人生の選択の本質

僕はそんなに悩み相談を受ける方でもなく、そのようなスキルを持っているわけでもないですが、それでも世間話の中で他人の悩みを聞いたり、職場で話しているのが聞こえたりすることはあります。

その悩みに対して解決策を提示するのは簡単ではありません。そもそも悩みを専門家でなくそこらへんの人に話すのは、多くが解決策を求めているわけではありません。ただ、聞いてもらって自分の心の中の整理をしたいことが多いように思います。

本当に解決策を求めている時は、具体的に質問してきます。心の整理をしたい時はただつらつらと出来事を話してくることが多いように思います。

そこでは聞くことに徹して、整理がつきやすいように時々質問を織り交ぜるくらいが、最良の方法に思います。あくまで相手自身で結論を考え出すようにしたいところです。

心の整理をしたいだけだとしても、その悩みは根深いことも多いです。悩み自体と直接関係なくても、その人の心に過去のトラウマが強く根ざしているのを感じることがあります。

そういったケースは、専門家でない他人ではなかなか解消が難しいように思います。その人の内面に深く介入しなくてはいけないので、パートナー、親などが数少ない役を担える存在に思います。しかし、パートナーとの関係が良くない人もいますし、パートナーがいない人もいます。親にしても、そもそものトラウマの原因が親であることも非常に多く、その点も問題の解決を難しくします。

トラウマを解消したいという欲望は、形を様々に変えて「渇き」のような形で現れます。その解消を無意識に他人に求める人も多く、結果として人間関係を破壊します。

そのような場合は、専門家の力を借りつつ、自分の意志の力で克服していくしかありません。そこには「自立」が必要になってきます。

→参考記事:「孤独と生きるために ⑥孤独を克服する

また、悩みの中には、環境上、どうしようもなく見えることも少なくありません。

例えばパートナーの親や職場の上司に困っているなどです。パートナーを選んだのも、職場を選んだのもその人の選択ですから、その人の責任と言えばそうなのですが、人間には誰しも誤りや知恵が及ばない部分があります。ただ1回の選択で長い期間苦しみ続けるのが相応かと言えば、それは気の毒な気がします。

もし、そこで苦しみ続けるとしたら、そこの場所から離れられないということがあります。上の例で言えば、体調を崩したり、精神を病んでしまうまでその環境に居続けるというパターンです。

できれば、パートナーの親の気分を害したくないでしょうし、会社を辞めずに気持ち良く働きたいでしょう。しかし、自身の心身をまもるために、時にはパートナーの親であれば距離を遠ざけたり、会社を辞めたりする決断が求められます。

人生の選択において、全ての願望が満たされる選択肢があれば人は悩むことはありません。しかし、そのようなケースは現実社会ではほとんどありません。

実際の人生の選択の本質は、善悪を決めることでも、上るべき高みを決めることでもなく、折り合いをどの辺でつけるか、あきらめるかという作業です。

そのことを知らずに、どこかに全てが解決するような理想的な方法があると考えると、場合によっては自分の心の苦しみを強くします。

子供のうちは、物事を俯瞰してみて、折り合いをつけるという行為がわからないので、後のことを考えずに、何かに一心不乱に取り組むことができます。 また、それが許される環境とも言えます。

大人になり、やることが増えるにつれて妥協や折り合いをつける必要が出てきます。妥協や折り合いという言葉が適当でなければ「バランスをとる」と置き換えても良いかもしれません。

それは裏を返せば、責任や役割が増えた、社会の構成員として成熟を求められたとも言えます。

自分の目的を達成するためにも、このような考え方は大切になります。例えば、野球に青春を捧げるのなら、それ以外のことに費やす時間は減ってしまうでしょう。また、大勢の人の前で話すことができるようになりたいなら、始めのうちは恥をかくことも覚悟しなくてはいけません。良いことばかりではないのです。

前述のトラウマの件にしても、親との関係性に問題があれば、時には断絶する必要があるかもしれません。

「折り合いをつける」「バランスをとる」という言葉は、一見柔らかく、調和的な意味のように聞こえますが、このような厳しい判断もあります。

結局のところ、自分が納得する人生を生きるには、自分が決断をして、その決断に責任を持つしかないように思います。

全ての欲求が丸く収まる理想を求めながら、現実の問題に何も手を付けない生き方もあります。それもひとつの生き方でしょう。

そのように目を瞑って生きているうちは、逆に悩みは尽きないでしょう。仏教で煩悩は執着から生まれるというようなことを言いますが、よく言い得たもので、「捨てられない」「あきらめられない」うちは悩みもなくならないのです。

そして、これらの生き方のいずれも自分の選択次第なのです。

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兼業作家。2023年4月『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)上梓。歴史全般が興味の対象ですが、最近は大正~昭和の文化、芸術、演劇、映画、生活史を多く取材しています。プロフィール写真は愛貓です(♂ 2009年生まれ)。よろしければTwitterのフォローもお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。