人は「永遠」を信じている

北朝鮮の問題で、まだトランプ大統領と金総書記の会談が1度も行われていなかった頃、緊張が急激に高まった時の話です(今も緊張状態には違いないですが)。

もしかしたら戦争が起こるんじゃないか? 戦争になったら日本は安全なのか? ミサイルの射程範囲は? ミサイルが落ちたら想定される被害はどのくらいなのか? 連日ワイドショーではこの話題を取り上げていました。

職場で「ミサイルが飛んで来たらどうしよう?」なんて話をしていたら、ある看護師が次のように言いました。

看護師「私、死ぬことは怖くないです。だって今まで好きなことたくさんしてきたから。だから、もし急にそういうことがあっても仕方ないかなって」

僕「でも、ミサイルが落ちたら、(あなたの)子供も死んじゃうかもしれないですよ」

看護師「でも、それも運命かなと思います」

なんて気持ちが強い人なんだと僕は驚いたのですが、そんなミサイルで死ぬことを恐れない人が、上司との定期面談が近づくとなぜか顔を青くして不安がっているのです。いつも快活な人なのに、何か言われたらどうしようと1週間も前から目に見えて落ち込んでいました。

僕は気付きました。彼女は鋼の精神を持っているわけではなく、ミサイルで死ぬことに実感を持っていないだけでした。一方、面談で何か指摘されることは強く具体性を帯びて心に迫っていたのです。

そのため僕からすると、多くの人が不安に感じそうなミサイルに恐れを抱かず、逆にミサイルに比べればはるかに小さな問題であろう面談に大きな恐怖を感じていたのです。「どちらも気にならない」という人ももちろんいると思いますが……。

この同僚に限らず、人間の感情はより具体的なもの、関係が近いものに動かされます。

例えば、外国で地震が起きて、多くの人が亡くなっても、どこか遠くの出来事と感じてしまうと思います。しかし、もしその地区に自分の子供が留学していたとしたら、居ても立ってもいられなくなるでしょう。

自分の住む地域が台風の進路に直撃していたら気になると思いますが、排出ガスが地球温暖化を促し、将来地球に人類が住めなくなるかもしれないと説明されても、車に乗ることをやめないでしょう。

それが顕著に表れる例が「死」に対する認識だと思います。全ての人が生物はいつか死ぬと認識しているにも関わらず、それを実感として持っていません。他人事か、はるか未来の遠い出来事のように感じています。

人々の一部(あるいは多く)は若さを浪費し、時間を大切にしていません。もし、病気で余命が1年と宣告されていたらどうでしょうか? 毎日を悔いなく一生懸命過ごそうとするのではないでしょうか。

それを普段からしないというのは、心のどこかで、永遠なんて存在しないけど、自分だけは例外だと思っているから、あるいは「死」という事象について具体性がないからだと思います。

このような人間の心理は、平穏な毎日を過ごす上でむしろ普通だと思います。自分と社会を切り離して捉える心の動きは、一種の自分を守るための機能と言えるでしょう。いつも死ぬ覚悟で生きていたら、たいへんな気力を使います。外国の災害まで自分のことのように考えていたら、心がすぐに疲れてしまいます。

しかし、そのように必死に毎日を生きている人も、社会の問題を自分のことのように考えて、その解決に奔走している人もいます。

戦国大名の藤堂高虎は「寝屋を出るより其の日を死番と心得るべし」という言葉を残しています。今日が死ぬ日だと考えて過ごせという教えです。

永遠はありません。しかし、永遠でない時間をどのように生きるかは自分次第なのです。

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兼業作家。2023年4月『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)上梓。歴史全般が興味の対象ですが、最近は大正~昭和の文化、芸術、演劇、映画、生活史を多く取材しています。プロフィール写真は愛貓です(♂ 2009年生まれ)。よろしければTwitterのフォローもお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。