昭和13年10月から翌年の3月にかけて、宝塚少女歌劇団(現在の宝塚歌劇団)はドイツ、イタリア、ポーランドなど、およそ半年にわたる海外公演を実施している。当時、すでに日本はアジアに侵出し、ヨーロッパはナチスドイツの台頭により緊迫感を強めていた。日本も軍部の支配が強くなり、その顔色を伺わなければ何事も許されない時代に入っていた。「日独伊親善芸術使節団」と銘打たれたこの公演は、その世界情勢の中で、日本と結び付きを強くしたドイツ、イタリアとの親善を名目として許されたものだった。
インターネットどころかテレビも普及していない時代に、船で未知の国々に向かうのは文字通りの大冒険であっただろう。
ここでは宝塚初となったその海外公演に参加した生徒たちを紹介していく。
月影笙子は生年不詳、1月17日生まれ。栃木県出身で8人姉妹の第7子として生まれた。姉の嫁ぎ先が全国に散らばっていて、そちらに身を寄せる形で、宝塚入学以前はいくつかの土地を転々としている。最終学歴は資料によって、名古屋の高辻小学校、または大阪の池田小学校と書かれている。
2番目の姉が嫁いだのが現在の大阪府池田市で、その姉が宝塚少女歌劇のファンだったことが月影の進路に影響を与えた。
昭和4年4月宝塚音楽歌劇学校に入学。芸名は後に歌劇団の理事長も務めた引田一郎が命名したとされている1)。
月影が入学した19期生には他に園井恵子、神代錦、大空ひろみ、櫻緋紗子、藤花ひさみ、千村克子、華澤映子、一学年上に葦原邦子、春日野八千代、玉津真砂、富士野高嶺など、後のスターたちが顔を揃えていた。
翌年4月の大劇場花組公演「春のをどり」(久松一声作)の獅子舞役で初舞台を踏む。当時の雑誌(『歌劇』昭和5年4月号)の紹介では、好きな教科をダンス、尊敬する生徒を小夜福子、将来的には喜劇に出るような役をやりたいと抱負を述べている。
月影は舞踊専科の所属となり、以降は組を問わずダンスの舞台を積み重ねていく。初舞台の翌年、昭和6年11月には雑誌『歌劇』の口絵に早々に登場している。また、『サンデー毎日』昭和7年12月号では、紀晶子とともに表紙を飾っている。早い段階から注目、期待をされていた生徒であることが伺える。
最初に抜擢されたのは、昭和8年10月大劇場星組公演の「花詩集」で、月影に与えられたのは、第2場の青年役であった。この役は月影の青年以外は皆、少女役という構成で、次々に現れる娘たち(壽三千代、霧立のぼる、笠原和子など)はそれぞれ、ワルツ、タンゴ、ブルースと歌い、月影はそれらの少女達と交替しながら歌い踊り、次の場につなぐというショー的な場面であった。
その時の様子を後に本人は「今まで女にばかり出ていた私が初めて男役をしました。自分では大いに張り切っていましたが、初舞台以後、三ヶ月より経っていないことであり、相手の方はみな上級生ばかりなので、十二分に振る舞っているつもりでも自信がなく、自然に芸が小さく小さく縮まっていくのをどうしようもありませんでした」とほろ苦く語っている2)。
その後もしばらくは男役、女役の両方を演じていたが、本人が下級生の頃に最も気に入っていた役として「憂愁夫人」カリオカの踊り子ソロ(女)役(昭和9年7月大劇場など)を挙げている2)。この作品はヒロインが親の決めた結婚に反し、地位も名誉も捨てて恋人と駆け落ちする話で、葦原邦子と櫻緋紗子が主演を務めた。当時の倫理からするとセンセーショナルな内容で、観劇を禁止する女学校も出たほどだった。
月影はその第二場の夜のパーティ会場で、同期の夏野陽子とペアで踊る役であった。直接ストーリーに関わる役ではないが、ジャズのメロディに乗せて妖艶なペアが踊るシーンは、演技中心で派手な演出を避けたこの作品の中で、ダンサーにとって数少ない見せ場であった。
昭和10年5月、月影は雪組へ移動となる。初舞台後に舞踊専科に配属されて、昭和8年にダンス専科が誕生するとそちらに移ったことはあったが、それまでダンス一筋の舞台生活であった。
同時期に同じくダンス専科から雪組に移った神代錦は次のように語っている3)。
大空、藤花はもともと声楽専科であった。それぞれダンス、歌唱という長所を伸ばした後に、さらに演技も向上させて、スターとして育てたい歌劇団の意図が見えてくる。月影は、翌年(昭和11)7月には星組へ移り、踊れる二枚目の男役としても活躍の場を広げていく。
この頃の主な出演作としては以下のように挙げられる。
「美はしの君」エドモンド役
「ワルツの女王」ウイリー役(昭和10年9月東京宝塚劇場 雪組)
「ブロンド・ローレ」アウグスト役(昭和10年11月大劇場 雪組)
「ズッセ・ブラウト」ワルター役
「宝塚忠臣蔵」武林唯七役(昭和11年3月大劇場 雪組)
「永遠のワルツ」ベルタン役(昭和11年8月中劇場 星組)
「世界の唄」リヒテル役(昭和12年1月大劇場 星組)
「歌へモンパルナス」ロベール役(昭和12年9月大劇場 星組)
「皇国のために」笹川和也役(昭和12年10月中劇場 星組)
「南京爆撃隊」貴志中尉役(昭和12年11月東京宝塚劇場 星組)
「忘れじの歌」ビリー役(昭和13年1月大劇場 星組)
「軍国女学生」松波中尉役、「スイート・メロディ」ジュスタン役(昭和13年5月大劇場 星組)
「子供にはお菓子を」ヂェームス役(昭和13年6月中劇場 星組)
「五十番街の少女達」キングスレイ役(昭和13年7月東京宝塚劇場 星組)
ダンサーとしてもソロでの活躍の場は少ないものの、着実に地位を固めていく様子が見てとれる。
「タンホイザー」ヴィーナス役(昭和11年3月大劇場 雪組)
「ロザリータ」闘牛士の踊子役(昭和11年5月中劇場 雪組)
「油壺」若者役(昭和11年8月中劇場 星組)
「軽騎兵と薔薇娘」ワルツを踊る男、紳士(一)(昭和11年9月東京宝塚劇場 星組)
「紅日傘」踊子男(昭和11年11月大劇場 星組)
「マンハッタンリズム」(昭和12年5月大劇場 星組)
「改修たからじぇんぬ」踊る青年役(昭和13年2月東京宝塚劇場 花組)
「ショウイズオン」酔った男、踊る影、フェンシングの男(昭和12年9月大劇場 星組)
「世界の唄」(昭和12年)ではハンガリーを舞台にした場面で、若き作曲家・リヒテルを演じた。娘役の新進・萬代峯子が恋人・イヴァ役で二人の熱演は評判になった4)。
また、この時期には月影の出演した「南京爆撃隊」のレコードが発売されて、月影演じた「貴志中尉の歌」も収録されている。葦原邦子の歌の間奏に、短いながら月影も台詞で出演している。貴志金吾中尉は実在の人物で、上海特別陸戦隊の部隊長の一人として第二次上海事変で戦死している。その壮絶な戦死が神格視されて、このレコード化もその時勢に沿ったものと考えられる。
昭和13年10月に日独伊親善芸術使節団としてのヨーロッパ公演が決まると、月影もそのメンバーに選ばれた。ダンスに限っていえば1学年上に玉津真砂がいて、2学年下に月野花子、秩父晴世、草場咲耶、打吹美砂、銀鈴音、さらに下には櫻野里子、東雲千鶴子、三代あづさ、麗明美、月草衣子、天原まゆみ、春日千鶴子という専科出身の生徒たちがいる。次世代を担うスターとしての期待と、ダンスをメインにしてきた生徒たちのサブリーダー的な役割が選抜の理由ではないだろうか。
ヨーロッパから帰国すると、さっそく月影に大役が待っていた。一団が帰国した一ヵ月後の昭和14年4月、小夜福子を団長とするアメリカ公演組が出発したが、その小夜福子が3月まで演じていた「モロッコの豹」のピエール役に抜擢されたのだ。
入団時に目標の上級生として名前を挙げた小夜も、もともとはダンスに長所を見出された生徒で月影と重なる部分がある。その憧れの先輩の後を引き継ぐ立場は、月影にとっても感慨深いものがあっただろう。
その後は再び雪組に所属となり、「日本名曲集」右源太役(昭和14年10月大劇場 雪組)、「興亜行進曲」青年、タップの踊子役(昭和14年11月東海北陸地方公演 各組選抜)、「宝塚パレード」踊る男、セニョール役(昭和15年3月帝国劇場 雪組)、「赤十字旗は進む」福田一等兵役、「勝鬨」家来役、「サイエンス・ショウ」科学者役(昭和15年5月大劇場 雪組)、「サイパン・パラオ」月に踊る男役(昭和15年8月大劇場 雪組)、「桜」踊る男役(昭和16年3月大劇場 雪組)、「弓張月」重季役(昭和16年6月大劇場 雪組)、「高原の秋」松尾光子役(昭和16年10月東京宝塚劇場 雪組)などに出演した。
宝塚歌劇団での最後の公演は、昭和16年10月の東京宝塚劇場で、「高原の秋」(内海重典作)では松尾光子役を演じた。この役は夫を戦場で亡くした未亡人で、恩給を国歌に返納し女中の稼ぎで娘を育てようという、いかにも軍部が好みそうな献身的な婦人像であった。作品の中心ともいえる役で、あるいは退団に華を添えた配役だったのかもしれない。
だが、ダンスで華やかな活躍を続けた彼女にしてはどこか違和感のある退団公演である。ラストに限らず、月影はヨーロッパ公演後も演技、ダンスと活躍しているが、帰国直後に小夜福子の代役を担った経緯を考えれば、その後の役回りは想像よりはるかに寂しい。
月影について次のように論評した記事がある4)。
岩村和雄とは、ヨーロッパで舞踊、照明技術を学び、帰国後は築地小劇場や、自らの名前を冠した舞踊研究所を設立した。昭和4年から宝塚音楽歌劇学校で教鞭をとり、わずか3年後に早世してしまったが、宝塚におけるバレーの基礎を築いた人物とされる。月影はその指導を受けた数少ない生徒だった。
月影はヨーロッパ公演に出る少し前に次のような文章を残している2)。
サカロフとはロシア人舞踊家・アレキサンダー・サカロフ夫妻のことで、師である岩村が教えを受けた人物でもあった。サカロフ夫妻は昭和6年と9年に来日している。師が異国の地でサカロフの踊りに感激したように、月影もまた心を奪われたのだろう。
月影の目指していた道はダンスとバレーであって、それはおそらく退団まで変わることはなかった。彼女がヨーロッパ公演から帰国し、舞台生活の最盛期ともいえる時期を迎えようとしていた頃、時代は戦争の影が色濃くなり、宝塚では望んでいたダンスもバレーもその機会がどんどん失われていった。
記事4)では「当今の堅い芝居」と表現しているが、当時の宝塚は、国歌愛を賛美する軍国的な作品、あるいは封建制度や忠節を謳い上げる日本物の作品が中心となっていた。戦争に不必要とされるものは社会から排除される時代で、公演を存続させるための苦肉の策だったわけだが、それは月影が生きる舞台ではなかった。
月影は、戦前に職業野球の阪急軍のマネージャー、戦後は1965年(昭和40)のパリ公演で団長を務めるなどした益田秀高と結婚する。『歌劇グラフ』昭和23年11月号には後輩・黒木ひかるの訪問を受けて、男児2人とともに出迎える姿が記事として残っている5)。
月影は間違いなくスターであったし、生徒として成功した部類には入る。ただ、最後に所属した雪組には春日野八千代や園井恵子など表現力に富んだスターがいて、本意でない演技という分野では分が悪かっただろう。華やかな役自体が少なく、どうしても脇から支える形になる。その恵まれた資質を十分に生かし切れなかった。
もし戦争を跨いで、戦後の舞台まで月影が残っていたとしたら… 軍部からの制約も外れて、新しい演出家たちのもと、歌劇団も多くの試みができた時期である。もしかしたら、それまで類を見なかったタイプの、踊れる男役になったのではないかとも思うのである。
引用・参考文献
1)「たからぢえんぬは斯く答ふ」(『東宝』昭和11年2月号)
2)「幼き日の日記より」月影笙子(『歌劇』昭和13年6月号)
3)「憧れはチューチュー姿のバレリーナ(真咲美岐の「オケラ漫訪」第十六回 ゲスト:神代錦)」真咲美岐、神代錦(『歌劇』昭和31年5月号)
4)「宝塚颯爽伝(二)」古賀寧(『東宝』昭和16年12月号)
5)「想い出もなつかしく 月影笙子さんを訪ねて」黒木ひかる(『歌劇グラフ』昭和23年11月号)
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