不幸せな人間の理由②

前回「不幸せな人間の理由①」と題して、自分を「不幸せ」と思ってしまう人について、その心理的傾向を考えました。人間は自分の足りない点に意識が集中しやすく、恵まれている点は意識しにくいという内容です。今回は、そこでは書き切れなかったもうひとつの「不幸せな人間の理由」について書きたいと思います。

それは「不幸せ」と言いますか、人間の苦しみの本質のようにも思います。

よく会議に出席すると「○○すべきだ」という人がいると思います。このような「すべき」という言い方は少し無責任な思考の上に成り立っています。もし、自分の考えに基づいて「すべきだ」と言っているなら、それは会議の場で自分の価値観を強行して押し付けていることになりますし、もし、社会一般の概念として「すべきだ」と言っているなら、それは社会通念に疑いを持たず、他人が作った価値観の上で安穏としていることになります。

多くの場合はおそらく後者だろうと思います。会議の場で出ている意見であれば、一概に肯定否定ができないもののはずです。それに対して、世間一般がこうだから○○すべきだという考えでは議論になりません。「すべきだ」という言葉はつい使いがちになるのですが(ブログのどこかで使っていたら許してください)、「自分は○○だと思う」「○○した方が良いと思う」と、世間を盾にせずに自分の意見として柔らかく伝えた方が望ましいと思います。

「すべき」という言葉には、その人の中に「こうあるべき」という確固とした概念があって、そこから発生しています。それを全て否定するつもりはないのですが、それは本当にすべての人がそうしなくてはいけないものでしょうか? もちろん人を殺してはいけない、他人を尊重するなど基本的な道徳概念はあると思います。しかし、国が変わると文化は変わります。それと同じように生きてきた環境によって人生に対する考え方が違っても不思議ではありません。

どのような価値観を選ぶか、それをどう思うかはその人の自由なのですが、少なくてもそこで社会の価値観に思考を任せるのでなく、自分で考えるという作業を入れたいところです。

話が少し逸れました。「すべき」という言葉には、自分で考えた末か、他人の考えをそのまま取り入れているかは別にして、その人の確固としたルールの存在があります。そのルールは「執着」という言葉でも置き換えられます。その執着こそが人を苦しめる、不幸せにする原因だと僕は考えています。

よくあるのが「○○だったら幸せ」という考え方ですが、この○○が執着と言えます。執着があることで、人はそこから逸脱するものにひどく嫌悪感を覚えます。例えば「結婚が幸せ」という執着が強い人は結婚ができないと自分を傷つけてしまいますし、結婚していない人に「どうして結婚しないの?」という不用意な言葉を投げつけてしまいがちです。

「タバコは身体に悪いし、煙は吸わない人の健康も害するから吸うべきでない」という執着が強い人は、自分に直接関係がない喫煙者でも敵視して、場合によっては擁護する人にまで攻撃を加えようとします。テレビで芸能人がスキャンダルを起こすと、悪口を言い続ける人がいます。その人の抑圧された欲求不満という見方もできますが、自分の心のルールを(現実で誰にも発散できないために)反論できないテレビの中の芸能人にぶつけているとも言えます。

このように外部にぶつけているだけでも身体に悪そうですが、そのルールを他人に強いることは現実には難しく、多くは我慢をすることになります。そのような執着が強い人に限って、他人に対しては「いい人」であることも多く、自分のストレスがたまり、自分自身を傷付けることにつながります。

それももともと「執着」というものがあるから起こります。仏教では執着を苦しみの根源として、それをなくすことを説きます。物心両方で執着をなくすことを目指します。

執着すれば、あらゆることが気になり、苦しみや怒り、恐怖の対象になります。執着をゼロにすれば何も気にならないし関心がなくなります。執着がない人間はおそらく、波を漂うように生きるでしょう。極端に言えば、生きることへの執着をなくせば、死ぬことが怖くなくなります。

そこまでは普通の人間は無理だとしても(僕は無理です)、執着が強すぎると不幸せや苦しみのもとなので、それを減らしていくのは有効だと思います。執着が強い人というのはこだわりが強い人なのだと思います。

そのような人は自分をよく見つめてみて、何が本当に大切か考えてみると良いでしょう。自分が何にこだわるべきか考えることが大切で、目の前で悩んだり、苦しんだりしていることの根本が、果たして自分にとってこだわるべき大切なことなのか考えると良いと思います。そうすると、多くの執着が実は自分の本質と大して関係のないことに気づくと思います。

例えば、仕事が本当に嫌で、家に帰ってから家族に当たってしまうとします。でも、あなたにとって家族を傷つけてまで、その仕事を守る必要があるのでしょうか? 仕事をしないと家族を養えないというのは必ずしも正論ではありません。仕事はひとつではありません。その生活を続けることでいつか家族を失うかもしれません。自分が倒れるかもしれません。それは本当に自分が歩きたい人生なのでしょうか。

執着は人の苦しみや不幸せを生みます。執着をなくすことが無理でも、本当に自分がこだわりたいものが何か考えることで、執着を減らすことができます。少なくても考えるだけでも色々なことを振り返ることができます。

こだわりは時に人生の楽しみや成長につながりますが、バランス良く付き合っていきたいものです。

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兼業作家。2023年4月『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)上梓。歴史全般が興味の対象ですが、最近は大正~昭和の文化、芸術、演劇、映画、生活史を多く取材しています。プロフィール写真は愛貓です(♂ 2009年生まれ)。よろしければTwitterのフォローもお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。