新しく作品を書こうという時、普段ほとんど本を読まない私が、その時だけはいくつかの書籍をめくって、その世界に浸る。評判になったノンフィクションを読みながら、今度の自分の作品はどのような形式で表現しようかボンヤリと考えるのである。
一言でノンフィクションといっても、様々な表現の方法がある。インタビュー、文献収集、ルポルタージュ、自分の頭にあるテーマをどの角度から表すのが一番ふさわしいのか。また、資料や論文に近い形にするのか、読みものとして面白いものを目指すのか。この本の骨格のようなものを思案する時間は実務ではあるけれど、作品という未来を想像できる心地良い時間でもある。
優れたノンフィクションを読んでいると、新鮮な血液が身体にみなぎるような、そのような感覚がある。普段の生活で塗り潰されていた感受性が目を覚ますのだろう。作品の中に流れる著者の情熱が、鈍重な外殻で包んだ自分の内核を突き、痛みも強いけれど瑞々しさに満ちた世界に連れ戻してくれる。
三浦英之著『五色の虹 満州建国大学卒業生の戦後』を読んだ。著者の三浦さんは昨年、園井恵子の件で取材を受けて何度かお会いした。多くのノンフィクション作品を執筆して、その度に文学賞を受賞しているような三浦さんだが、その時「『五色の虹』が今までで一番の作品です」と語っていた。はたしてどのような出来なのか、興味を感じた私はさっそく文庫本を購入したが、無精な性質も相まって、悲しいかな、本は新品のまま棚で一年以上眠ることになった。
今回、手にとったのは前述のように新しい作品を書くことと、三浦さんが新著『1945 最後の秘密』をこの6月に出版予定で、それを〝『五色の虹』の系譜〟と自身で位置付けているからだった。SNS上ではそれをきっかけに、あらためて『五色の虹』を評価する投稿がいくつか見られた。その好評を見て、とうとう重い腰も持ち上がったわけである。
『五色の虹』で取り上げられたのは、副題の通り、1938年から1945年にかけて満州国にあった建国大学とその卒業生たちである。
日本が朝鮮半島に侵出し、さらに領土を拡大する中で生み落とされた満州国。建国大学には将来、その国家運営を将来担う人材を育てるために若き俊英たちが集められた。当時の他の大学と違うのは、その人材が日本人だけでなく、漢民族、満州族、朝鮮族、モンゴル族、ロシア民族など、異なる民族を意識的に受け入れていた点である。
満州国における日本人の割合は総人口の2%ほどに過ぎず、圧倒的多数を占める異民族を支配するのは困難と推測された。満州国の国家運営には異なる民族をいかに協調させるかが肝要であった。
建国大学は内外に向けた「民族協和」の広告塔であり、実際に異なる民族を集めて情報収集やシュミレートを行う実験場でもあった。大学の費用は全て官費で賄われ、学内では言論の自由が保障された。形式的なものではなく、日本政府の批判も許され、当時、本国では発禁処分になるような共産圏の書籍も自由に閲覧することができた。
傀儡国である満州国の大学であるから、最終的な目標は日本の利益だったが、学生たちはそれぞれの民族の境遇や、背景からそれぞれの理想に熱く燃えていた。
しかし、日本の敗北で戦争が終わると、建国大学も消えて、傀儡国家の協力者として、卒業生たちの多くが差別や迫害を受ける。
本書の内容は主に2010年から2011年にわたり取材されたものである。
三浦さんはすでに高齢となった卒業生たちから聞き取りをすべく、国内だけでなく、大連、長春、ウランバートル、ソウル、台北、アルトマイとアジアの各地に足を運ぶ。
本が素晴らしい出来になるかどうかは、もちろん執筆者の力量によるところが大きいが、それと同じくらいの取り上げたテーマにも依存する。料理人がいくら優れていても、材料が料理の質に大きく影響を与えるように、ノンフィクションもまた取り上げたテーマにその出来が大きく左右される。そのためにノンフィクション作家の命運というのは、どれだけのテーマと人生で出会えたかという部分にも左右される。
この『五色の虹』のテーマはそのような意味でも素晴らしいものであった。取材を受けた人物はそれぞれ苦難の人生を歩んでいた。そこから絞り出した言葉は、机上では得られない、本質的な人生の苦みを含んでいる。それは取材の対象者がもともと非常に優秀な能力の持ち主であったことも大きいのだろう。同時に非常に哲学的な響きを称えている。
(P110 百々和の言葉より)
(P230 姜英勲の言葉より)
(P258 李水清の言葉より)
この本の稀有な点のひとつは、このような多くの尊い生きた言葉が散りばめられていることだろう。頭の中に自然と「鉱脈」という単語が浮かんだ。鉱山に潜む黄金を見つけ、それが繋がっているのを発見したようだった。それは先人たちが苦難の人生から行き着いた染みついた哲学だった。
ものを書く人間というのは、得られた情報に何か意味があるように構成しようとする。ノンフィクションであっても、事実を作品として構成する中で、その作家性がそこに滲み出る。
本書の最後の取材先であるアルマトイで出会った卒業生・スミルノフは次のような言葉を残している。
その言葉はなぜか、現代の日本への励ましのようだった。そして、アルトマイで同行した現地の若き通訳・ダナが日本への留学を志し、道が開けたところで本書の幕は閉じる。
本書のダナは未来を託す象徴のような配置となっている。そこに三浦さんが作家として見出したかった希望が見えるような気がする。建国大学の学生も今の人間も希望を拠りどころに生きている。
〝素晴らしいテーマ〟というのは、実は怪物のようなもので、それを十分に表現するにはそれだけのエネルギーを必要とする。それを実現したのは地道な資料と向き合う日々だったのだろう。
インタビューや現地での経験が、この本の最も大切な点には違いない。しかし、何気なく書かれた時代背景の説明も不足がなく、同じ取材をする人間からすると、そこに隠れた膨大な時間が容易に想像できる。その地道な労力に立脚された本書で語られたのは、建国大学の卒業生やそこに関わる人たちであると同時に、三浦さんその人でもある。
本書を私は通勤途中の電車の中で読み進めたが、何度も涙をこらえていた。そして、いつも電車を降りる時に、ひとつの旅から戻ってきたような感覚になるのである。
そして本を読む幸せというものを、その度に思い起こすのである。
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