芸大通信教育部青春記⑦ ~通信制大学生活を振り返る

大阪芸大から送られる封筒には差出人のところに「アートは『勇気』だ。」と書かれています。公式に聞いたことはないのですが、標語的な言葉として使われているように思います。

思い出をもう少し振り返る

大阪芸大での通信生生活を書いてきましたが、書き切れなかった思い出が他にもいくつもあります。今、頭に浮かぶ限り、書いていきたいと思います。

大阪芸大には食堂が2つあります。バスターミナルからすぐ近くの11号館にある第1食堂と、奥の総合体育館にある第2食堂です。1人で食べたこともありますし、学生同士で食べたことも、先生を交えて食べたこともあります。安くて美味しく楽しい時間でした。通学生が食堂のおばちゃんととても仲良さそうにしていて、それがとてもスマートに見えたことも覚えています。

放送脚本演習のスクーリングでは、講師の先生が生々しく戦争の体験を話してくださってそれが印象に残っています。とても高齢の先生でしたが、提出した作品について丁寧に講評してくださり感謝しています。

大衆芸能台本演習では「生活笑百科」の台本も担当している大池晶先生が講師で、実際に漫才の台本を作って楽しい授業でした。

シナリオ演習では、スクーリング中に提出した作品を批評してもらって直すという作業を繰り返しました。シナリオを完成させる上でよく行われる「直し」という作業で、こちらもハードですが、何人もいる受講生の作品をスクーリング中に何度も読んで助言するという講師の負担も相当なものであったと思います。講師の先生方の熱意に負けじと鉛筆を持って何度も直したのを覚えています。

戯曲演習では、授業後にその日に行われる演劇に連れて行ってもらいました。講師の堀江ひろゆき先生は「良ければ連れて行くよ」と声を皆にかけてくれたのですが、付いていったのは僕1人でした。スクーリング初日で早朝に家を出てきたこともあり、体力が心配でしたがこんな機会はめったにないと気合いを入れて付いていきました。電車での移動中に色々と話を聞けたのも貴重な体験でした。鑑賞した演劇は和田澄子作「わが街・大阪ひがし」という作品で、戦前から戦後の大阪が舞台ですが、ソーントン・ワイルダーの「わが町」という作品を元にしていました。次の日に先生と講義中に作品についてディスカッションできたのも良い思い出です。元になった「わが町」をスクーリング中にどうしても読みたくて、本屋になかったため、大阪在住の知り合いの通信生に借りたことを覚えています。

英語Ⅱ-2では「セールスマンの死」という有名な演劇を鑑賞しながら英訳していくという内容でした。僕は英語よりも劇の解釈の方が気にかかり質問を繰り返しました。それだけだったら別段、この授業は記憶に残らなかったと思います。しかし、その講師は女性の方だったのですが、英米文学研究をしている旦那様を翌日講義に連れてきて、劇についての疑問に答えてくれました。なんとも贅沢な時間だったと思います。帰りのスクールバスで先生夫婦と前後になり、お話しさせていただきました。それも忘れられない思い出です。

アートプランニングは谷先生という一種独特の雰囲気を持った先生でした。資料もなく延々と続く芸術論をひたすらメモしていたことを思い出します。情熱がほとばしり出ていて、講義でこれ以上集中していたことはないというくらい濃密な3日間でした。この教科は添付物を忘れた以外では僕が唯一レポートで不可になった教科です。確かにこの教科は僕以外でも不可が多く難関とされていました。受験を勝ち上がってきた通学生に比べて、通信生にはどうしても求めるものが低くなるのですが、谷先生についてはそのようなところがなく、真正面からぶつかってくるようなところがあり、それゆえの授業の情熱だったのだと思います。

今振り返って書き連ねると、我ながら貪欲だったと思います。もっと良いものを書きたいという気持ちと、わからないものに対する追究欲がとにかく強かったのだと思います。スクーリングの機会というのは多くはありません。その限られた時間の中で少しでも吸収したいという焦りもあったのかもしれません。

英語の授業で演劇の質問をするくらいだったので、他の受講生から見ると、熱くて迷惑な人間だったでしょう。しかし、その貪欲さゆえに多くのものが返ってきたような気がするのです。

残った友人たち

同期生で同人誌を作り、先輩方とも交流があり、後半のスクーリングでは後ろの世代との接点もありました。多くの人と知り合った大学生活でした。しかし、年月が進むにつれて繋がりは徐々に失われていきます。

年齢も環境も違い、繋がっているものが芸術だけだと、関係を維持するのはなかなか難しいと思います。住んでいる場所が近隣なら友達付き合いになるのかもしれませんが、僕の場合は関西地方在住ではなかったので、それもありませんでした。

しかし、中には続く縁もあります。卒業して7年ほど経ちますが、今も時々連絡を取り合い、大阪に行った際に会う友人が何人かいます。なぜ縁が続いているのか不思議と言えば不思議ですが、年単位で連絡を取ってなくても繋がりが切れることはありません。

今回のブログを書く時も、最も古いのは15年以上前の話で記憶も曖昧なため、友人とメールで色々と確認しました。「あの時はこうだった」「これはああだった」と細かい部分でも覚えていることが多く、それだけ鮮烈な体験だったのだと思います。お互い、その時のことを思い出すと懐かしく、楽しい気持ちになります。

そのような友人たちとは連帯感を強く感じます。おそらく同志に近い感覚だと思います。お互い、通信制大学という難しい課題と向き合ってきたからかもしれません。

このような人との縁も大学生活がもたらした財産だと思います。

学生ゆえの恩恵

在学中は学費の出費はあるのですが、いくらかそれを補う恩恵もあります。各種の学生割引もありますし、パソコンのソフトでは学生や教職員に対して大幅に値下げしてくれるものもあります。パソコンにPowerPoint(パワーポイント)が標準装備されていない時代に、相当安く購入できましたし、AdobeのIllustrator(イラストレーター)というソフトもこの時期に購入しています。現在は当時と違って使用期間などに制限があるようですが、それでも在学期間中は利用次第で恩恵にあずかることができます。

先輩方も学生割引ができる店では一斉に学生証を出していました(笑)。割引という嬉しさもありますが、どこか芸大生であることに喜びがあったのではないかと思います。

卒業その後……

芸大卒業後も大きく変わったことはありませんでした。職場の人たちは僕が大学に通っていたことを知っていたので、卒業を聞いて「おめでとう」を言ってくれましたが、だからと言って、芸術関係の仕事に就くわけでもなく、文学賞を急に受賞したわけでもなく、今までと変わらない日がその後も続きました。

しかし、芸大で学んだことは後の自分の生活に大きく影響していると思います。

実際にレポートを書くために勉強したことが日常会話のネタになることもあります。芸術は難しいものという意識が一般の方々にはあり、自分なりの考えを話すと感心されることもあります。生活に今までと違う色がひとつ付いたように思います。

子供の頃に通信教育で挫折した経験がありましたが、通信で大学を卒業できたことは自信になりました。何かをやり遂げること、続けることへの耐性がついたことは間違いないでしょう。

卒業後、芸大時代に学んだことがきっかけで、人との縁ができて、そこからライフワークとも言えるような作品を書き上げることもできました。きっかけもそうなのですが、書き上げることができたというプロセスにも芸大の影響は大きいと思います。

今回、ブログを書くにあたり、最初に取り組んだ「現代美術論」の第1課題を見ましたが、当時は難解に思えた課題が今はどのように取り組めば良いのか、すぐに頭に浮かびます。いくつも難解なレポートを書き上げてきたことで、思考を論理的に組み立てる能力やものを調べる能力が身に付いたのだと思います。

スクーリングで会った通信生の何人かは芸大の通信教育部を「考えていたものと違った」と話していました。芸術に関する実践的な技能を学びたいと思うと、確かにイメージは違うと思います。僕の最初に考えていた形とも違いました。現実的には通学生のようには学べません。

しかし、その人のやり方次第で得るものはあると思います。僕は多くのものを手に入れました。それは直接人生に作用するわけではありませんが、自分の背景となって多くの影響を与えているように思います。そして、おそらく今後も影響を感じ続けることでしょう。

だから「芸大で学んで良かった」と僕は心から思っています。

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ABOUTこの記事をかいた人

兼業作家。2023年4月『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)上梓。歴史全般が興味の対象ですが、最近は大正~昭和の文化、芸術、演劇、映画、生活史を多く取材しています。プロフィール写真は愛貓です(♂ 2009年生まれ)。よろしければTwitterのフォローもお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。