想像力が働かない人々

道を歩いていると、時々、猛スピードで走っていく車に遭遇します。自動車専用道路でもなく、住宅路であり、歩行者との間にはガードレールもありません。一軒家が並んでいて、もしかしたら子供がいるかもしれません。子供がもし飛び出してきたら、到底ブレーキは間に合わないでしょう。その道はすぐに突き当たりなので、そこで一時停止が必要です。多少、速度を出したところでそんなに時間が変わることもありません。

交差点で信号待ちをしていると、下をチラチラ向きながら運転している車が何台かいます。おそらくスマホを見ているのでしょう。電話で通話しながら運転している車もいます。これだけ悲惨な交通事故がテレビのニュースで流れているのに、残念ながらこのような危険な運転はなくなりません。飲酒運転やあおり運転はいけないけれど、このような乱暴な運転や不注意な運転もまた、危険なことには変わりありません。

なぜ、このような運転が成立するかと言えば、おそらく想像力に欠けているからでしょう。子供が飛び出してきたらとか、急に前の車が急ブレーキを踏んだりとか、想像していないのです。さらに言うと、自分が万が一加害者になれば、相手や自分の家族がどのような思いをするのか、想像できていないことでしょう。

そんなことは可能性にすればごく小さいことなのですが、テレビで加害者として報道されている人の中には、その小さな可能性に当たった人もいるはずです。その人が取り立てて運転技術が低かったわけではなく、誰もがそのような事態に陥る可能性があるわけです。

自分が運転していて、乱暴に割り込んでくる車が時々あります。多くの人はマナーを守り、相手に先を譲ったり、あるいは乱暴な車に対しては、あらかじめ配慮したりして危険を減らすようにしています。その考慮や配慮の上に、そのような人たちの運転が成り立っています。

そのような人たちは自分に配慮してくれている人のことをおそらく考えていません。考えたとしても、その配慮に甘んじようとします。

車の運転が分かりやすいので例にあげましたが、おそらく社会の多くのことがこのような図式で成り立っています。想像力が欠けた人が、想像力ある人の配慮の上で生活しています。想像力のある人は、口に出すことができずに、不満を感じつつもじっと我慢して配慮を続けます。

時々、僕はどちらが得なんだろうかと考えます。想像力がない人、あるいは相手の厚意を知った上でわざとそれに甘んじている人というのは、一見得をしているように見えます。一方であんまり想像力が働き過ぎてしまう人は、取り越し苦労も多くなります。

それを考えると、冷静に考えても、むしろ好き勝手生きていた方が得なように思えるのです。全員がそうなってしまうと生きづらい世の中なのでしょうが、周りが分別ある人々であれば、自分は勝手に生きていた方がずっと楽ではないのか? そう思えてきます。

交通事故を起こして取り返しのつかないことにでもならない限りは、想像力のない人や勝手な人たちの人生を諭す理屈は存在しません。そういうことをしたら、こうなってしまうからダメですよ、という理屈が必ずしも成立しないのです。

しかし、そう言っても僕は、想像力のない人よりも、想像力のある人間でありたいと思うのです。その単純明快な理由はないのですが、想像力がない人間は人生で見えるものが少なくなります。その範囲の人生しか過ごすことができないと言うことです。

考えられる理想は、想像力を働かせつつ、そのネガティブな面を超えて、ポジティブな面を実行に移すことです。それを可能にするだけの精神力を持つことです。想像力が働く人というのは良い意味でも悪い意味でも色々なものが見えます。必要以上にリスクを感じるので実行力が乏しくなるのです。

多くの人は想像力を働かせても実行に移すことができません。それゆえに、勝手にやっている人に比べて損ばかりになってしまいます。本当に理想を体現できる人はわずかなように思います。

僕もそれができるようになりたいと思っている1人です。

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兼業作家。2023年4月『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)上梓。歴史全般が興味の対象ですが、最近は大正~昭和の文化、芸術、演劇、映画、生活史を多く取材しています。プロフィール写真は愛貓です(♂ 2009年生まれ)。よろしければTwitterのフォローもお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。