リハビリの仕事をしていて、後輩に助言する点はほとんどが技術的なことではありません。技術を軽視するわけではありませんが、患者さんとトラブルを起こすのは、多くがそれ以外の要因です。
ひとつは以前の記事「コミュニケーションを円滑にする大切な初歩」でもお話ししたように、相手との適切な距離感を誤ることです。
患者さんは「一生懸命やってくれる」とよく言葉では感謝を表しますが、必ずしも一生懸命を評価するわけではありません。
患者様にも家族にも踏み込んで欲しくない心の領域があり、そこに不注意に足を踏み入れることで軋轢が生じます。僕たちに1人になりたい時があるように、患者様にも様々な葛藤や心の動きがありますし、当然のことながら性格も価値観もそれぞれ異なります。その適切な距離感を保つことが大切になります。
もちろん仕事ですから、相手が避けたいことに言及せざるを得ないこともありますが、距離感を把握した上で踏み込むのとそうでないのでは、大きな差があります。
さて、もう一つ助言する機会が多いのが「他人をコントロールしない」という点です。
自信がない、あるいは不安が強い人にありがちなのですが、自分の管理できる範囲に相手を押し込めようとします。
リハビリという分野はとかくリスク(危険)と背中合わせの分野です。例えば、脳卒中などで歩くことができなくなった人が、練習により歩くことが可能になりそうだとします。その段階が1番判断が難しいところで、歩くということ(他にも動くこと全般)は転倒などリスクを伴います。
そのようなリスクに対して、成熟した治療者は患者様や家族の性格も含めて、どのくらいまで目を瞑るか総合的に判断しますが、それができない治療者は自分の管理できる範囲に押し止めて、過剰に対策を打とうとする傾向があります。患者様と家族を見守り、対策を打つことは必ずしも悪いことではありませんが、それが過剰になると相手からはかえって信頼されません。
リハビリに限らず、人間的に未成熟な人や自信がない人は、とにかく相手を管理したがります。恋人関係に当てはめると、束縛しすぎる恋人のようなものです。最初は好意が嬉しくても、次第に離れたくなるのが自然な成り行きです。
親子でも恋人同士でも仕事の関係でも、相手を管理したくなる願望は自信のなさや不安の裏返しです。そして、行き過ぎた管理は必ず相手の反発を招きます。
→関連記事:「失敗させる勇気」(2019年5月25日更新)
囲碁棋士・藤沢秀行と将棋棋士・米長邦雄(いずれも故人)の対談本「勝負の極北」では次のような会話があります。
碁は盤面が広いから、序盤から雲を掴むような状態です。そこからだんだん形勢がハッキリしてくる。将棋はこの逆で、序盤は指し手がほとんど決まっていて、中盤から雲を掴むような状態になります。
将棋界の若手が研究しているのは、雲を掴むようになる、その前の段階までなんです。雲を掴むような世界に行く前に将棋が終わるというのなら、そのほうが安心ですからね。なるべく早い段階で決着をつけてしまおう、ということをテーマに研究をしている。当然、それはうまくいきません。結局は雲の上まで上がって戦わざるを得ない。そうなると皆目わからなくなってしまう。
藤沢 ある程度までは早く到達できるでしょうけど、雲を掴むようなところからが大変なんだな。
米長 ひとたび優勢になれば勝てるというのは錯覚で、どうあがいたところで、雲を掴むような世界で勝負しなくてはいけない。そこでは、自分の力だけが頼りです。「これが確実だ」というやり方はありません。
藤沢 最後は、やっぱり人間性の問題になるんじゃないですか。
米長 そうでしょうね。だから、私は今の将棋は昔より弱くなったと思っているんです。
というのは、勉強すればわかる範囲で身につけたことだけをもって、自分は強くなったと錯覚しているからです。これは、教育ママに与えられたカリキュラムをこなして、試験の点数が上がったようなものであって、本当の強さではない。
(引用:「勝負の極北」クレスト社 1997年 P99-100)
2人は囲碁や将棋を例にあげていますが、この話は社会全体に通じます。人間というのは世界を切り取って、その世界の中で生きています。社会を自分のルールや慣習を基準に見ているのです。それが通用しない世界に行くことはとても不安を伴います。そこを力強く生きられるのが、本当の強さであり能力でないかと語っているのです。
ここまで話せば、他人をコントロールしたがる人がどのような心理に基づいているか分かっていただけたと思います。そのような傾向に心当たりがあるなら、内面を見つめ直して、少しずつでも恐怖や不安を克服していくことが大事だと思います。
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