毎日を生きていて、快調で敗れることを知らない人生であれば、それは幸せなのかもしれません。しかし、そのようなことは少なくて、多くの人生では挫折も苦境も存在します。
そのような時に心が折れずに自分ひとりで乗り越えることができれば、それは立派なことだと思います。しかし、たくさんの人が心を痛めて、悲しみや苦しみを感じるはずです。そんな時に自分の弱さや周りに助けられて生きていることを実感します。
苦しい時に誰かが優しく声をかけたり、理解を示したりすることで、その人が救われることがあります。本人が大したことをしたつもりがなくて覚えてないようなことでも、相手にとっては一生忘れないような出来事になり得ます。当たり前と思っていることが誰かを助けて、もしその人もどこかで誰かを同じように助けたら、それは優しさの連鎖と言えるかもしれません。
人間は自分で治る力を持っていると僕は考えています。しかし、それが何らかの影響で上手く機能しないことはよくあります。それは身体的にも精神的にもあります。僕は理学療法士や整体業をしていますが、身体的な問題であれば、身体のある部分を治療することで全体が変化することはよくありますし、精神的な問題であれば、何かひとつの出来事がきっかけでずっと苦しんでいるということはあると思います。
精神的な問題であれば、そこまで大きな問題でなくても、人間ですからショックを受けることも落ち込むこともあるでしょう。自分で回復することが出来るかもしれませんが、他人からの優しさが薬となって回復を早めることはよくあると思います。
こういう助けは突然あるところから起こるように感じるかもしれませんが、必ずしもそうでなくて、その前に本人に自覚がなくても他人を助けていたり、誰かに感謝されるような生き方をしていたりします。僕もそのような人を見たことがあって、普段から周りを気遣い、優しくしている人は、何かあった時に周囲が放っておきません。われ先にその人のフォローをしようとします。
そのような目立った動きがなくても、何かそのような優しさの流れというか、連鎖というのはあるように思うのです。
いつか自分も何かあるかもしれないから、と他人に優しくするのは打算であって気が引けるかもしれません。でも、それで自分に見返りがないことで不満を溜めるようなことがなければ、動機はどうあれ他人に優しくするのは良いことだと思います。
挫折や苦しみ、悲しみがなぜ起こるのか? そのような場面に直面した人の多くが持つ感情だと思います。それには多くの答えがあると思いますが、それにより悲しみや苦しみを知って、他人の気持ちがわかるようにはなるはずです。さらに言えば、他人の優しさや自分一人で世界を生きているわけではないと知ることもできます。
快調で挫折知らずの人生ではそれらを感じることもないかもしれません。しかし、それは危険なことのように思います。他人の気持ちがわからないまま人生を進んで、いつか起こる最初の挫折が大き過ぎるものになるかもしれないからです。
一方で、過度な優しさは人を甘やかし、堕落させるという考え方もあるかもしれません。本人に問題があって挫折や苦境が起こっているとすれば、それを安易に助けては同じような問題を繰り返すという考え方です。そのような考え方も一理ありますが、甘い言葉をかけるだけが優しさではありません。難しさはありますが、本人に問題があることを悟らせて、健全な方向に向かわせるという優しさの形もあるように思います。
挫折や苦境は人間が持っている感情を育て、維持する上で必要な過程のように思います。そして、そこから健全に回復させるために優しさが必要なようにも思います。いわば優しさとは人が感情を生育する上で必要な心を守る薬のように思います。そうだとすれば、優しさの連鎖は人間が感情を育む上でのセーフティネットのようなものであり、皆がそこの一員になれば暖かい空間が生まれるような気がするのです。
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