オークションで珍しい品を手に入れました。昭和17年9月東京宝塚劇場での雪組公演のパンフレットです。
園井恵子の宝塚歌劇団での最後の公演です。園井は新劇に転向するため、本当は昭和17年5月(宝塚大劇場雪組公演4月26日~5月24日)を最後に退団する予定でした。しかしこの時の『ピノチオ』の主人公・ピノチオ役が好評で、9月の東宝公演もぜひ園井でという要望に応えて退団を延ばしたのでした。
表紙にはピノチオの絵が描かれていますがおそらく園井がモデルかと思います。園井以前に谺春香が演じたこと(大劇場昭和17年3月~4月花組公演)があるので、そちらがモデルの可能性もありますが、描かれている絵から園井の方が近いように思います。
当時の宝塚歌劇は戦時下の影響を受けて、外国ものの公演が目に見えて少なくなり、カタカナ表記の題目が減っていました。それに代わり戦意を高揚するような軍国ものが多くなっていました。その中で『ピノチオ』のようなメルヘンに溢れた作品は異例中の異例でした。原作者のカルロ・コッローディが同盟国のイタリア人というのが影響しているのかもしれません。
当初、昭和17年4月~5月のピノチオ役は前月の花組公演で好評だった谺春香がそのまま演じる予定でしたが、園井の退団を知った春日野が「園井が主演でなければ出演しない」と掛け合い、変更されたと言われています。この最後に用意された晴れ舞台に園井の気持ちは高まります。
この『ピノチオ』はピノチオ演じる園井だけでなく、助演の春日野八千代や糸井しだれなどの好演も評価された作品でした。時流上、軍国主義に抗えない宝塚歌劇において、久々に人々の心を潤した作品だったのではないでしょうか。
皮肉なことに園井だけでなく、糸井しだれも後に空襲で25歳の命を散らしてしまいます。
さて、宝塚歌劇の『ピノチオ』に夢中になったある人物がいます。「漫画の神様」手塚治虫です。手塚は自身のエッセイで次のように述べています。
「私の宝塚」(手塚治虫. 手塚治虫エッセイ集6 収録)
手塚は園井を認識していたようです。どこかですれ違っていたのかもしれません。そして、妹の宇都美奈子が次のように話しています。
(親友が語る手塚治虫の少年時代(16)家庭における手塚治虫(5)(2003年・大阪府豊中市で開催の講演記録より)2020年7月26日閲覧
手塚治虫は戦後の春日野八千代主演の『ピノチオ』に夢中になっていました。『宝塚歌劇四十年史』によれば、北野劇場にて昭和20年11月2日~26日に花組と雪組合同で『雪月花』『奴道成寺』『ピノチオ』が公演されています。昭和17年に園井に贈ったピノチオ役を戦後、春日野が演じたのです。
手塚治虫がもし、昭和17年の園井恵子の『ピノチオ』を見ていたら、どう感じたでしょうか。春日野版と比べて、どのような感想を述べたでしょうか。それを聞けたらどんなに素晴らしかっただろうと残念に思うのです。手塚本人は『ピノチオ』について次のように語っています。
「私の宝塚」(手塚治虫. 手塚治虫エッセイ集6 収録)
手塚にとって『ピノチオ』は作品として夢中になっただけではなく、戦争が終わって自由に表現ができることになった象徴でもあったのでしょう。
手塚治虫が宝塚歌劇の大ファンであったことは疑いようのない事実で、本人は「『リボンの騎士』は、ぼくの宝塚体験の総決算で生まれた 作品である。『ベルサイユのばら』その他の少女マンガが『リボンの騎士』から始まったことを思うと、少女マンガのルーツに間違いなく宝塚が存在するのである」(同上)と述べています。
『ピノチオ』が『鉄腕アトム』のヒントになったという文献(竹村民郎「阪神間モダニズム」における大衆文化の位相 : 宝塚少女歌劇と手塚治虫の漫画に関連して:2020年7月25日閲覧)もありますが、その根拠がこの論文だけでは(私には)十分に理解できないので、ここでは紹介にとどめておきます。
今回、入手したオークションには当時、持ち主が使ったであろうチケットも添えられていました。「六日」とあるので、おそらく昭和17年9月6日に観劇したと推測されます。この持ち主は園井恵子演じるピノチオを目の前で見たのでしょう。どのような人が、どのような気持ちで観て、どんな感想を持ったのか? 想像することだけが現在の私たちに許されています。
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