園井恵子ゆかりの地を巡る ~小樽編

岩手県盛岡市の岩手女子師範附属小学校の高等科に通っていた園井恵子さんですが、下宿していた叔父の多助一家が小樽に引っ越すことになり、それについていく形で小樽に移住します。

園井さんは小樽でも伝統が最もある庁立小樽高等女学校に入学します。地元の女の子の間ではその紺サージの制服があこがれでした。結果的に2年ほどの小樽での生活でしたが「雪の小樽、懐かしい小樽の街は、いつ思い出しても楽しい印象を残しています」(「歌劇」昭和13年3月号)「岩手県は第一のふるさと、北海道は第二のふるさと、そして宝塚はいま住んでいながら、心のふるさとなのです」(「宝塚グラフ」昭和15年3月15日号)などと書き残しています。

小樽駅

はじめて北海道の地を訪れた時、園井さんは次のように書いています。

雪の青森から雪の小樽へ、白一色に塗りつぶされた冬の旅は、なんの変化もないようですが、汽車の窓から見る二つの雪景色に、私はなんとなく異なったものを感じたのでした。……そして小樽駅で降りて、祖母とともに橇で家まで連れて行かれるときには、見知らぬ国に来て、またどこへ自分は連れて行かれるのだろうと、心細さに思わず祖母にシガミついた私でした……。(「歌劇」昭和13年3月号)
園井さんたちは青函連絡船を経由して函館本線で小樽に向かったと考えられます。山間部では雪で白一色だったでしょうし、海岸線は雪が降る暗い荒々しいものだったのでしょう。見知らぬ土地に足を踏み入れたことと合わせて、不安な気持ちが強まったのだと思います。

現在も小樽駅に到着するまでの地形は多くが当時のままですから、大雪の日は園井さんの気持ちを追体験できるかもしれません。また小樽駅はところどころに昔の情景を意識的に残していて、それを見ても当時の雰囲気が伝わってきます。

小樽駅。昔の表札を残しています(2013年撮影)

 

小樽駅。天井に昔の表札が見えます(2013年撮影)。

水天宮

園井さんは「思い出の小樽」という詩を残していて(「歌劇」昭和9年5月号)、その中で「水天宮の丘にのぼって 小樽の夜の街をながめるのが 私は、たまらなく好きだった」と書いています。水天宮はほとんど当時の形で残っています。

水天宮入口の鳥居(2013年撮影)

 

水天宮の階段横にある「小樽聖公堂」は明治40年建築で指定歴史的建造物になっています。園井さんが歩いた時も見ていたのでしょう(2013年撮影)。

 

水天宮境内。走り回れるような広い空間があります(2013年撮影)

 

水天宮からの小樽市街地の眺め。園井さんも見ていたのでしょうか?(2013年撮影)

住居跡、園井さんの通学路

小樽市入船4丁目付近地図

現在の小樽市入船4丁目は、かつて聖ヶ丘と呼ばれていた小山を囲むように道路が配置されています。山の頂上付近に現在は小樽看護専門学校があります。この聖ヶ丘では冬になるとスキーが行われていて、園井さんも体験したと言います。

この入船4丁目は過去の住所だと入船町8丁目でした。「園井恵子資料集」では園井さんの小樽時代の住所は入船町8-6としており、もしそうだとしたら地図上の「住居A」の地点にあたります。「小樽市史軟解」では入船町8-69としています。もしそうだとしたら「住居B」の位置になります。いずれも昭和5年に販売されていた地図を参考にしました。ただ、僕が小樽に取材に行った時、「住居C」の地点に住んでいた人が入船町8-69の住所を使用していたことを確認しました(住民票も見ました)。昔の地図だとものによって微妙に番地が違うこともあり、細かい場所という面では曖昧さが残ります。

入船町8-6だったのか8-69だったかでは厳密に確かめる方法はないのですが、園井恵子資料集にはいとこの袴田綾子の証言があり、そこでは「小樽のイクセの坂を上って、アカシアのある近道から、道のない急な坂を下りて、入船町の伯父さんの店のある家に行く私でした」と書かれています。イクセの坂とは後述しますが育成院という孤児院があった前の坂です。地図を見れば、8-6(地図上の「住居A」)に向かうのであれば近道を使う必要はなく、道なりに進めば良いはずで、この証言から僕は入船町8-69だったのではないかと考えています。

入船町8-69は現在の「入船3丁目」のバス停、南湯温泉の付近です。そこから学校に通うとすると、ちょうど細い近道があり、そこを通学路に使っていたのではないかと考えています。昔の地図でも存在は確認しており、今も雰囲気がある小道です。

園井さんの通学路(2013年撮影)

通学路から大通りを見た風景(2013年撮影)

育成院跡、元育成院の坂

叔父の多助に付いて小樽に引っ越してきた園井さんですが、すでに別の叔父・商助が先に小樽で暮らしていました。おそらく多助は商助を頼って小樽に行った部分もあるのだと思います。商助の娘が前述の綾子で、おそらく入船より南東に当たる奥沢地区あたりに住んでいたと思われます。奥沢地区から入船に行くには、育成院の坂を行き来するしかありませんでした。

育成院とは現在の奥沢中央団地の場所にあった孤児院です。現在は小樽市オタモイに移り、老人ホームとして運営されています。育成院の前にあったから「育成院の坂」で、育成院が移ってからは「元育成院の坂」と呼ばれています。実際に歩いてみましたが、なかなかハードな坂です。

1928年(昭和3年)に発行された『小樽育成院三十年誌』(北海道立図書館所蔵)という資料があります。坊主の男子ときれいなおかっぱ頭の女子が、机を囲んで学ぶ姿や食事をしている姿、付属の農場で急造の机を作り勉強している様子(林間学校と書かれている)などが写真に収められています。叔父・商助の家にも出入りがあったはずなので、育成院の坂を園井さんも行き来したことでしょう。子供好きで世話好きな園井さんですから、育成院とは何らかの交流があったかもしれません。そのような想像もできる坂です。

北海道庁立小樽高等女学校跡

北海道庁立小樽高等女学校は、現在は共学の小樽桜陽高校と名前を変えて小樽市長橋に移転しています。女学校跡地は小樽市立菁園中学校となりましたが、学校前の急坂は園井さんが通っていた当時と変わらず、現在も当時の風情を残しています。また、校門前には女学校の石碑があります。

庁立小樽高等女学校(1931年頃)

小樽市立菁園中学校。校舎前の急坂は昭和初期の地形をそのまま残しています(2013年撮影)。

菁園中学校前の小樽高等女学校の石碑(2013年撮影)。

園井さんは水天宮でもそうでしたが、高いところから風景を見るのが大好きなように思います。菁園中学校の坂の上から市街地の方を見るとかなり遠くまで見渡せます。当時は今よりも高い建物がなかったはずなので、小樽の市街が一面見渡せたのではないかと思います。きっと園井さんが見た風景なのだと思います。

菁園中学校から見た小樽の町。マンションに隠れていますが、水天宮の山も見えます(2013年撮影)。

市立小樽図書館

市立小樽図書館(2013年撮影)

園井さんに関する直接的な資料はほとんどありませんが、郷土に関する歴史や時代背景を知りたい場合は、とても頼りになる存在です。小樽は当時、北海道でも1、2を争う商業都市であったため、多くの地図が作成されており、園井さんの住所がどこであったのか調べる時に重宝しました。また、岩坂桂二の「小樽市史軟解」は小樽の明治、大正、昭和初期の雰囲気を知る上でありがたい資料でした。

その他にも園井さんが通っていた小樽高女の記録や小樽の歴史、文化について興味深い資料が多くありました。図書館が保管する郷土の資料がどれだけ、時間を経て人と人をつなぐことに貢献しているのか、いつも頭が下がる思いです。

まとめ

小樽での園井恵子ゆかりの地についてまとめました。園井さんが住んでいた期間は長くありませんが、多感な時期を過ごした思い出深い場所なのだと思います。

園井さんは小樽から岩手に戻った後、少しの時間を隔てて宝塚に向かいます。もし、小樽高女で卒業まで過ごしていたら、女優にはならなかったかもしれません。小樽から岩手に戻った経緯ははっきりはわかりませんが、その後の様々な動きを見ると、世話になっていた叔父の家も経済的に苦しかったのだと思います(数年後に叔父の一家はブラジルに移民します)。

そのような意味では小樽は園井さんの人生にとって分岐になった場所です。小樽を去った背景にはおそらく悲しさを含んでおり、園井さんのことを思いながら小樽の街を歩くと、少し感傷的な気分になるのです。

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ABOUTこの記事をかいた人

兼業作家。2023年4月『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)上梓。歴史全般が興味の対象ですが、最近は大正~昭和の文化、芸術、演劇、映画、生活史を多く取材しています。プロフィール写真は愛貓です(♂ 2009年生まれ)。よろしければTwitterのフォローもお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。