先崎学を応援する

2017年のことだったと思います。久しぶりに日本将棋連盟のホームページを見ていたところ、あるページのところで目が止まりました。

それは順位戦B級2組の箇所でした。先崎学九段の欄に黒い四角が並んでいました。黒い四角は不戦敗を指します。棋士にとって不戦敗の意味は大きく、よほどの事情があることが推察されました。

ホームページ上には公表されていなかったのですが、後日に理由を知ることができました。

それは2018年7月に本人執筆の書籍「うつ病九段 プロ棋士が将棋を失くした一年間」が発行されたからでした。

うつ病という病名を聞いて、僕自身は分からないでもないと思いました。僕は全くの門外漢ではありますが、彼の将棋の戦績を追って、書いた文章はよく読んでいた身からすると、その感受性の強さや繊細さは以前から色々と感じるところがあったからです。

前回は村山聖九段の紹介をしましたが、今回の先崎学も村山より1学年下で、羽生世代と呼ばれる棋士の1人です。

故・米長邦雄永世棋聖門下で、この世代には珍しく内弟子を経験しています。同時期の弟子に林葉直子さんもいます。

先崎の才能は少年時代から認められていて、1979年(昭和54年)、「よい子日本一決定戦 小学校低学年の部」で優勝しています。準優勝は同学年の羽生善治でした。

小学校4年の時から米長のもとに弟子入り、内弟子生活を始めます。米長は、プロを目指す者はアマチュアの大会に出てはならないという考えで、先崎に大会の参加を禁じます。先崎のいない小学生大会ではその後、羽生善治が席巻しました。

おそらく先崎は自分が出ていれば、という気持ちがあったでしょう。

小学5年生の時、先崎は奨励会に合格します。1年も満たないうちに2級に昇進して、その才能の高さを見せつけます。しかし、このあたりから先崎の昇進速度は急低下して、1級になるのに2年を費やします。小学生にして麻雀や酒を覚えた結果で、その間に1年遅れて奨励会入りした羽生に追い抜かれます。

当時の雑誌「将棋マガジン」に、羽生と先崎が並んだ写真が掲載されました。そこには羽生に「天才」、先崎には「元天才?」と付けられていて、先崎はこの「元天才?」という言葉に相当に衝撃を受けたらしく、「?」がついていなければ将棋をやめていただろうと著書「一葉の写真」で語っています。

先崎は17歳でプロ四段になります。17歳3ヶ月での四段は、羽生や森内俊之にこそ遅れをとったものの、同世代の佐藤康光、村山聖、郷田真隆、丸山忠久よりも速いものでした。このことも先崎の才能を表しています。

1987年にデビューすると、1988年竜王戦で予選6組優勝、本戦2回戦に進出(羽生に敗れる)、1988年度のNHK杯でもベスト8に進出するなど頭角を現します。

そして1990年度のNHK杯では準決勝で羽生、決勝で南芳一棋王を破り、初優勝を達成します。副賞の純銀製の優勝杯に酒を入れて飲むというパフォーマンスも演じました。当時20歳でした。

名人につながる順位戦は、最下級のC級2組を突破するのに8年を要しますが、1997年度の順位戦からC級1組、B級2組、B級1組と3期連続で昇級します。

いよいよ先崎学の逆襲が始まるかと思われましたが、2年後(2001年度)のA級順位戦でB級1組に降級、2005年度のB級1組の順位戦でB級2組に降級、2015年度の順位戦で10年ぶりにB級1組に昇級するも、翌年に1勝11敗の成績で降級します。

デビューして30年以上経過しますが、その間にタイトル挑戦はなく、挑戦者決定戦に2回進出したもののどちらも同世代の佐藤康光に阻まれています。1995年度の竜王戦挑戦者決定3番勝負では、わざとジーパンというラフな服装で佐藤を挑発しますが、1勝2敗で敗れています。

先崎ほどの才能がタイトル獲得どころか、挑戦にすらこれまで届かなかったという現実は大きな違和感があります。もちろんタイトル挑戦は大変なことなのですが、先崎のデビュー当時は他の羽生世代の棋士たちと遜色ない才能とされていて、他の棋士がタイトルを多く獲得した成績と比べると、大きく差を付けられています。

同じ羽生世代と呼ばれる羽生善治、佐藤康光、森内俊之らは若い頃、将棋一筋の「純粋培養」と評されていました。実際にはそのようなことはないと思いますが、前世代の棋士たちと比べると優等生に見えたのでしょう。そのような中、先崎は酒も飲む、ギャンブルもやる、大きな口をたたくという昔の棋士を思い起こさせるタイプの天才であり、中には人生経験の豊かさが生きて、いずれ先崎が羽生らを追い抜かすだろうという論調もありました。

しかし、実際のところは先崎は他の棋士たちに追い付くことができず、今のところ、将棋が強くなることに関しては将棋を勉強するしかないということを実証する形になっています。

先崎学を評すると、最初に思い浮かぶのはその才能の豊かさでしょう。将棋の解説は面白いですし、文章の才能にも恵まれています。「飲む、買う、打つ」という言葉になぞらえて、「飲む、書く、打つの天才」と評されたこともありました。僕は10代から20代にかけて先崎の本をたくさん読み、その文章に影響を受けました。文章で人に影響を与える棋士というのは、おそらく後にも先にも先崎学だけでしょう。著書を読んでみると、様々な分野に見識があることもうかがえます。その才能の多彩さが、将棋の成績という観点では良くない影響を及ぼしたというのが一般的な見方だと思います。

僕は先崎学は2005年にB級2組に陥落していて以来、そこでも10年間突出した成績を残すことができず、もはやトップ争いをするのは厳しいと考えていました。勝負の世界では後ろから追う若者の勢いが圧倒的に強く、それには並大抵の力では対抗できません。一度、勢いを失った者が再びトップを目指すのは、若い時とは比べものにならない困難さで、それはほぼ奇跡と呼べる確率の出来事です。

多くの才能に優れて、結婚もして(妻は囲碁棋士の穂坂 繭)、年も重ねて性格も丸くなったであろう、頭の良い先崎ならもうその事実を悟って、どこかで諦めの境地に浸っているのではないかと勝手に思っていました。

しかし「うつ病九段」には次のように書かれていました。

私は六歳で将棋を覚え、九歳でこの世界に入った。十七歳でプロになって三十年。だらしなくて常識がない私は、自分は将棋が強いんだという自信だけで世の中を生きてきたのである。勝ち負けとか金とか以前に、将棋が強いという自信は自分の人生のすべてだった。その将棋が弱くなる。

考えられなかった。それだけは絶対に許せなかった。

「うつ病九段」P119より

そこには若い頃のプライドの高い先崎学がまだ生きていました。「まだ、あきらめていないのか」と意外でもあり、少し嬉しい気持ちにさせられました。

先崎の文章からは熱い気持ちが伝わってきます。同時に繊細さも伝わってきます。前回の記事で村山について書かれた部分を紹介しましたが、仲間や将棋に対して愛情を隠しません。人間らしい棋士なのです。本当はその人間らしさが勝負の世界では足を引っ張っているように思います。それを内包した上で勝ち上がるのは並大抵ではありません。

以前、先崎は囲碁棋士・小林覚の「甘いと思うなら、甘いままで天下を取ればいい」という言葉に感銘を受けたと言います。それは困難な道ではありますが、ほとんどの人間が成し遂げない価値ある道とも言えます。

もし、あきらめていないのなら、ファンの見える舞台で強豪相手に一太刀、二太刀浴びせる姿をまた見せてほしいものです。良いところなくズルズルと敗れる姿は見たくありません。あの羽生善治ですらタイトルを全て失った今、かつて羽生と並ぶ才能と呼ばれた将棋で奇跡を見せてほしいものです。

せめて先崎ここにありという気概を見せてほしいと思います。

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兼業作家。2023年4月『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)上梓。歴史全般が興味の対象ですが、最近は大正~昭和の文化、芸術、演劇、映画、生活史を多く取材しています。プロフィール写真は愛貓です(♂ 2009年生まれ)。よろしければTwitterのフォローもお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。