8月6日の桜隊追悼会に参加した東京行で、分倍河原のマルジナリア書店に寄った(※ 同書店については 過去記事「マルジナリア書店(東京都府中市)」(2023年12月30日)をお読みください)。
店内は奥のブラインドが閉められて、ほんのりした明るさだった。店主・小林えみさんのセレクトした哲学、女性問題、芸術文化など、こだわりの本が並べられて、静かな店内はどこか時間が止まっているようだった。思えば本というのは、時間を止めてその時の著者との会話ができるツールである。小さな書店だが、本と空間が醸し出す心地良さは二年前に訪れた時と変わらないものだった。

棚を眺めていると『孤独について』(小林えみ著)という本が目に止まった。
「孤独」について、自分はなかなかにうるさい人間だと思っている。王貞治さんの「孤独とは親友みたいなものだ」という言葉を聞いて、親友みたいになれたら、どんなに素晴らしいものかと様々な本を漁ったが、残念ながら孤独を親友にする道筋を見出すことは出来なかった。
ものを書く人間にとって「孤独」はなくてはならないものと思っている。それは自分の内面と深く向き合う時間でもあり、静けさと言い換えることもできる。反面、孤独には空虚さや渇望も付いてくる。太古から集団生活で生存してきた人間にとって、かつて孤独は生存危機に直結したものだったのだろう。孤独でいることは寿命を優位に下げるという研究報告もある。孤独のデメリット面や物理的側面を「孤立」という言葉で括って分ける向きもあるが、家族を持っていても、人に囲まれていても孤独感の負の面を感じる人はいて、この2つを厳密に分けることは難しい。
その時は旅行先だったので荷物を増やさない選択をしたが、家に帰ってから注文して取り寄せた。

この小林さんの著書も、孤独の社会的な負の面については否定しつつも、その効用を様々な先人の文献をもとに考察していた。
特に印象深かったのは、サン=テグジュペリをもとにした考察で、砂漠の山の頂に立つ個人が、同じように砂漠の山の頂に立つ人たちと繋がる図式である。強い個を保ちつつも、孤立とは違う繋がりも持ちうるモデルだった。
小林さんはマルジナリア書店の店主であり、よはく舎という一人出版社も営んでいる。この『孤独について』という本をまず見た時に思い浮かんだのは、この「孤独」という普遍的テーマをそのまま一冊にしてしまう大胆さであった。あまりに普遍的なテーマゆえに決定的な結論を出すのは困難を極めるし、一般的な商業出版なら書籍化まで一筋縄にはいかないだろう。それが実現するのは一人出版社というメリットでもあるだろうし、小林さんが背負ってきた孤独に対する社会的な答えでもあるのだと思う。
私がこの本を手に取ったのは、もしかしたら今までの本では納得しきれなかった「孤独」について、人に知られていない本であるがゆえに、誰も知られていない、捉えていない本質がもしかしたら書かれているのではないかと期待したのである。
結論から言えば、この1冊が「孤独」という巨大すぎるテーマに対して書き切ったとは言えないかもしれない。しかし私はまずこのテーマで1冊果敢に書こうとして実現してしまった、著者の挑戦を買いたいと思った。
孤独について感心がある人は一度読んでみても良いのではないか。

小林さんの思索の深海に浸っていると、そこから水面に戻るのは惜しくなり、もう一冊読むことにしようと本棚に手を伸ばした。
藤田一照、伊藤昌美著『生きる稽古 死ぬ稽古』(日貿出版社 2017年)こちらは新たに買ったものではないが何か思うことがあると繰り返し読む本である。
生や死、生きる上での苦悩について、イラストレーターの伊東さんが禅僧の藤田さんに疑問を尋ねる形式で、藤田さんは仏教をベースに自身の考えも含めて答えている。
仏教の考え方をわかりやすく伝えて、生き方の助けにすることを目的にした本は少なくない。ただ、読んでみると共通する部分もあるが、著者ごとに微妙に考え方や伝える内容が異なるようにも思う。仏教を生活に取り入れて生かしたい人なら、複数読み比べると新しい発見があるように思う。
仏教関連の本では大愚元勝著『苦しみの手放し方』(ダイヤモンド社 2020年)などもお勧めである。

『生きる稽古 死ぬ稽古』で今回、特に目に止まったのはヒンズー教の死生観である「アートマン(我)」と仏教の「アナートマン(無我)」という概念である。このふたつの考え方の対比については、本書のベースになるもので、第2章、第3章、第5章などで詳しく書かれている。
簡単に説明すると、前者が不変不滅の「自分」というものがあり、肉体が滅亡しても空いた肉体があればそこに宿り生命を繰り返すというもので、後者はそのような不変の存在はなく、常に関係性の中でその時に存在しているだけという考え方である。そこでは一般に「私」と考えている意識すらもプロセスに過ぎないとされている。後者について詳細を説明すると長くなるので、本書を読んでもらう方が適切(48ページに詳しく載っている)と思う。
私なりに理解を述べると、日々生きていると、あらゆる事象が自分という意識を中心に繋がりが伸びて構成されているように感じがちである。しかし、その意識というのは果たして確立した何かがあるかというと不確かで、寝ている時、認知症が進んでもとの人格からかけ離れた状態はどのように解釈したら良いのだろうか。それも「私」が変化した状態であると解釈できなくもないが、そもそも人間の脳は環境から刺激を受け取り、快不快や感覚を信号として受け取っている。それを人間の場合は言葉があるので「痛い」「冷たい」など言葉に変換している。動物の場合は言葉にすることがないので、ダイレクトに感覚を受け取っている。さらに人間は情動についても「嬉しい」「悲しい」など言葉に変換して、それら一つ一つに区切りを作って日々の刺激を受けている。
生物の多くの姿は、生殖されて生命が生み出されて、環境から体内に何かを取り入れて、あるいは外に出すということを繰り返している。動物であっても植物であっても、あくまで環境や条件によって存在して、時間の中で消化されていく。それはあくまで全体の「一部」なので、ゆえに宇宙が一体のような概念に繋がっていく。
人間は知性が発達して、言葉というものを発明した。環境に適応している存在に「自分」という概念をこしらえたが、現実は他の生物と同様に環境の中で生かされて、時間と共に消化されていく世界(宇宙)の一部に過ぎないというのが仏教の考え方に思う。
話がずいぶん逸れたが、小林さんの『孤独について』にここで繋がるわけだが、「孤独」を考える時に、そもそも「私」という存在をどのように捉えるかは、根本の問題になってくる。この『生きる稽古 死ぬ稽古』では、「私」という存在を強く作るほど、執着につながり苦悩が増すとされている。
では「私」の存在しない「アナートマン」の考え方にどっぷり浸かれば良いのかというと、そのように仏教は教えているわけでもない。
実際に禅僧も「私」という概念を実生活の上では使っているし、本当に「アナートマン」の概念に染まりきった世界は欲が極端に少なくなった世界ともいえる。それで生きていて楽しいのかという問題が生まれてくる。いくつかの本を読んで感じたことは、仏教はそもそも苦しみを手放す教えであり、方法論に過ぎない。それを上手く活用して、その人が幸せに生きれば良いのだと思う。
「孤独」について考えるのであれば、私の存在への考察も避けられない。正解はたぶん人それぞれに存在する。ただ『孤独について』でも『生きる稽古 死ぬ稽古』にしても、先人や隣人の世界を散歩のように触れることが出来るのは、やはり本の効用だろう。

ある休日。用事の帰り道、圦中を車で走っていたので、三洋堂書店に立ち寄ることにした。
名古屋市昭和区の三洋堂書店は、私の学生時代は3階建物の全フロアで書籍を販売していたが、今はドラッグストアや文具、古本、ゲーム類の売り場がフロアを侵食して、新刊の書籍は2階の一部に押しやられてしまった。地域の大きな書店であった三洋堂のこの現実を見ると、本を取り巻く現況がいかに厳しいかが伝わってくる。
そんな中、平積みで目に止まった本があった。『パリと小さな日本人』(藤崎香織著)である。鮮やかな色彩で小さく女性を描いた表紙がセンスよく印象的であった。
装丁が気にいると、誰が描いているのか見たくなるのは、出版に縁がある人間の特性のようなもので、本を手にとると巻末をめくった。
色々と目に入るものを読んでいると、名古屋の「ゆいぽおと」という出版社の本で、著者の藤崎香織さんはフランスと行き来しながら、名古屋でセレクトショップを経営しているという。
なぜ名古屋なのだろう? と素朴な疑問が浮かんだ。名古屋に暮らしている身としては色々と良い面も知っているが、出版にしても文化にしても事業は東京や大阪に集中している。名古屋に暮らしていて、時々、東京に行くとその規模をまざまざと感じて、どこか潮流から遅れたような感覚を受けるのだ。
しかし、その疑問とは別に、表紙はセンス良く、紙も白が鮮やかで良いものを使っているように思えた。少し読んでみて惹きつけるものがある。1600円という値段も魅力的で、「地元本だよなぁ。どうやってこの値段に出来るんだろう?」と、次の著書刊行を控えている(おそらく値段は倍ほどになる)自分としては不思議に思いつつ、手にとってレジに進んだ。

著者は銀行員を辞めて、何の経験もないままセレクトショップの経営をすることになり、パリに足を運んだことをきっかけに、ブランドを起業することになる。パリのファッションに憧れを持ってはいたものの、フランス語は「ボンジュール」くらいしか分からず、人脈もなかったという。
フランス人の価値観やファッションについて紹介した書籍は過去にも何冊か出版されていて、『フランス人は10着しか服を持たない』(ジェニファー・L・スコット著)などのベストセラーもある。この本もそれら既刊本のテーマから大きく異なる点はないのかもしれない。
ただ、何の伝手もないまま、はじめてのパリに出発し(それを本文では「パリ行きの宇宙船」と表現している)、試行錯誤しながら、価値観を見つめ直し世界を拡げていく姿は、日常に不満を感じながらも勇気がなくて箱の中の生活に甘んじている私たちへの励ましのようにも感じられる。
書かれているのは、フランス人のファッションだが、その根底にあるのはフランスで著者が感じた人生観や生き方である。ファッションの考え方は面白くて参考になったし、そのように生きられたら素敵だな、生きてみたいと思わされることも度々だった。日本ではマイノリティ的な考えだが、自分としっくり合うことが書かれていて、大いに頷かされることもあった。
男性の私でもこうなのだから、女性にとってはもっと共感する部分があるのだろう。
文章も読みやすくて、感情が乗せられていて、心を踊らされる。
特に面白く読んだのは……
・シーンをわきまえた着こなしの美しさ(1章2節)
・断捨離より「審美眼」を磨く(1章8節)
・パリは街の娼婦だってファッショナブル(1章13節)
・女を磨くために美容液より大切なもの(4章3節)
・結婚より心のあり方(4章5節)
・彼女の胃袋をつかむのは彼(4章6節)
思わぬところで出会った素敵な本であった。
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