言葉の危険なエネルギー

言霊(ことだま)という言葉が昔からあるように、言葉の持つ力については昔から多くの人が指摘しています。

ポジティブシンキングを信条とする人の中には、ポジティブな言葉しか使わないという人がいます。嫌なことがあったとしてもポジティブな言葉で言い換える、ネガティブな言葉は言わないということです。

その人の精神的な傾向が言葉に表れるというのは、理屈は別にして素直に納得できます。普段から口を開けば、人の悪口や妬み、僻みばかりの人がいます。苦境でも弱音を一切吐かないで前向きな人もいます。

このどちらが良い人間関係や優れた仕事をするかは一目瞭然です。

この関係を応用したのか、内面は置いておいて、言葉だけでも良い言葉を使うように説く本もあります。言葉の力によって、それに釣り合う内面に変化していくと言います。

僕はこの方法の是非は別にして、嫌なことや悲しいことがあるのに無理にポジティブな言葉を使うのは、どこかに負担があると思うのでそこまではしません。また程度の問題はあれ数々の負の感情も自分の一部であって、それを無造作に塗りつぶしてしまうとすればそこに懸念を感じます。

ポジティブシンキングにしても、人間が追従して無条件に従うものではなく、人間が扱うものであれば良いものと思いますが、何でも画一的にポジティブにという考え方は、感情自体を平坦にしてしまう危険をはらんでいるようにも感じています。

教育学者の斎藤孝さんは「人生賛歌 愉しく自由に美しく、又のびやかに」(美輪明宏さんとの共著)の中で、感情の「襞」(P31)という言葉を使っていましたが、その言葉にも通じる問いだと思います。

しかし、苦境でも自然に前向きな言葉が出るなら、その人の人格は素晴らしいと思います。そのような人間でありたいとは思います。

さて、今回はそのような言葉の力とは少し違うお話です。ですが、言葉のある側面を表していると思います。

僕は自宅で療養されている方を対象に、お宅に訪問してリハビリをしていたこともあります。そこで多くの患者様と家族の方に会いました。

基本的に高齢の方が多く、患者様だけでなく、介護する家族の方も何かしら持病を抱えていることが、珍しくありませんでした。

そこでよく見かけたのが、認知症の奥様が病気のご主人を介護する家でした。そのような家はいくつか見たのですが、逆に認知症のご主人が病気の奥様を見ている家は、訪問の機会がありませんでした。

そこでは奥様が認知症で理解が悪いためか、ご主人は怒鳴ることが多かったように思います。しかし、ある時に気付きました。認知症だから怒鳴っているのではなく、もともと奥様を怒鳴っているような家庭ではなかったのか?

ある御宅は、とても短気なご主人で、僕も電話口で怒鳴られたことがあります。経験のある人はわかると思いますが、怒鳴られた瞬間に頭に衝撃が走ります。

こんなエネルギーを毎日のように浴びせられていたらどうなるのでしょうか? 頭に衝撃が走るだけではありません。怒鳴られて身体を伸ばす人はいません。身をすくめます。身体を小さく丸めては呼吸も大きくできません。怒鳴ることを何百回と繰り返したら、身体はどうなるでしょうか?

言葉も立派なエネルギーです。例えば壁を思いっきり拳で殴れば、壁にヒビが入るか、自分の骨にヒビが入ります。勝手にエネルギーが消えることはありません。

怒鳴った言葉のエネルギーは、耳から脳に衝撃を与えます。夫婦にしても、親子にしても、そのような行為は危害を与えるものです。しかし、これを暴力と理解している人は少ないでしょう。

最初に出た言霊の話にしてもそうですが、言葉は様々な可能性を持っています。それを良い方向に使えるように考えていきたいものです。あらゆる面から思慮深くなりたいものです。

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兼業作家。2023年4月『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)上梓。歴史全般が興味の対象ですが、最近は大正~昭和の文化、芸術、演劇、映画、生活史を多く取材しています。プロフィール写真は愛貓です(♂ 2009年生まれ)。よろしければTwitterのフォローもお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。