手段が目的となる功罪

手段がいつの間にか目的に変わってしまうことは、よく見られる現象です。

毎朝ジョギングをしないと気が済まないという人がいます。健康のために始めたのに、いつの間にか目的と手段がすり替わってしまい、風邪気味にも関わらずジョギングをしないと気が済まないなんてことが起こります。

当初の目的が消えてなくなるとまではいかなくても、目的と手段がズレることはよく見られます。

何か目的があって始めたことでも、自分の能力が上がったり、段階が上がったり、周囲の状況が変わることで、以前の方法が効果を発揮しなくなることがあります。

例えば、スポーツの技能を上達させようと思った時、今まで結果が出た練習でも、上手くいかなくなる時があります。それは成長が起こる前の停滞期なのか、それとも単純にその練習が現状とそぐわないのか判断する必要があります。

古いものがダメなわけでも、新しいものが良いわけでもなく、あくまでその時に必要かそうでないか、考えないといけないのです。

練習を盲目的に続けるということは、メリットもありますがデメリットもあります。

メリットは盲目的なほど習慣化されていれば、量をこなすことができます。量を行うことは実力を向上させる上で大きな要素です。デメリットとしては、間違った方向に労力をつぎ込むことで、貴重な時間が浪費されてしまう可能性があります。また、目的と行っている努力の方向にズレを感じると意欲が低下していきます。

間違った方向といっても、その判断は難しいものがあります。一見効果が出ていなくても、その時期が大切な過程の場合もあります。自分でそれを見定めるのは容易でないので、スポーツ選手の場合はコーチを雇ってそれを補うこともあります。経験のある人間が客観的に状況を見ることで、現在どのような過程にあるのか判断しやすいためです。

このような例はスポーツだけに限りません。僕の場合はブログを書くこともそうです。ブログを書く目的はいくつかありますが、現在は100記事を投稿できるように目標を設定しています。

毎日懸命にブログを書いていると、最初は手段であった100記事が、まるで目的であったかのように錯覚する時があります。100記事、100記事……と盲目的に頑張っていると、ふと何のためにブログを書いているのか分からなくなり、疲れてしまう時があります。

そのような時は頭の働きも悪く、意欲がなかなか上がらなくなります。目的があったから頑張れたはずなのに、目的を見失ってしまうので疲れだけが残ります。そのような疲れはなかなかとれません。それは肉体的疲労ではなくて精神的な疲労です。燃え尽き症候群を経験したことがないですが、おそらくこれと似た感覚なのだろうと思っています。

このような時は、そもそも目的が何であったか頭を整理して、その目的と今の努力の方向が合致しているか考えてみます。取り組みを続ける必要がある時は、短くても休息をとるようにします。

手段が目的となることは、必ずしも悪いことばかりでもありません。例えば、家族に美味しいご飯を食べさせたいと思って料理の腕を磨いたら、それが高じて動画サイトでレシピを上げることが楽しくなったとします。最初の目的は家族に美味しいご飯を食べさせるでしたが、いつの間にか料理をすること自体が大きな目的に変わっています。

腰掛けのつもりでやっていたバイトが一生の仕事になることもあります。趣味や必要に迫られてやっていたことが、思いがけず自分のライフワークになることは少なくありません。いずれの場合も本人が良ければそれはそれで面白い人生だと思います(できれば、家族には美味しいご飯を食べさせてほしいと思いますが……)。

まとめますと、何か目的があって努力しているなら、目的が何であったのか、その手段と目的が合致しているか、時々振り返ると良いと思います。努力が上手くいかない状態が続く時は、それが上手くかみ合っていないか、あるいは休息が必要な時期だと思います。そして、手段は(時には目的も)状況に応じて変化を考えましょう。変えるのも勇気ですが、変えないのもまた勇気だと思います。

変化を自分で考えて選択していくから人生は楽しいのです。

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ABOUTこの記事をかいた人

兼業作家。2023年4月『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)上梓。歴史全般が興味の対象ですが、最近は大正~昭和の文化、芸術、演劇、映画、生活史を多く取材しています。プロフィール写真は愛貓です(♂ 2009年生まれ)。よろしければTwitterのフォローもお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。