能力を向上させるために必要なごく当たり前だけど不都合な話(才能、努力、成長を考える④)

能力を向上させるために何が必要か話し出すと、よく「才能か努力か」という議論に行き着きます。僕の手元には「超一流になるには才能か努力か?」(文藝春秋)という本が置かれています。

このような書籍は読む前からいくらか結論がわかっていて、それは少なくても「努力も必要」ということです。「才能が全てです」という結論では一般の人は買っても役に立たず、商業的な論理からしても、出版された事実を見て内容の推測はつきます。

「努力も」と表現したのは、先天的な要素について全く否定することができないのもまた事実だからです。しかし、この本では多くの人が考えているよりも、後天的な要因を重視しているように思います。

もっともこの本の原題は「PEAK ~SECRETS FROM THE NEW SCIENCE OF EXPERTISE」で「頂点 ~技能における新しい科学の秘密」という感じなので、邦題を見て内容を論じるのは、あまり意味がないことかもしれません。

この書籍では人の卓越した技能がどのように習得されるのか、どのような努力がより高い効果を生み出すのか、自身で行った実験の結果も踏まえて言及されています。ここから読み取れるのは、より高い技術を身に付けるには単純に努力するだけではなく、その方向性や質も大切ということでしょう。

さて少し昔の本ですが、将棋の米長邦雄永世棋聖(故人)と囲碁の藤沢秀行名誉棋聖(故人)との対談本で、棋力を向上させるための方法論について次のように語られています。

米長 私がプロになるまでの勉強法は、詰め将棋を続けることでした。『詰むや詰まざるや』という、詰め将棋の問題集があって、これを何年もかかって全問解いた。『詰むや詰まざるや』は、江戸時代につくられた問題集です。江戸時代は、名人になると将軍に詰め将棋を100題献上したんですね。これはその最高傑作です。200手詰めとか300手詰めという問題がザラにあって、最高は611手詰め。全部で200問あります。碁の『囲碁発陽論』のようなものです。私は昔、プロを目指す若い人たちに「これを全部解き終えたら四段(筆者注:将棋は四段からプロ棋士)になれる」と、そう言った。

(中略)

実戦にはまず出ないような、きわめて複雑な詰め将棋を、必死で解くことに意味があるんです。つまり、集中力と根気を養う。頭脳を鍛える。将棋の苦労というのは、むずかしくて自分で解けそうもない難問を、自分の力で答えを出そうという苦労です。そのひとつひとつの苦労が、血となり骨となります。ところが、それに気付かない人がほとんどだった。ところが『詰むや詰まざるや』に取り組んだ何人かのなかに羽生がいて、彼はそれに十代で気付いたんです。「先生、あれには大変な意味が隠されていますね。毎日毎日将棋を考えているということが大事で、その情熱を失わないことが大事なんですね」と、あるとき私に言ったんです。「いつそれに気付いた?」と聞いたら「十八か十九のときです」と。やっぱりこの男は違うと思いました。並みの人間なら途中でやめるところを、あえて回り道をした。その回り道の大切さに十代で気付いていた。
(引用:藤沢秀行、米長邦雄「勝負の極北 なぜ戦いつづけるのか」クレスト社.1997.P82-85)

さらに同じ本ですが次のような会話もあります。

米長 今の若い人たちは、秀行先生の正反対のやり方なんです。目と耳だけで勉強して、そこから脳みそに入ってきたものだけで強くなろうとしています。目と耳から入ってきたものだけで強くなれると錯覚している。しかし、いくらそういうことを繰り返しても、鍛えているのは目と耳だけで、身体も心もまったく成長しません。赤ん坊のままです。目と耳が衰えたり、ちょっと患うと、たちまち弱くなる、というより勝てなくなってしまう。

藤沢 ようするに、骨から強くなっていないんだ。骨太でなければ、骨を鍛えてなければ、ちっとも強くないんです。日本棋院でも、若い衆が寄り集まって勉強しています。それはいいことですよ。けれど、他人のいいところだけをつまんで、自分の栄養にしようとしている。これでは無意味どころか、マイナスです。人のいいところだけ寄せ集めれば強くなれるなんて、錯覚もはなはだしい。そんなムシのいい話があるわけないでしょう。
(引用:同上 P74-75)

多くの人は努力の方向性や質が良くなるにしたがい、同じ到達点であれば努力の量は少なくて済むと考えるかもしれません。効率を良くするという考えが根底にあり、それ自体は悪いことではありません。しかし、僕は結局のところ、高い技能を習得するための苦労は変わらないと考えています。

僕もオセロではそこそこの棋力を持っているので、教えてほしいという人が時々現れます。しかし、そのような人は強くなるための近道を探していて、それではあまり強くなれないように思います。オセロのプレイヤーの中にも、短期間で強くなったようでもすぐに伸び悩んだり、勢いがなくなってすぐに勝てなくなってしまう人がいます。このようなプレイヤーはインターネットなど情報技術が発達した後に多くなったように思います。

情報やノウハウで能力を向上させることは可能ですが、それだけでは限界があるのだと思います。いくら道が整備されていても、辛い努力はしなくてはいけないのではないか、そうしないと身体に本当の意味で技能は習得されないのではないかと考えています。

情報が整備されたからこそ、それを知ってさらに努力する余地が増えたとも言えます。そのような意味では昔よりやれることは増えて、努力している人とそうでない人の差がつきやすくなったと言えます。

大人は損得を考えて努力を惜しむ傾向があります。悪い意味で頭が良くなるのです。それに比べて子供は一心不乱に取り組みます。損得を考えずに量をこなすので子供の成長は速いのです。

プロ野球の巨人軍の黄金期を支えた長嶋茂雄さんや王貞治さんは練習量が凄まじく、主力の二人がそれだけやっているので、周囲も怠けるわけにはいかなかったと言います。

昔から周りより結果を出す人には練習量の裏付けがあります。それは現在も変わりません。能力を向上させるために必要なごく当たり前ですが不都合な話です。

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兼業作家。2023年4月『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)上梓。歴史全般が興味の対象ですが、最近は大正~昭和の文化、芸術、演劇、映画、生活史を多く取材しています。プロフィール写真は愛貓です(♂ 2009年生まれ)。よろしければTwitterのフォローもお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。