月19日号)

ただ、ひとつの時代が終わったような感覚がありました。村山聖は将棋の長い歴史から言えば、タイトルを獲得したこともなく、成績だけ見れば突出したところはありません。しかし、村山は人生を盤上に表現できる希有な棋士であり、それが彼を最後にもう見られなくなってしまうように思えたのです。そして、その感覚はおそらく大きくは外れてはいないように感じます。

僕の将棋の時計は何かが、いまだに村山聖のところで止まっているように思います。

※ 村山聖の人生について知りたければ「聖の青春」を読むと良いと思います。ここでは紹介しきれなかった村山のエピソードや人間らしい面を見ることができます。

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兼業作家。2023年4月『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)上梓。歴史全般が興味の対象ですが、最近は大正~昭和の文化、芸術、演劇、映画、生活史を多く取材しています。プロフィール写真は愛貓です(♂ 2009年生まれ)。よろしければTwitterのフォローもお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。