園井恵子は岩手県松尾村(現在の八幡平市)に生まれ、1歳の時に川口村(現在の岩手町)に移住します。女学校時代に小樽に住んでいたこともありますが、1年ほどで故郷・岩手に戻り、その約1年後に家出同然で単身、宝塚に向かいます。
宝塚音楽歌劇学校に入学してからは寮生活をしていましたが、実家が事業を倒産させて、園井のもとに身を寄せてからは借家をして一家を住まわせます。家族が宝塚に身を寄せてからも、しばらくは寮にいたような記述もありますが、時期の詳細はわからないながらも、寮を出て家族と一緒に暮らすようになったようです。
園井はその後も何度か引っ越しをしています。その記録について誰かが残しているわけではないのですが、残っている書簡の封筒を見ると、園井宛ての住所が変わっており、そこから伺い知ることができます。
園井恵子の住居の移り変わり
園井恵子の住居の変遷は、大きく、岩手、小樽、宝塚の3つの場所に分けることができます。
岩手
時期:大正2年~大正3年(1913年~1914年)0歳~1歳
出処:園井恵子資料集(年表 P302)
園井は岩手県松尾村に生まれます。この住居はかつての松尾村役場に近く、村長であった祖父・政緒が移り住んだ時に住居を構えて、そのまま住んでいたものと考えられます。現在、住居跡などは残されていません。
時期:大正3年~昭和元年(1914年~1926年)1歳~12歳、昭和3年~昭和4年(1928年~1929年)14歳~15歳
出処:園井恵子資料集(年表 P302、309)
祖父・政緒が亡くなった後、その子供たちはそれぞれ引っ越しをします。園井の両親は川口村の名士であった圓子氏に借家して、菓子屋を始めます。最初に移り住んだ家は現存していませんが、後に新築した住居兼店舗は現在も残っています。ここで園井は幼少期を過ごし、後に小樽高等女学校を中退して岩手に戻ってきた後もしばらくここで暮らします。
場所や現在の状況については「園井恵子ゆかりの地を巡る ~岩手県編」を参照してください。
時期:昭和元年~昭和2年(1926年~1927年)12歳~13歳
出処:園井恵子資料集(P190)
地元の川口小学校を卒業した後、園井は県立盛岡高等女学校を受験するが失敗し、盛岡の岩手女子師範附属小学校高等科に入学します。盛岡では叔父の多助が菓子屋を営んでおり、そこから通学することにします。この時の住所は記録に残っていないのですが、当時隣で商売を営んでいた平安商店の娘・平野ヤスの証言が「園井恵子資料集」P190に載っていて、そこには藤沢座という芝居小屋が向かいにあったと書かれています。古い地図で調べると藤沢座も書かれていて、おそらく叔父の菓子屋の位置は上述の、現在の岩手県盛岡市紺屋町6丁目30~32のあたりだと考えられます。
こちらも場所や現在の状況については「園井恵子ゆかりの地を巡る ~岩手県編」を参照してください。
小樽
時期:昭和2年~昭和3年(1927年~1928年)13歳~14歳
出処:「小樽市史軟解」および「園井恵子資料集(年表 P308)」
盛岡の岩手女子師範附属小学校高等科に通学していた園井ですが、叔父の多助と祖母が小樽に移住することになり、それに同行して庁立小樽高等女学校に入学します。その際の住所は文献により記載が異なりますが、現在の入船4丁目にあたります。
その点について詳しくは「園井恵子ゆかりの地を巡る ~小樽編」を参照してください。
小樽で住んでいたのは2年にも満たないのですが、女学校という多感な時期を過ごした場所であり、後年に思い出をいくつか雑誌に寄稿しています。園井は小樽高等女学校を2年生の夏に中退し、岩手県川口村の親元に帰った後、1年ほどの期間を経て宝塚に向かいます。
宝塚
時期:昭和4年~昭和8年(1929年~1933年)15歳~19歳
出処:園井恵子資料集(P213)
昭和4年7月、親にも告げずに単身、宝塚に向かった園井は、特例として宝塚音楽歌劇学校への入学を許されます。宝塚少女歌劇には寄宿舎が用意されていて園井もそこで生活を始めます。後述のように実家の家族が翌年に身を寄せて宝塚に住むようになりますが、園井自身は少なくても昭和8年頃までは宿舎で生活していたようです。同期の桜緋紗子(小笠原日鳳)が「そのころハカマ(園井の本名袴田にちなんだ愛称)はまだ寄宿舎で、私は阪急沿線の池田に移っていた」と書いています(資料集P213)。あるいは寄宿舎と家を往復していたのかもしれません。
昭和11年に書かれた日記には、発熱して寝込んだ園井を両親がのぞき込むという描写が書かれていて、おそらく昭和8年から11年の間に寄宿舎を出て親と同居したと考えられます。
寄宿舎の跡地については「園井恵子ゆかりの地を巡る ~宝塚・神戸・大阪編」を参照してください。
時期:昭和8年~昭和11年(1933年~1936年)19歳~22歳
出処:園井恵子資料集(P311)など
昭和5年、突然岩手にいた家族が園井のもとに身を寄せます。両親が事業に失敗して多額の借金を抱えてどうしようもなくなり、夜逃げ同然で宝塚に来たのでした。この時から父は働くことができなくなり、園井と妹のキミが宝塚大劇場で働き、一家の生計を立てることになりました。園井は農家の離れを借りて一家を住まわし、そこが宝塚寿老町22と言われています。宝塚市に現在、寿老町という地名はなく、現在の場所は推測するしかないのですが、その過程については長くなるので別に後述したいと思います。
時期:昭和11年~昭和14年(1936年~1939年)22歳~25歳
出処:当時発行の新聞記事(池田文庫所蔵)
昭和12年に園井の父親は事故死するのですが、それを報じた地元の新聞記事が阪急財団池田文庫に所蔵されています。そこには住所が「宝塚川面鍋の裏4-4」と書かれています。鍋の裏という地名も現在は残っていません。こちらについても詳しくは後述します。
時期:昭和14年~昭和15年(1939年~1940年)25歳~26歳
出処:園井が送った書簡より
父親が亡くなったのが昭和12年11月16日で、妹のミヨに宛てられた書簡が同14年1月29日なので、おそらくその間に鍋の裏4-4から川面西開地8に引っ越ししたのでしょう。昭和15年10月に園井は家族を盛岡に帰していて、そこからファンの村上(結婚後:芝本)キクノとの同居生活を始めます。西開地8に住んでいたのはその時までと考えられます。
時期:昭和15年~昭和17年(1940年~1942年)26歳~28歳
出処:園井恵子資料集(P168)
前述のように家族を盛岡に帰した後、園井はファンの村上キクノと同居生活を始めます。しかし、この生活には仲違いがあったらしく、昭和17年6月で終わりを告げます。園井死後、村上が中井しづに送った手紙でそのことが書かれています。手紙には仲違いの原因を「ちょっとした誤解から」と書いていて、村上は仲を取り戻したいようでしたが、園井が死ぬまでそれは叶わなかったようでした。この共同生活については他に知る資料もなく、2人が住んでいた場所も宝塚栄町という以外はわかっていません。
時期:昭和17年~昭和20年(1942年~1945年)28歳~32歳
出処:多々良純に渡した園井の名刺より
多々良純に渡した名刺には上記の住所が書かれていて、多々良と園井の接した期間から考えても、昭和17年以降と考えられます。しかし、この時期の園井は新劇や映画に活動の場を移して、東京で過ごす時間が多くなっていました。関西に帰っても、六甲には母と慕う中井しづがいて、空いた時間はそちらで多くを過ごし宝塚に滞在していた時間はそれほど多くなかったと考えられます。
蓬來町とは現在、宝塚市の地名にはありませんが、昔の地図と照らし合わせると、現在の宝来橋の北側一帯を指すと考えられます。
一覧表
宝塚寿老町22
時期:昭和8年~昭和11年(1933年~1936年)19歳~22歳
園井が宝塚に来て2年目のことです。上で述べたように突然、家族が宝塚に身を寄せます。経済的な苦境が一気に彼女の背中にのしかかりました。農家の離れを借りて、そこに家族を住まわせましたが、そこはあばら屋のような体でした。かつて川口村で家を貸していた圓子氏が仏壇を買おうと京都に来た際に、園井一家の様子を見に来たそうです。しかし、あまりに厳しい生活の様子を見て、仏壇の費用をそのまま置いていったと言います。
ある日、園井は阪急財団の創始者であり、宝塚音楽歌劇学校の校長であった小林一三に呼ばれます。「帰ってから開けなさい」と渡された封筒には百円札1枚と手紙が入っていました。その手紙のコピーが現存します。
恵子殿
あなたは家庭で非常に苦労をしてきたという話を初めて聞いて私は可愛そうだと思いました。もっと早く私が聞いていましたならば、どんなにでも補助してあげたのに…… と思いました。また、あなたは親孝行だという話を聞いて嬉しいと思いました。ご褒美として私の小遣いを少しですが百円あげます。お礼状もなんにもいりません。尚これからも困った時は丸山先生にお話しなさい。私がどうでもしてあげます。さようなら。
園井の生活苦は歌劇団でも知られるところであり、それを小林は他の職員から伝え聞きました。このことを園井が話すと家族も涙を流して感謝し、父親は小林に礼状を書きます。「本人は勿論、私たち家内一同全て、ただ感涙に咽びつつ」と綴られたこの礼状は現存して、故郷の岩手県に保管されています。
この礼状に「宝塚寿老町22」と書かれていて、園井やその家族が苦しい生活を送った場所がそこではないかと推測されています。
前述のように宝塚寿老町という地名は現在なく、『宝塚市史 第8巻』には地名の変遷もまとめられているのですが、そちらにも記載がありませんでした。宝塚市立中央図書館に問い合わせしましたが、そこでも「そのような地名は存在しない」との回答でした。
すっかり諦めかけていたのですが、兵庫県立図書館でもレファレンスを依頼したところ、館所蔵の「兵庫県電話番号簿 上巻」(昭和7年発行)に「栄町区寿老町」という名前が見られると教えていただきました。
栄町というのは、現在、JR福知山線の線路の南、武庫川の北側で、宝塚駅の南側一帯を占めます。宝塚大劇場もその中に含まれます。
その電話帳を紐解くと、栄町区には戒町、新温泉通り、武庫川通り、小宝町、弁天町、寿老町、蓬來町といった場所が含まれていました。
この古い電話帳の住所を図書館所蔵の地図と整合します。地図は『宝塚大事典』に収録されている大日本職業別明細図を用いました(この地図は「昭和前期日本商工地図集成 第2期」柏書房にも収録されています)。地図に書かれている商業施設の場所を参考に地域の住所が特定しようという狙いです。
残念ながら、寿老町にあったとされる商業施設は地図上で特定できず、明確な場所はわかりませんでした。しかし、他の地域についてはおよその場所がわかり、消去法的に考えると 寿老町はおそらく現在の栄町2丁目の西側から栄町3丁目あたりではないか と推測されます。
栄町の中心部(駅近辺から宝塚大劇場のあたり)は当時から商業施設が並んでいて、農家の離れのような建物があったとは考えにくく、この推論が妥当ではないかと現状では考えています。
前述の蓬萊町についても同様に確認しました。こちらは地図上で一致を確認して、現在の宝来橋北側一帯とわかりました。
宝塚川面鍋の裏4-4
時期:昭和11年~昭和14年(1936年~1939年)22歳~25歳
上に書いたように園井の父は昭和12年に事故死して、その新聞記事には「川面鍋の裏4-4」という住所が書かれていました。
昭和38年の宝塚市住宅地図では国鉄宝塚駅の北東に「鍋の裏」という地名が見られます。あるいはここが寿老町かとも考えましたが、駅の北側にあり現在の栄町の地域とも一致しないことから、別の場所と判断できます。
地図で詳しく調べると、現在のJR宝塚駅の北、川面三丁目の児玉診療所と川面ちどり保育園前の坂あたりだと推測されます。
昭和8年6月、宝塚少女歌劇に以前からの花、月、雪組に加えて新しく星組が誕生しました。園井はその中心となり、今までの端役中心の配役から主演を演じることも出てきました。おそらくその頃から経済的に余裕が出てきて、寿老町22の借家から家族を引っ越しさせて、自身も寄宿舎を出て一緒に暮らすようになったと考えられます。
宝塚歌劇団の機関誌「歌劇」昭和11年9月号には「葉月の日記から」という園井の寄稿が掲載されています。そこには次のように書かれています。
昭和11年なら、ちょうど鍋の裏で暮らしていた時期で、実際に学校の跡地から宝塚駅前の鍋の裏4-4と推測される場所まで歩いてみます。宝塚音楽歌劇学校は昭和10年に宝塚市宮ノ下22-2に移っていて、それは現在の宝塚文化創造館の場所に当たります。
文中の「バスの阪神国道」とはおそらく国道176線を示しており、そこを横断して、汽車(JR福知山線)、電車(阪急電車)の線路を通過して宝塚駅北側を目指します。
下の写真は「歌劇」昭和15年6月号に掲載された園井の通勤時の写真ですが、後方に写っているのは線路のように見えます。現在はJR福知山線の線路は簡単に進入できないようになっていますが、当時は写真のように線路と周囲に遮るものがなかったのかもしれません。
JRの踏切を横断し、阪急電車の線路に向かいます。宝塚市川面3丁目には現在も阪急宝塚線の高架下が存在します。いつ頃から作られたものかわかりませんが、そこを抜けると園井が書いたように細い住宅路の坂道が続きます。
宝塚文化創造館から児玉診療所まで急ぎ足で10分を少し過ぎるくらいでした。おそらく園井は袴着だったと思うので、ちょっと時間的に足りない気もするのですが、慣れているともっと早いか、抜け道などがあったのかもしれません。
この鍋の裏の園井宅にはひとつエピソードがあります。この地点から北に数分歩いた場所に、かつて漫画の神様・手塚治虫が住んでいました。昭和3年生まれの手塚は当時、まだ小学生くらいでした。「私の宝塚」というエッセイに次のような文章があります。
(『ぜんぶ手塚治虫』朝日文庫に収録)
この時の園井の家は、おそらく鍋の裏と考えられます。幼い手塚治虫少年は園井とすれ違い、その姿を見ていたのでしょうか。
まとめ
園井恵子の住居の変遷についてまとめました。資料が多くあるわけではなく、期間に不明瞭な点があるのと、記録に残っていない転居もあったかもしれません。新しい資料が見つかりましたらこの記事も更新していきます。しかし、不足な点があるにせよ、この記事を書けたのは先人たちが様々な資料を残し、それを保管してきた人がいるからに他なりません。
園井恵子の資料の収集、保管を続けている故郷・岩手の人々、宝塚関係の書籍を大正時代から出版し保管してきた阪急財団、多くの郷土資料を収集、管理し、レファレンスに応じてくださる図書館、その他、今回の記事を書くにあたり貴重な資料を残してくださった先人の方々に感謝を示して、この記事を締めくくりたいと思います。
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