競馬史上、名勝負は数々あると思いますが、僕が最初に思い浮かぶのは1997年の天皇賞春です。
このレースは前年の天皇賞春、有馬記念を制したサクラローレル、前年の宝塚記念の優勝馬でGⅠ3勝のマヤノトップガン、GⅠこそ未勝利でしたが、12戦9勝で前年の有馬記念2着、前哨戦のGⅡ大阪杯を快勝したマーベラスサンデーが3強として注目を集めていました。
当時、競馬をリアルタイムで見ていた自分としては、サクラローレルが頭ひとつ抜けていて、マヤノトップガンとマーベラスサンデーは少し離れて同じくらいという実力の評価でした。この評価は人気にも表れていて、サクラローレルが2.1倍で1番人気、マヤノトップガンが3.7倍で2番人気、マーベラスサンデーが4.1倍で3番人気で僕の評価とほぼ一致していました。
サクラローレルにはこの年の秋にはフランスの凱旋門賞に出走するプランもありました。3強とは言われていたものの、マヤノトップガンとは4戦して3勝1敗(1敗は前年の天皇賞秋で、バブルガムフェロー1着、マヤノトップガン2着)、マーベラスサンデーとは2戦して無敗で、すでに勝負付けは済んでいたように思われました。
この天皇賞春は騎手による駆け引きも見応えがあるものでした。
2枠4番 マヤノトップガン 田原成貴騎手
7枠14番 マーベラスサンデー 武豊騎手
マヤノトップガンに騎乗した田原騎手は自身のエッセイでレース前の心境を次のように語っています。
引用:田原成貴「競馬場の風来坊2 馬上の風に吹かれて」p141-142
エッセイを読むと、田原騎手はレース前に相当に神経質になっていたらしく、前日、管理する坂口正大調教師にも「それじゃ勝てないですよ」と話していたと言います。田原騎手が出した結論は次のようなものでした。
答えが見つかった。私がそうなればいい。115回天皇賞で私とマヤノトップガンが唯一勝つ方法が。絶好調と言い切れる程の体調のマヤノトップガンを、トップガンをそこまで仕上げて下さった厩舎関係者、天皇賞こそはと期待をもって、私にトップガンのレースをまかせて下さるオーナー、そして応援して下さるファンの方達の期待にこたえる、騎手としての私の最善の方法が。
見つけ出した答えは「無心」で乗ることに徹することでした。しかし、それが容易でないことも同時に語っています。
引用:同上p144
一方で、サクラローレルを管理していた小島太調教師は、天皇賞直前まで出走自体を危ぶんでいました。前年の有馬記念での激走の反動が大きく前哨戦を使うことができませんでした。それでも疲れは取りきれず、状態が上向きになったのはレース直前でした。「負けられないレースだと思ったし、負けちゃいけない馬だと思ってましたからね」「でも本当に後半がよくなったんでね、『これで終わってもイイ』というほど馬を仕上げたんですよ。『手頃にちょうど良く』というのではなく『研ぎ澄まされた……』というところまで仕上げました」とレース後に書籍のインタビューで語っています。サクラローレルも状態を上げて天皇賞春に臨んできました。
1997年4月27日第115回天皇賞(春)。僕はテレビの前で観戦していました。レース直前のゲート前、解説の大坪元雄さんは「実力ではサクラローレル、実績ではマヤノトップガン、順調度ではマーベラスサンデー」と評していました。
実況の杉本清アナウンサーがマヤノトップガンについて尋ねます。「どう出るとみていますか、田原騎手」「私は菊花賞の時のような、流れに乗っていて、それで3コーナー下りから進出というパターンじゃないかなと思うんですけどね」「正攻法といえば正攻法ですね」「それで相手が強ければ致しかたなしというところだと思いますね」。大坪さんに限らず、マヤノトップガンの力を引き出して、サクラローレルを負かすには前に出て粘るしかないという考えが多かったように思います。
ゲート前で発送時間を待つ時、マヤノトップガンの鞍上・田原騎手は何回も腰を浮かせて騎乗フォームを確認するような動きを繰り返していました。
ファンファーレが鳴り、ゲート入りは順調、インターライナーが出遅れた以外は揃ったスタートになりました。外から南井克己騎乗のビッグシンボルが逃げる展開で、3強はサクラローレルが中団、その少し後ろ、やや外にマークするようにマーベラスサンデー、内側にやや引っかかるようにマヤノトップガンが進んでいく場面が映像に残っています。
1周目のゴール板前(天皇賞春は3200mという長距離なのでゴール板前を2回通過します)、引っかかりかけていたマヤノトップガンは、周囲を馬に囲まれてインコースに落ち着きます。杉本アナは「1周目のゴール板前までマヤノトップガンがはたして機嫌良く来れるかどうか、それが大きなポイントであります」と実況していましたが、この時点でマヤノトップガンと田原騎手の意思疎通がつきます。囲まれたマヤノトップガンの2頭外にはサクラローレル、その後ろにぴったりとマーベラスサンデーが追走しています。
マヤノトップガンの田原騎手と同様に、マーベラスサンデーの武豊騎手も相手はサクラローレル1頭と決めていて徹底的に後方からマークしていました。このような時に後ろからマークするアドバンテージを武豊騎手は誰よりも知っていて、そのチャンスにかけている様子がはっきりと画面上から伝わってきます。
2周目に入り、サクラローレルは自然と位置が前に移動して、それにマーベラスサンデーも付いていく形になりました。一方のマヤノトップガンは周囲の馬群に合わせて2頭よりも位置を後ろに下げます。「マヤノトップガンは中団よりやや後ろ、折り合いが付いている感じ」と実況されています。
そして、向正面の残り1800mを切ったところで、サクラローレルが外から一気に進出し、先頭のビッグシンボルに並びかけそうな位置まで行きます。まだレースは半分も過ぎておらず、スパートには早すぎます。杉本アナも驚いて「どうしたんだ横山、サクラローレルかかったかかった、あー、サクラローレルが2番手まで行ってしまった」と実況しています。それに後ろから付いていくマーベラスサンデー。2頭との差が開いてもマヤノトップガンはインコースで静かにしています。折り合いが付いている様子に「マヤノトップガン、上手くいっているんではないでしょうか」と触れられています。
2頭が先に行った時を振り返り、田原騎手は次のように書いています。
しかし、たとえレースがあのように流れても、あそこで動かなければ最後にあの鋭い脚を使う、その思いは私の中に1パーセントもなかった。それが阪神大賞典から天皇賞まで私を悩ませ続けた全て。
その思いを消すことが、私がマヤノトップガンを115回天皇賞馬に導いてやれる全てだった。それには体力でも技術でもなく心を消すこと。全ての想い、意識を消すこと。
引用:田原成貴「競馬場の風来坊2 馬上の風に吹かれて」p145
3コーナーから4コーナーですでにサクラローレルは2番手をキープして、直線の入口で逃げるビッグシンボルをかわして先頭に立ちます。それをマークしていたマーベラスサンデーも並びかけます。後ろで体力を温存していた分、マーベラスサンデーの勢いがあるように見えました。レースはその2頭のマッチレースに思えました。
直線、大外をずいぶん離れた位置から1頭、走ってくる馬がいました。あまりに離れていたので最初は実況も触れなかったのですが、ぐんぐん差を詰めて近づいてきます。「大外から1頭飛び込んでくる、トップガン来たトップガン来た、さあ差し切るか? やっぱり3強の争いだ」という実況に乗って、トップガンが外から追い込みます。一度は先頭に立ったマーベラスサンデーですが、内側のサクラローレルが再び抜き返します。武豊騎手としては完全な騎乗でしたが、それでもサクラローレルが勝っていたのです。しかし、そこから田原騎手騎乗のマヤノトップガンが一気にかわします。
あまりに鮮やかな差し切りがちでした。いつもは派手なガッツポーズをする田原騎手もこの時は精根尽きたように馬のたてがみに手を当てて、労をねぎらうのみでした。
115回天皇賞(春)は1着マヤノトップガン、2着サクラローレル、3着マーベラスサンデーで、マヤノトップガンの走破タイムは今までの記録を3秒近くも更新する世界レコードでした。競馬は0.01秒の差が勝負を分けます。3秒というタイムがいかに大きいかお分かりいただけるでしょう。
レース後、田原騎手はしばらく「マヤノトップガンの顔は見たくない」と言いました。極限まで向かい合った末に出る心境だったのでしょう。マヤノトップガンはこの後、調教中に屈腱炎を発症して秋に引退します。
サクラローレルはこのレースの疲れが大きく、2日ほどは厩から出られなかったと言います。その後、凱旋門賞を目指しますが、前哨戦で故障を発生して引退します。
横山騎手があれほど早く仕掛けたのはなぜか、本人からの言及はなく真相は分からないままです。前の馬の走りが不安定であり、サクラローレルがトラブルに巻き込まれることを危惧して抜け出したという説もあります。サクラローレルはマーベラスサンデーをはじめ、天皇賞全馬の勝負を横綱相撲で受けて立ち、マーベラスサンデーを差し返しました。マヤノトップガンには敗れたものの、その強さを十分に知らしめたレースでした。
マーベラスサンデーは1年後の宝塚記念で悲願のGⅠを制覇します。鞍上はその時も天皇賞と同じく武豊騎手でした。
競馬に数多くの名勝負はあれど、115回天皇賞(春)のように、レース内容、騎手たちの駆け引きに見応えのあるレースを他に知りません。3頭ともに現役を引退した後は種牡馬となり、産駒からは活躍馬も出ています。横山騎手、武豊騎手は今も現役を続け、田原騎手は引退後調教師になりましたが、薬物所持、傷害などで逮捕されて、競馬界からは追放という扱いになっています。
サクラローレルを管理していた小島調教師は「あのレースはトップガンに負けたというよりは、『田原マジック』に負けたな、と思って観念しました」と後に語っています。田原騎手の作品とも言える115回天皇賞(春)は今映像で見ても輝きを失っていません。
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