10年という年月に見る技術の熟成(才能、努力、成長を考える⑤)

大阪芸大の通信教育部に在籍していた頃、あるスクーリングの授業で次のような話を聴きました。

多くの学生が意欲を持って始めるが、卒業して5年も経てば半分が努力するのをやめてしまう。7、8年も経つと半分いた人間が10人ほどになり、10年を迎える頃には2、3人になる。でも、そこで残った人たちはやはり本物になる。

10年続けるといっても、それは漫然と続けるのではなく、高いレベルの努力を維持することが必要でしょう。

僕が治療技術を学んでいる先生も「(この技術を)使えるようになるのに10年はかかるよ」と話していました。「10年かかるものを学び続ける人もなかなかおらんけどね」とも話していましたが……

僕が文章で小さいながらもはじめて受賞したのが9年目でした。その時、大阪芸大の先生の言葉を思い出したものです。この10年という年月に科学的な根拠があるかは分かりませんが、経験を積んだ先生方の実感から出た言葉なのでしょう。

どのような業界もそうなのかもしれませんが、結果に到達するために効率を求める風潮が強くなっているように感じます。

効率良く目標を目指すのは良いですが、それを重視するあまりに、本来行うべきだった努力を抜かしてしまうと大きな損失となります。

例えば、大阪から東京まで飛行機で行っても、新幹線で行っても、在来線で行っても、車で行っても、徒歩で行っても、到達することはできます。

交通であれば、時間と費用のバランスで考えれば良いのでしょうが、技術については、その間のプロセスから得られるものがあります。一見同じ技術でも、飛行機のようにごく短期間で習得したものと、徒歩のように長い期間かけて習得したものでは、その質は変わってきます。

かかる時間を全く無視するわけにはいきませんが、そこに含まれている意味もよく考えるべきでしょう。ショートカットが当たり前になると、自分が何でもできる賢い人間のように錯覚しますが、土台をしっかり作らずに高さだけ求めたようなものなので、どこかで無理が出ます。長い時間をかける意義がわかっていれば、あるいはその期間を耐えやすいかもしれません。

10年の過程は人それぞれでしょうが、多くは結果が出ないものと考えられます。結果が出ない中で続けるのは辛いことです。それが短期間ならともかく、10年も続けば脱落者が増えるのは自然なことでしょう。10年目に成功する保証があれば、誰もが頑張れると思いますが、そのような保証もありません。

僕はその先生に治療技術を習い始めてから3年半になります(2019年6月現在)。10年日記は2018年からつけ始めました。10年の投資というのは大変なようにも思いますが、その結末が今から楽しみです。

長い期間をかけて身に付けたものは簡単に真似できません。でも、到達した境地が最初に考えていたものと違ったとしても、それはそれでやり抜いた自分に満足できる気もします。

このブログが続いていたら、その結果もまた報告したいと思います。

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兼業作家。2023年4月『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)上梓。歴史全般が興味の対象ですが、最近は大正~昭和の文化、芸術、演劇、映画、生活史を多く取材しています。プロフィール写真は愛貓です(♂ 2009年生まれ)。よろしければTwitterのフォローもお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。