人生と競馬

イギリスの元首相であるウインストン・チャーチルは競馬好きで、何頭もの競走馬を所有していました。「ダービー馬のオーナーになることは、一国の宰相になることより、はるかに難しい」という競馬界ではあまりに有名な言葉を残しています。(この言葉はチャーチルのものではないという説もありますが、無粋なのでここでそれには触れません)。実際に彼は所有馬でダービーを勝つことはできませんでした。

ヘミング・ウェイは「競馬は人生の縮図だ。これほど内容の詰まった小説は他にない」という言葉を残しています。彼の競馬好きも有名で、貧乏作家時代も競馬場に足繁く通ったと言います。

詩人で作家でもある寺山修司は「人生はたかが競馬の1レースに過ぎない」と言っています。「競馬が人生の縮図なのではない。人生が競馬の縮図なのだ」という言葉も残っています。

誰が言ったかは忘れてしまったのですが「人生は競馬のハンデキャップレースのようなもの、しかも弱い馬のほうにハンデがつく残酷なもの」というような言葉もありました。人生においては弱者がより厳しい環境に置かれることも普通にあります。人生の悲喜をユーモアを含めて巧みに言い表した言葉だと思います。

日本の競馬の競走には主に「定量」「別定」「ハンデ」の3種類のレース方式があります。「定量」とは牡馬、牝馬、年齢で差を付けることはありますが、それ以外はどの馬も一律の重り(負担重量)を背負って走るレースです。「別定」とは今までの戦績によって、あらかじめ決められたレースごとのルールに基づき、負担重量を背負うレースです。例えば、あるレースでは「3歳馬55キロ、4歳以上57キロ、GⅠ1勝ごとに2キロ増」などと決められています。「ハンデ」はハンデキャッパーと呼ばれる人が最近の成績を見ながら負担重量を決めるレースです。強い馬にハンデとして重りを付けて実力を拮抗させる方式です。負担重量が55キロとすれば、騎手の体重が衣服を含めて50キロならばそれに5キロの重りを付けて走ります。騎手が軽くても実際に馬が背負う重量は変わりません。

紹介したように、競馬に魅せられた人たちがそれぞれ競馬に人生を投影した言葉を残しています。僕も時々競馬場に足を運びますが、人生と重なる部分を見出しやすいスポーツなのだと思います。

例えば、競馬には血統というものがあります。馬の品種であるサラブレッドとは「Thorough(完全な)」と「bred (育てられた、品種改良された)」の組み合わせによる単語です。イギリスの馬を起源に、競走用に長い年月をかけて改良が進められた品種です。現在、走っている馬たちというのは、長い淘汰の中で生き残ってきた血脈と言えますが、その中でも良血と呼ばれる存在がいます。父母とも良い成績を収めたいわばエリートです。

しかし、人間でも優秀な両親から生まれた子供が、必ずしも期待に沿った人生を歩まないように、馬も必ずしも血統通りには走りません。現役時代の成績からすれば見劣りする両親からスターホースが生まれることもあります。

また、日本の競馬には中央競馬会が主催する中央競馬と、都道府県や各市町村などが主催する地方競馬があります。全国規模で運営している中央競馬に比べると、地区レベルで運営している地方競馬は資本力に大きな差があり、競走馬の能力的にも大きな差があります。

昔と違い、中央競馬と地方競馬は交流競走も増えて、同じレースで出走することも多くなりました。トップレベルになると、中央馬が上位を独占するという場合も少なくありません。

そのような中で地方競馬出身の競走馬が中央競馬のトップレースで活躍すると、ファンの注目を俄然集めます。

1970年代に第1次競馬ブームを巻き起こしたハイセイコーは地方競馬である大井競馬の出身でした。1990年代に第2次競馬ブームを巻き起こしたオグリキャップは同じく笠松競馬の出身で、血統的にも恵まれたものではありませんでした。

そのような出自が違う馬たちに、人はそれぞれ感情移入をして声援を送るのです。

競馬のレース自体にも人生を感じさせるものがあります。競馬には大まかに分けて、4つの戦法があります。逃げ、先行、差し、追い込みです。

「逃げ」は最初から先頭を走って、そのまま逃げ切りを狙います。「先行」はレースの途中まで全体の前の方に付けて、終盤から最後の直線にかけて先頭を狙います。「差し」は全体の真ん中より後ろでレースを進めて、レース終盤からスパートをかけて追い抜こうとします。「追い込み」は全体の最後方に付けて、最後の直線を中心にラストスパートで、一気に全体を抜くような戦法です。

このような戦法は騎手や関係者の好みで選んでいるわけでなく(そういう場合もあるかもしれませんが)、馬の性格や能力によって向き不向きがあります。例えば、バテにくいけど瞬発力がない馬は「逃げ」や「先行」に向いていますし、逆に瞬発力があっても持続しない馬は「差し」や「追い込み」でスパートにかける戦法が向いています。「差し」「追い込み」の馬が途中でスタミナを失うと持ち味のスパートが生きないために、最初はペースを落として力を温存しているわけです。

他馬を怖がる臆病な馬は、集団の中で走ると戦意を失ってしまうので、馬群から離れてレースを進めます。極端な場合は「逃げ」「追い込み」のような戦法しかとれない場合もあります。そのような極端なレースしかできない馬は勝負において不利なことが多いです。

「逃げ」の場合は他にも逃げたい馬がいると、お互いが先頭を取るために不要な競争が必要になる場合が多いですし、人間のマラソンレースを見てもそうですが、同じスタミナなら前にいて目標にされる方が苦しいと言えます。「追い込み」の場合は最後の直線でまとめて抜かさないと行けないので、ある程度前の馬にバテてもらわないと先頭に立つのが難しくなります。レースのペース次第で前の馬に体力を温存されるような展開になると苦しくなります。「逃げ」「追い込み」という戦法は周囲の状況に影響を受けやすいと言えます。

「逃げ」や「追い込み」しかできない馬には不器用な性格が多いと言えます。そのような戦法一辺倒で強い馬は人気が出ますが、それは勝ち方が派手というのもありますが、ファンが自分たちの人生とどこか重ねているからかもしれません。果敢に先頭に立ってレースの終盤でズブズブと馬群に沈んでいく姿や、馬群の後ろでじっと力を溜めている姿は、僕たちに何か訴えるものがあります。

このような競馬に対する見方は寺山修司の作品がよく代弁していて、そのダンディズムにあふれた文章に触れると、競馬がまた好きになり、競馬場に足を運びたくなります。そして、なぜか人間が好きになってしまうのです。

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兼業作家。2023年4月『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)上梓。歴史全般が興味の対象ですが、最近は大正~昭和の文化、芸術、演劇、映画、生活史を多く取材しています。プロフィール写真は愛貓です(♂ 2009年生まれ)。よろしければTwitterのフォローもお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。