サイレンススズカとオフサイドトラップ

プロ野球ファンが集まれば史上最強のベストナインの話で盛り上がり、大相撲ファンが集まれば最強の横綱は誰だったのかという話題で盛り上がります。それでは競走馬で言えばどの馬が最強だったのでしょうか?

昔のファンで言えばシンザンやシンボリルドルフと言うかもしれませんし、少し前ならナリタブライアン、もう少し後なら凱旋門賞2着のエルコンドルパサー、さらにディープインパクトやオルフェーブルもいます。

しかし、僕が今も1番強かったのではないかと思って、真っ先に頭に浮かぶのはサイレンススズカなのです。1998年の天皇賞(秋)のレース中に骨折、安楽死処分がとられて、成績的にはGⅠ勝利は宝塚記念のみとなりました。

サイレンススズカ

サイレンススズカは1997年、3歳の春(当時の表記では4歳)にデビューしています。調教から破格の時計を出していて、デビュー前から注目される存在でした。デビューの新馬戦では、後の重賞2着馬パルスピードに7馬身差で圧勝して、前評判に違わぬパフォーマンスを見せつけました。

陣営が2戦目に選んだのはGⅡ弥生賞でした。500万下、オープンといわば2階級飛び越しての重賞挑戦でした。当時、競馬を見ていた印象としては、今よりもこのような格上挑戦については保守的な考えが根強かったように思います。解説の大川慶次郎氏はその才能を評価しつつも「僕は競馬にはキャリアが必要だと思う」と無印にしていたことを思い出します。

レースではスタート前にゲートをくぐってしまい、外枠発走(周りの馬に迷惑をかけないように、1頭だけ間を空けた外枠から発走すること)になった上に、スタートで大きく出遅れて大敗を喫します。まともなレースができなかったと言えるでしょう。

その後は順番にステップアップするローテーションに変更して、500万下を圧勝、さらにオープンクラスのプリンシパルステークスに勝利して日本ダービーへの出走権を手に入れます。

しかし、日本ダービーでは無理に抑えて(後方で)レースを進めようとして折り合いを欠いた上に、勝負所で進路が塞がり、9着に敗れます。

秋になり菊花賞の前哨戦、ダービーでの反省からサイレンススズカは積極的に前で競馬を進め、勝利を目前まで引き寄せますが、鞍上の上村洋行騎手が勝ったと思い込み、追う(馬の推進を手伝う)ことを止めたことで、後の菊花賞馬マチカネフクキタルに差し切られて2着になってしまいます。この敗戦により、デビューから手綱を取っていた上村騎手は交代させられます。

この時期のサイレンススズカは一線級で戦っていて良い勝負もしていたのですが、デビュー時のような怪物的な雰囲気はなく、むしろ埋没していたように感じていました。デビュー前やデビュー直後に大きく騒がれて、その後活躍できない競走馬も多くいるので、そのような馬の1頭なのかと思っていました。

しかし、戦績が目立たなかった3歳の秋に鞍上に武豊を迎えて、大きく逃げるという、後年にこの馬の代名詞になった戦法も使うようになっていました。

その結果が出てきたのが4歳(1998年)からで、オープンのバレンタインステークス、GⅢ小倉大賞典、GⅡ中山記念を連勝して、5月30日のGⅡ金鯱賞を迎えます。

このレースは9頭と小頭数でしたが、4連勝中の菊花賞馬・マチカネフクキタル、前走でGⅡアルゼンチン共和国杯を制した同じく4連勝中のタイキエルドラド、GⅢ、GⅡを含む5連勝中のミッドナイトベットと、勢いのある強豪が揃っていました。当時観戦していた僕は、確かにサイレンススズカは強いですが、そんなに簡単には勝てないと考えていました。

レースは序盤からサイレンススズカが大逃げを打ち、最後まで差が縮まらず11馬身差という大差で圧勝しました。一流馬を全く相手にせずに1頭気持ちよく走っている感じで、僕は競馬を見始めて現在に到るまで、最も衝撃を受けたレースとなりました。競馬場ではあまりの大差劇に、感嘆を越えて笑い声が上がっていたと言いますが、それも頷けるくらいの内容でした。

別の記事でも触れましたが、逃げ馬はそのまま勝てるなら、馬にとって1番楽な戦法です。しかし、最初からペースを飛ばして先頭を取るまでの体力の消耗や、先頭に立つことでの空気抵抗、途中で詰め寄られると不利など、最後まで体力を持続させるためにいくつも越えなくてはいけない問題があります。

しかし、サイレンスズカの場合は、ハイペースで逃げて最後まで勢いが衰えないという規格外の逃げでした。周囲の馬はそのままにすると逃げ切られ、ついていくとバテてしまうという矛盾に突き当たりました。一緒にレースをしているのではなく、1頭だけ別のレースをしているという感触だったでしょう。最初に先頭に立ち、ずっと先頭に立っているので、進路が狭くなるなどアクシデントに巻き込まれることもなく、まさにお手上げの状態でした。

7月12日の宝塚記念では、武豊騎手がエアグルーヴに乗る先約があったため、鞍上は南井克己騎手となりました。このレースでは今までのような大逃げは打たず、引きつける逃げで中盤を進めて、最後は2着のステイゴールドに迫られたものの逃げきり、初のGⅠ勝利となりました。

このGⅠ勝利でも一部のファンはサイレンススズカの強さに懐疑的でした。それはこのレースでは最終的な着差がわずかであったこと、それと宝塚記念ではGⅠに合わせて競馬場の内側部分が新たに解放されていたことに起因します。その部分はグリーンベルトと呼ばれて、芝生のコンディションが良好であり、それが逃げ馬であるサイレンススズカに有利に働いたのではないかというのが、それらのファンの主張でした。

夏を休養した後、サイレンススズカは秋の初戦にGⅡ毎日王冠を選びます。このレースは5連勝でGⅠNHKマイルカップを制した後の凱旋門賞2着馬・エルコンドルパサー、4連勝でGⅠ朝日杯を勝った、後の宝塚記念と有馬記念の勝ち馬・グラスワンダーが出走する予定でした。両馬とも3歳馬ではありましたが、すでにこの頃には高い評価を得ていました。

10月11日、後に伝説のGⅡとまで呼ばれる毎日王冠は、武豊騎手を背にサイレンススズカがいつものように先頭をとりました。エルコンドルパサーとグラスワンダーは中団から前でレースを進めます。このレースでは今までの武騎手騎乗の時と違い、画面上、途中での大きな差は開いていませんでしたが、これは後ろも離されまいとして付いていったためと考えられます。ペース自体はとても速いものでした。

最終コーナーからグラスワンダーが並びかけますが、サイレンススズカは先頭を譲りません。逆に仕掛けていったグラスワンダーや他の馬は次々と失速していきました。悠々と先頭を走るサイレンススズカに外からエルコンドルパサーがただ1頭、襲いかかりますが、差を縮めるのが精一杯で、それも追い詰めたとは言えないほどのものでした。かくしてエルコンドルパサー、グラスワンダーに勝利したサイレンススズカの強さに、もはや異論を挟むものはいなくなりました。
過去にも大逃げをする馬はいましたが、ここまでの高いレベルの馬はいなかったように思います。ツインターボという馬がいましたが、自分のペースに持ち込まないと脆さがあり、GⅢ、GⅡを勝つにとどまりました。メジロパーマーという宝塚記念、有馬記念を勝った馬がいましたが、最後はバテバテになり、いつもわずかに勝つというスタイルでした。サイレンススズカは史上類を見ない強さを誇っていたと言えます。

オフサイドトラップ

サイレンススズカがデビューする3年ほど前、1993年12月11日、1頭の競走馬がデビューしました。身体も決して大きくないその馬は「オフサイドトラップ」という馬で、デビュー前に雑誌に注目馬として取り上げられたほどの期待馬でした。デビュー戦、2戦目ともに2着だったものの、3戦目で初勝利をあげると以降は3連勝して、GⅠ皐月賞に駒を進めました。

このレースで注目されていたのは、一部では三冠馬候補とすでに目されていたナリタブライアンでした。オフサイドトラップはトライアルレース(勝ち馬や上位馬に優先出走権が与えられるレース)・若葉ステークスの勝ち馬であり5番人気という高い評価でした。

1番ゲートのナリタブライアンはそのままインコースを先行して、オフサイドトラップは中盤、その少し後ろを追走しました。4コーナーで各馬が動き始め、オフサイドトラップも外からまくり気味に先頭を狙っていきました。しかし、ナリタブライアンが一度加速し始めると、瞬時に他馬との差は開き、結果はナリタブライアンのレコード(新記録)勝ちとなりました。着差は3馬身半ほどでしたが他馬との差は歴然としていました。一方のオフサイドトラップは伸びきれず7着という結果でした。

次走の日本ダービーも注目はナリタブライアンでした。17番のナリタブライアンはスタート直後に前に付き、他の馬に邪魔されないように終始外を回ります。オフサイドトラップは真ん中からやや後ろくらい、インコースでナリタブライアンより後ろでレースを進めます。勝負所でナリタブライアンはさらに外に出しスパートをかけます。決して効率的なコースを回っていないにも関わらず、皐月賞以上の5馬身差を付けて圧勝します。オフサイドトラップは8着で、今回も最後まで勝敗に絡むことはありませんでした。

7月3日のGⅢラジオたんぱ賞4着に好走後、オフサイドトラップに異変が現れます。右足の屈腱炎でした。

屈腱炎とは、馬の前脚にある浅指屈筋腱(浅屈腱)において、一部の腱線維が切れたり変性したりする病気です。再発を繰り返すために競走馬にとって「不治の病」とも呼ばれます。発症すると、治ったとしても前ほどの能力が戻らないことが多く、数々の名馬が屈腱炎のために引退を余儀なくされました。

オフサイドトラップはデビュー前から左足の屈腱炎があり、この時は右足に起こっています。右足をかばったために左足に発症した可能性も考えられます。温熱、冷却、テーピング、レーザー、様々な治療が施されました。屈腱炎に即効的な治療はありません。安静と前述のような治療を与えて、自然に回復してくるのを待つしかありません。痛みと発熱に苦しむ愛馬に関係者は献身的な看護を続けました。

その甲斐もあって症状は徐々に緩和して、5ヵ月後の12月17日のディセンバーステークスで復帰(3着)、翌1995年2月11日のバレンタインステークスでは1年ぶりの勝利をあげます。

しかし喜びは長く続かず、またオフサイドトラップの様子がおかしくなりました。3回目の屈腱炎を発症したのです。しかも今までと比べても重症でした。担当していた椎名晃厩務員は「冷やすとか温めるとか、そんなことじゃ追っつかない。痛がってね。もう諦めていた。乗馬でもなんでもいい。可愛がってさえくれれば。本気で行き先を探してた……」と当時の心境を語っています。

普通ならここで引退となってもおかしくないところですが、馬主は現役続行を頼みます。本来であれば走れない競走馬は費用だけかかり、馬主にとって損するだけです。現役続行を希望したのには理由がありました。成績に目立ったところのない牡馬には種馬として生きる道はなく、身体も大きくないオフサイドトラップにとって、乗馬として引き取られることも厳しいと予測されました。そうなると引退すれば待っているのは廃馬、つまり死ぬことでした。

1995年12月16日のディセンバーステークスに10ヵ月ぶりに復帰(再び3着)、しかしまた症状が悪化して11ヵ月レースから離れます。

1996年11月の富士ステークスから1997年5月のGⅢエプソムカップまでの8戦は屈腱炎と付き合いながら、なんとか出走を続けています。その中にはGⅡアメリカジョッキーズクラブカップ4着、GⅢ東京新聞杯3着、GⅡ中山記念4着、GⅢダービー卿チャレンジトロフィー2着、GⅢエプソムカップ4着と重賞での好走も含まれていて、一線級が相手でも通用する力を示していました。

しかし、1997年5月31日のGⅢエプソムカップの後に、再び屈腱炎の症状が悪化して長期休養に入ります。今度こそ引退か、椎名厩務員は考えたと言います。「もう無理だな、もうやめようやって、そう思ったよ。だけど、奴(オフサイドトラップ)はまだやる気だった」。

1998年春、オフサイドトラップは7歳になっていました。あのナリタブライアンは引退して、種牡馬になった後にこの世を去っていました。かつてダービーを戦った同期たちはオフサイドトラップを除いて全て引退していました。

7月11日、復帰から5戦目のGⅢ七夕賞。中団に構えていたオフサイドトラップは、4コーナーで上手く外に持ち出し、粘るタイキフラッシュとの差を、ラスト一瞬の鋭いスパートで詰めて、ゴール直前で差し切り勝ちを収めました。実に3年5ヵ月ぶりの勝利で、それはオフサイドトラップにとっても椎名厩務員にとっても重賞初勝利となりました。

続く8月30日のGⅢ新潟記念は、抜け出したブラボーグリーンを、外から一瞬の鋭いスパートを使って、ゴール直前でわずかにかわしました。七夕賞と同じような内容で重賞2連勝を成し遂げました。

それは不遇の競走馬に訪れた遅れた春だったのかもしれません。

1998年天皇賞秋

この年の天皇賞秋は不思議な雰囲気に包まれていました。何が勝つかではなく、サイレンススズカがどのようなレースをして勝つのかにファンの注目は集まっていました。競馬雑誌の中表紙には手錠をかけた両手の写真が載せられていました。誰がサイレンススズカを捕まえるのか? という意味です。

僕も競馬ファンとしてリアルタイムでこのレースを迎えていましたが、何かトラブルでもない限り、サイレンススズカが負けることはまずないと考えていました。これは多くの競馬ファン、関係者の共通した見方だったと思います。「競馬に絶対はない」とよく言われますが、自分で逃げてハイペースを作り、そのまま勝つというスタイルは盤石なものでした。競馬史上で最も安定したレーススタイルと言っても良いと思います。それはレースから20年以上経過した今も言えることです。

一方のオフサイドトラップは重賞連勝の勢いを評価されたのか、久々のGⅠにも関わらず6番人気に支持されました。エルコンドルパサー、グラスワンダーは外国産馬は当時の規定で天皇賞には出走できず、前年の優勝馬エアグルーヴはエリザベス女王杯に出走することになり、メンバー的には他には春の天皇賞馬・メジロブライト、昨年の有馬記念の優勝馬・シルクジャスティス、宝塚記念でサイレンススズカに食い下がり2着であったステイゴールドほどしか有力馬がいませんでした。

しかし、メジロブライトはスタミナに自信があるものの中距離のスピード勝負では超一流とは言い難く、シルクジャスティスは今年に入ってから不振が続き、ステイゴールドは善戦は続けるものの、相手に関係なくなかなか勝ち切るに到らない馬でした。サイレンススズカ相手にとても勝てそうな雰囲気はありませんでした。オフサイドトラップは6番人気ではありましたが、それよりも評価が低かったと言えます。

振り返ると、この構図は遠い昔、皐月賞や日本ダービーと似ていました。あの時はナリタブライアンという絶対強者がいて、今回はサイレンススズカがいます。このままサイレンススズカが勝てば、それはオフサイドトラップの不運な星回りの証となる材料になったのかもしれません。

レースは1枠1番のサイレンススズカが好スタートから先頭に飛び出しました。誰も競りかける者はいませんでした。オフサイドトラップは3番手で内の好位置をキープしていました。先頭はサイレンススズカでしたが、2番手のサイレントハンターも決してペースは遅くなく、絶好の位置だったと言えるでしょう。しかし、オフサイドトラップの位置取りに注目していた人はほとんどいなかったと思います。

迷うことなく中盤からどんどん差を広げるサイレンススズカ、カメラが大きく引いても全体を収めることができません。ただ1頭だけ別次元の走りを見せています。当時の映像を見ると終始観客がどよめいています。それはもはやひとつのショー、あるいは見られるはずのない競馬を見せてくれる夢だったと思います。観客はサイレンススズカが繰り広げる劇場を楽しんでいたのです。もし勝てば競馬史に残る完勝劇、作品が生まれたと僕は考えています。

サイレンススズカの勝利を誰も疑わなかった4コーナーの手前、急に失速が起こります。異常に気付いた武豊騎手が外に誘導します。観客のどよめきが悲痛なものに変わりました。突然に夢が終わってしまったのです。実況アナウンサーは「沈黙の日曜日」と叫びました。

外に持ち出すサイレンススズカをサイレントハンターがさらに外側を走って回避します。その後ろから来たメジロブライトも外側から避けました。オフサイドトラップは内側の最短距離で回避します。その後ろのステイゴールドはサイレンススズカの内側を通りましたが、ブレーキをかけるような騎手の動きが映っています。おそらくこの4コーナーが勝負の明暗を分けました。

直線早くにオフサイドトラップが抜け出します。それをステイゴールドが追いかけます。メジロブライトはすぐ後ろにいるものの全く伸びません。サイレントハンターはすでに力尽き、それより後ろの馬たちはすでに届く位置ではありませんでした。

ステイゴールドが猛追するものの、それを凌いでオフサイドトラップが1着でゴール板を駆け抜けます。「驚きました、オフサイドトラップ」と実況も競馬ファンの気持ちを代弁しました。

サイレンススズカは診断の結果、回復は難しいとの判断で安楽死の処分がとられます。数々の人気馬が故障により命を絶たれましたが、個人的にはこの時の衝撃はテンポイントが日経新春杯で故障して、後に亡くなった時と同様なインパクトだったのではないかと考えています。テンポイントの時は僕は生まれる直前で当時の雰囲気を肌で感じることもできなかったですが、前年に宿敵トウショウボーイを有馬記念で破り、海外遠征のプランを控えていたテンポイントはまさに競馬ファンの夢であったように思います。

オフサイドトラップはその後、有馬記念に出走し18頭立ての10着となり、それを最後に現役を引退します。引退後、種牡馬となりましたが、交配相手も集まらず活躍馬を出すことができないまま2003年に種牡馬も引退、2011年に腸捻転で亡くなりました。

1998年の天皇賞秋は「オフサイドトラップが勝った」ではなく「サイレンススズカの悲劇」として多くの人々の記憶に残っていることでしょう。4コーナーで故障を発生したサイレンススズカと、インコースを回るオフサイドトラップ、そこで2頭の生きた道筋が交差したように感じます。エリートのサイレンススズカと苦労人のオフサイドトラップというような、陳腐なサクセスストーリーの構図にはめこむつもりはありません。

ただ、確かなものなどない生きるという行為に対して、2頭の運命は僕たちに何か訴えるものがあります。栄光の中、故障によって生命を絶たれたサイレンススズカ、苦しみの末に天皇賞を戴冠してその後も生きたオフサイドトラップ、そこの関連に何か意味を見い出すよりも、むしろ規則性もなく気まぐれな、運命の虚無とそれに抗して「生きる」ということを、この2頭は訴えているように思います。

※馬齢は全て現在の表記に直しています。

この記事は柴田哲孝著「たった一瞬の栄光」を参考文献にしました。

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兼業作家。2023年4月『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)上梓。歴史全般が興味の対象ですが、最近は大正~昭和の文化、芸術、演劇、映画、生活史を多く取材しています。プロフィール写真は愛貓です(♂ 2009年生まれ)。よろしければTwitterのフォローもお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。