自分に価値がないと思った時に考えたいこと

人間は何かと自分に価値がないと思いたがる動物のように思います。

以前に「人はなぜ無力になりたがるのか?」でお話しした内容に通じますが、価値がないと思うことで、責任を回避したり、他者との接点を求めたり、防衛機制(心の防衛反応)的な理由もあるのかもしれません。

そのような心理に陥る時の状況もそれぞれで、望んでいる仕事を与えられなかったり、逆に仕事が上手くできなかったり、他人との競争に遅れをとったり、異性から受け入れられなかったり、色々とあると思います。

自分に価値がないと思っているうちは、自分に責任を持っていますから、他人に原因を求めるような心理よりは良いように思います。

しかし、それがあまりに強くなりすぎると、自分の心を傷つけてしまいます。

このような心理において覚えておきたいのは、価値などというものは、見る角度によっていかようにも変わるということです。

介護施設に勤めていた時、ある職員に尊敬する人を尋ねたことがあります。その職員は「私は〇〇さんを尊敬してます」と答えたのですが、それを聞いて僕は驚きました。どちらかと言うと〇〇さんは仕事ができないことで有名な職員だったからです。

「どうして?」と言う僕に対して、その職員は「仕事は確かにあまりできないかもしれませんけど、利用者さんのことをよく考えているし、責任感が強いし、私は尊敬しています」と答えました。人が変わるとずいぶん見る目が変わるものだと、驚いたことを覚えています。

職場では窓際族でも、家に帰れば大切なお父さんかもしれません。もし、仕事で自信を失っていてもそのことに気付くべきです。一番いけないのは、家庭に職場でのストレスを持ち込み、周囲にあたることです。それでは家庭での価値まで失ってしまいます。

境遇が変われば価値観も変わります。それは介護施設を見ているとよくわかります。職場の出世競争に負けたから落ち込んでいたとしても、そんなことは退職後にはなんの意味も持ちません。介護施設で、社長だったからと言って威張っていても、周りの老人はそんなことに関心を示しません。「すごいなー」と口では言ってもすぐ忘れてしまいます。中には認知症で理解できない人もいます。そんなことを鼻にかけていても職員からは陰で軽蔑されます。

太っている人は痩せたいと言い、痩せている人はこんなガリガリは嫌だと言います。でも、介護施設で座って並んでいたら、大切なのは見かけよりも人柄です。人を見ると悪態をつく老人もいれば、穏やかでニコニコしている老人もいます。どちらが好かれるかは書くまでもないでしょう。僕は背があまり高くなく、小学校の背の順でもいつも前の方でしたが、身体が大きい人は、いざ自分で動けなくなると介護が大変です。

お金持ちでも病気になれば有効に使うことができなくなります。治療費、生活費などでお金があるに越したことはないでしょうが、一番欲しいであろう健康はお金で買うことができません。死ぬ間際になればお金は全く役に立ちません。

そう、死ぬ寸前になれば、それまで気にしていたことの数々は何も意味をなさなくなります。抱えていた悩みも死ぬ瞬間には跡形もなく消えてしまいます。だから、いずれ死ぬということを考えれば「自分に価値がない」なんて悩みも大した意味を持たないのです。

繰り返しになりますが人間の価値なんてものは見方によって変わる実態のないものです。だとしたら、自分の価値(生き方と言い換えてもいいかもしれません)は自分で決めれば良いのです。自分が大切だと思うことに素直に時間を使う方が、充実した人生を送ることができるはずです。

僕の場合、価値を感じるのは、死んだ後に残された人たちから「いい人だったな」とちょっとでも思い出してもらえる人生です。

自分の価値、信条、生き方を決めると、自然と人生でどのように決断するか、選択するか絞られてきます。もし「自分に価値がない」と悩んでしまうのであったら、まずその「価値」について、自分が本当に大切に思っているものか考えてみましょう。たいていは本当に大切にしてるものではないはずです。そこで自分を見失ってはいけないのです。

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兼業作家。2023年4月『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)上梓。歴史全般が興味の対象ですが、最近は大正~昭和の文化、芸術、演劇、映画、生活史を多く取材しています。プロフィール写真は愛貓です(♂ 2009年生まれ)。よろしければTwitterのフォローもお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。