園井恵子ゆかりの地を巡る ~岩手県編

(写真:岩手川口駅前。園井恵子の幼少期の家があった通り。現存する2軒目の家が左手に見える)

ここでは園井恵子に関係する施設やゆかりの地を紹介していきます。実際に足を運ぶことで、より園井さんを理解できるとともに、その人生を追体験できると思います。岩手県の見所は主に旧川口村付近、旧松尾村付近、盛岡駅付近、その他の4つのエリアに分けられると思います。

岩手川口駅付近:岩手町働く婦人の家(園井恵子資料室、ブロンズ像)、川口駅近辺(住居跡)

旧松尾村付近:八幡平市松尾ふれあい文化伝承館

盛岡駅付近:岩手県公会堂、盛岡城址公園、上の橋、叔父宅跡、岩手女子師範附属小学校跡、盛岡劇場、恩流寺、岩手県立図書館

その他:繋温泉

岩手川口駅付近

岩手川口駅は盛岡駅からIGPいわて銀河鉄道線で所要時間30分ほどです。駅は最近改築されて、昔の面影はありませんが、駅前の広いスペースではかつて、ここから多くの材木を貨物列車で運んでいて、その名残りを残しています。

旧駅舎(2017年撮影)。すでに一部の改築工事が始まっています。

店舗兼住宅跡

岩手川口駅前はかつて園井恵子が幼少期に暮らしていた場所です。駅から郵便局のある通りを直進すると、左手にかつて園井さんが住んでいた家が現存しています。

園井恵子は岩手県松尾村(現在の八幡平市)で生まれ、1歳の時に川口村(現在の岩手町)に引っ越します。父親はお菓子屋でした。現在、残っている建物は、引っ越した後に新しく建てた2軒目の店舗兼住宅と言われています。最初の店舗跡はすでに取り壊されています。

川口村に引っ越してから建てた2軒目の店舗兼住宅(2017年撮影)

いわて沼宮内駅から岩手川口駅への道(国道4号線=奥州街道)は、幼少期の園井さんがよく歩いた道です。園井さんはお祭りが好きで、終電が終わった後も踊っていたそうです。祭りは沼宮内駅付近で行われていて、園井さんは川口駅の家まで歩いて帰ったそうです。

実際に歩いてみると、なかなかの距離です。大正時代の夜中であれば、街灯もそう多くはなかったでしょうし、どのように帰っていたのか、とても興味深く思います。

写真にある2軒目の店舗兼住宅も現在は取り壊されて現存しません(2024年2月追記)

岩手町働く婦人の家

岩手町働く婦人の家(2017年撮影)。左上のような看板があります。左下には小さくブロンズ像が写っています。

IGP銀河鉄道線の岩手川口駅から徒歩5〜10分ほどの距離に「岩手町働く婦人の家」という施設があります。駅から郵便局のある通りを直進して突き当たりを右に曲がり、しばらく歩くと右側に看板が見えます。施設内には園井恵子資料室、敷地内にはブロンズ像があります。

園井恵子資料室は6畳ほどの小さな部屋で、写真パネルや遺品が展示されています。僕が見学に行った時は宝塚少女歌劇時代の日記や、映画「無法松の一生」で使用した衣装の一部が展示されていました。

園井恵子資料室内観(2017年撮影)。

園井恵子ブロンズ像は、加藤豊氏により1996年(平成8年)に作られました。宝塚歌劇団の若い方に実際に袴を着てもらい細かな部分の参考にしたそうです。台座の螺旋が途中で途切れた形になっていますが、それは志半ばで途絶えた人生を表しています。

周囲の畑には季節によって、色とりどりの花が植えられることも、園井さんの好きなトウモロコシが植えられることもあります。

園井恵子ブロンズ像(2013年撮影)

IGP銀河鉄道線の好摩-岩手川口間では、ブロンズ像の後ろ姿も見えます。

「岩手町働く婦人の家」は、月・水・金 8:30-15:30に開いています。見学の際は事前に問い合わせすることをお勧めします。電話:0195-65-3080

旧松尾村付近

八幡平市松尾ふれあい文化伝承館

八幡平市松尾ふれあい文化伝承館(2013年撮影)

園井さんの生まれ故郷である松尾村ゆかりの著名人の展示などをしています。僕が訪問した時は、園井さんについては、着物、アルバム、雑誌の記事を貼り付けたスクラップブック、小箱、鏡などが展示されていました。また昭和18年頃の日記が書かれた手帳もありました。

倉庫には「園井恵子資料集」を作成した際の草稿、池田文庫から提供された「歌劇」誌、資料集完成の際に関係者とやり取りされた手紙なども保管されています。

ネットで調べると大更駅からバスで20分とされていますが、どこのバス停で下りたらいいのかなど説明がありません(僕は車で行ったのでそのあたりが詳しくないです、すみません)。事前に問い合わせて行っていただけたらと思います。
住所:〒028-7301 八幡平市野駄7-84-1
電話:0195-76-3235(八幡平市松尾地区公民館)

盛岡駅付近

岩手県公会堂周囲の地図

岩手県公会堂

岩手県公会堂(2017年撮影)

岩手県庁、盛岡市役所など県の中枢施設が並ぶ盛岡市内丸に、岩手公会堂はあります。1926年(昭和2年)に完成した岩手公会堂は、現在も建設当時そのままの姿をとどめていて、2008年(平成20年)には国の登録有形文化財に登録されました。

本土空襲がいよいよ激化を迎えようとしていた1945年(昭和20年)1月、岩手で合宿をしていた桜隊は、ここで公開稽古をします。公開稽古と言っても当局には秘密で、地元の演劇関係者相手に行ったものでした。

あらゆる娯楽が統制下に置かれていました。もし秘密が漏れれば、ただでは済まない時代でした。

暗幕を張って稽古をしたと伝えられています。その時に使った部屋は現在は21号室と呼ばれ、今も当時に近い状態で保存されています。

岩手県公会堂21号室。ここで桜隊の公開稽古が行われた(2017年撮影)。

現在、岩手県公会堂は市民に会議室やホールを解放していて、それに使用していなければ、見学することができます。

利用方法、アクセスなど詳しくは岩手県公会堂のホームページを参照してください。
http://iwate-kokaido.jp/

上の橋

上ノ橋。欄干は当時のまま残っています(2017年撮影)。

1996年(平成8年)4月12日の岩手日報に「薄幸の元宝塚女優・園井恵子さん 盛岡・上の橋で素顔のスナップ」という記事が掲載されました。頼まれて地元の子供と写真撮影に応じた時のもので、宝塚で撮影した顔とはまた違うリラックスした様子がうかがえます。前の記事「園井恵子の関連書籍・文献・映像作品」で紹介した河崎なつ「人としての園井さん」の中には、空襲で学校が焼けていると聞いて「子供たちがかわいそう」と言って走っていくエピソードが書かれています。この笑顔を見ると、子供が本当に好きだったのではないかと思います。

1996年4月12日岩手日報より

叔父の菓子屋跡、岩手女子師範附属小学校跡

園井さんは川口村の小学校を卒業した後、県立盛岡高等女学校の受験に失敗して、岩手女子師範附属小学校の高等科に進学します。盛岡には叔父の多助が菓子屋「千秋堂」を開いていて、そこから学校に通うことになりました。叔父宅の横には平安商店という店があり、その家とは死ぬ直前まで家族ぐるみで付き合いがありました(平安商店は場所を変えて現在も営業しています)。また叔父宅と平安商店の向かいには藤沢座という芝居小屋があり、園井さんにとっては芝居を見ることが大の楽しみでした。現在は当時の面影は何も残っていません。

かつて叔父宅、平安商店、藤沢座があった通り。向かって左側に叔父宅、平安商店、右側に藤沢座があった(2017年撮影)。

岩手女子師範附属小学校は現在の盛岡地方検察庁のあたりにありました。それを考えると、叔父宅から毎日、南にある与の字橋を渡って、川や上流に見える山々を眺めて学校に通ったのでしょう。通学路を想定して街を歩いてみるのも良いかもしれません。

盛岡城址公園(岩手公園)

長年、岩手公園として親しまれてきましたが、2006年(平成18年)に愛称を「盛岡城址公園」として、地図などでもそのように記載されています。「仲よしのお友達とよく出かけた盛岡の岩手公園」(「宝塚グラフ」昭和15年3月15日号)と園井さんも書いていて、思い出の場所の1つだと思います。石川啄木が学校を抜け出して遊びに来ていたとも言います。

南部(利祥)中尉騎馬像の跡(2017年撮影)

かつて重要なモニュメントであったであろう南部公の銅像は1944年に軍需資材として供出され、現在は台座のみが残されています。園井さんが遊んでいた当時はまだ銅像があったはずで、そのような経緯にも時代の流れを感じることができます。

盛岡劇場

盛岡には多くの芝居小屋と活動写真館があり、戦前も文化的に非常に高い都市だったと言えます。地図に残っているだけでも、盛岡劇場、藤沢座、内丸座、記念館、第二記念館とあります。花巻農学校教師時代の宮沢賢治も、藤沢座や盛岡劇場を訪れたと記録に残っています。昔からの寄席や芝居だけでなく、チャップリンの映画や少女歌劇などを観るため花巻から幾度となく通いつめたと伝えられています。

この中で盛岡劇場は現在も営業を続けています。盛岡劇場は大正2年に完成しました。起工には当時、大きな劇場がなく中央から有名な興業を呼べなかったのが背景にありました。こけら落としには松本幸四郎(7代目)大一座が呼ばれて大活況を盛しました。園井さんが幼かった頃の盛岡劇場はできたばかりの最新の劇場でした。大の芝居好きでしたから盛岡劇場にも何度も通ったのだと思います。

園井さんは「私が初めて歌劇らしいものを見たのは、小樽に宝塚少女歌劇の姉妹座とかいう歌劇団が訪れた時でした」と書いています(「歌劇」昭和13年3月号)。調べてみると、盛岡劇場で大阪宝塚姉妹座少女歌劇団という劇団が大正14年3月に公演した記録があって、もしかしたら、この時のことと勘違いしているのではないかと考えています(小樽ではそのような記録は見つかりませんでした)。

盛岡劇場(2017年撮影)

恩流寺

恩流寺(2017年撮影)

園井さんの墓があります。盛岡駅からはかなりの距離があり、JR山田線の上盛岡駅が最寄りです。8月には「園井恵子を語り継ぐ会」により墓参りが行われています。

園井恵子(袴田家)の墓(2017年撮影)

恩流寺
〒020-0013
岩手県盛岡市愛宕町21-10

岩手県立図書館

園井さんとは直接関係ありませんが、郷土のことや時代背景を知りたいなら県立図書館が良いと思います。僕自身、岩手に足を運んだ時は毎日のように通いました。盛岡駅の近くにあり交通アクセスも抜群で本当にありがたい存在です。建物も新しいですが、職員さんの制服が少しおしゃれな気がします。

岩手県立図書館。いわて県民情報交流センター(アイーナ)内にあります(2015年撮影)。

その他

繋温泉

1945年(昭和20年)1月、岩手で合宿をしていた桜隊は、この繋温泉の愛真館に滞在していました。愛真館の創立者と園井さんの家族が旧知であった縁でした。愛真館は現在も繋温泉で営業を続けています。

園井さんが合宿をしていた時、後に映画評論家となる盛内政志が桜隊一行を迎えに行きます。盛内は資料集に「たいへん雪の深い朝で、小岩井駅から馬橇をつなぎ橋の手前で降ろされ、そこから先は深い雪道を歩かされたのだった」と寄稿しています。当然、その道は園井さんたちも歩いたはずなのですが、現在はほとんど残されていません。

1981(年昭和56年)に完成した御所ダムにより周囲の地形がだいぶ変わっているため、当時の主要道は今は使われていないかダムの底に沈んでいるのが現状です。盛内が書いている「つなぎ橋」は現在かかっている繋大橋の南に位置していた橋で現在は残っていません。

つなぎ橋につながる旧道。現在は通行止めになっている。後ろに見える水面は御所ダム(2017年)。

ダムの水面の下にはかつて多くの民家があり、その土地の生活がありました。園井さんと桜隊だけでなく、そのような人々への思いも感じずにはいられません。「湖底のふるさと繋」と呼ばれる写真集があり、ありし日の繋地区の写真が収録されています。前述の岩手県立図書館で閲覧できます。

まとめ

園井恵子に関係する施設やゆかりの地について岩手県でまとめました。必ずしも当時の状態が残っているわけではありませんが、道や地形は昔の形を残していて、そこを歩くことで園井さんの見た風景を追体験できるのではないかと思います。全てが公共の施設ではなく、見学の際は周囲の迷惑にならないよう配慮していただくようにお願いします。

他の地域についても後の記事でまとめていきたいと思います。

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ABOUTこの記事をかいた人

兼業作家。2023年4月『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)上梓。歴史全般が興味の対象ですが、最近は大正~昭和の文化、芸術、演劇、映画、生活史を多く取材しています。プロフィール写真は愛貓です(♂ 2009年生まれ)。よろしければTwitterのフォローもお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。