園井恵子ゆかりの地を巡る ~鳥取編

(写真:演劇「獅子」の一幕。左:園井恵子演じるお紋、右:丸山定夫演じる吉春 昭和20年1月神奈川県での公演時)

鳥取と園井恵子

昭和17年、園井恵子は宝塚歌劇団を退団後、小夜福子の誘いに応じて、劇団新生家族という新劇の劇団に所属します。この劇団は小夜の夫である演出家・東郷静男が主催するもので事実上の引き抜きでした。もともと演技派として宝塚でも評価が高かった園井は、新劇を観て勉強していたと言います。宝塚独特の甘い演技にどこか物足りなさを感じていて、新しいステップに新劇を選んだのかもしれません。

園井にとって宝塚歌劇を出るという決断は簡単なものではなかったと想像できます。小夜は園井が家出同然に単身宝塚に出て来た時に、寄宿舎で励ましたという逸話が残っています。尊敬する先輩でもあり、その力になりたいと思う気持ちもあったのかもしれません。

しかし、園井が移った直後に劇団は解散してしまいます。当時の劇評は良いものだったと記録に残っているので、おそらく劇団員同士の内輪揉めが原因なのではないかと推察されます。

申し訳ない気持ちがあったのでしょう。東郷と小夜はその後、園井にいくつか仕事を紹介しています。戦前の名作映画として名高い「無法松の一生」は、最初は小夜にオファーがあったのですが妊娠中であり、そこで園井を紹介したのでした。「無法松の一生」は現在も園井恵子の代表作となっています。

東郷が紹介した先のひとつに、徳川夢声、薄田研二、藤原釜足、丸山定夫らが旗揚げした「苦楽座」がありました。この苦楽座は戦時下での国の政策により、移動演劇に方針変更を余儀なくされて、後に苦楽座移動隊、そして桜隊となります。

桜隊は昭和20年8月6日に広島にいて、原爆により滞在していた劇団員全てが死亡します。丸山定夫、仲みどり、園井恵子、高山象三は避難に成功しますが、後遺症により亡くなります。

その桜隊が最後に巡業していたのが島根、鳥取でした。当時の様子を同行した演出家・八田元夫が著書「ガンマ線の臨終」の中で書き残しています。それによると、桜隊は浜田、松江、木次、安来、大山、倉吉などを訪れた後、7月14日に岩美に到着し、翌日に郡家と移動して、その後広島に戻っています。つまり、鳥取が女優・園井恵子の最後の舞台だったと言えます。

この時期を示す資料は多くありません。前述の「ガンマ線の臨終」の他には、桜隊の足跡を調べた「草の花 その7」に「私は見た!『桜隊の山陰巡演』」という取材記が載っています。当時平成3年で、桜隊と実際に接した人に取材した貴重な資料となっています。最近では堀内惠子著「戦禍に生きた演劇人たち」も優れた書籍で、実際に堀内氏が取材で岩美を訪れた記録が書かれています。

今回はこれらの資料を元に、桜隊と園井の鳥取での足跡をたどります。

岩美

岩美駅

岩美駅外観(2019年11月撮影)

岩美駅ホーム(2019年11月撮影)

桜隊が岩美駅に到着すると、小学校高等科(現在の中学生ほど)の女子生徒たちが、裸足でリヤカーを引いて桜隊一行を迎えに来ていたとあります1)

なぜ、女子生徒たちだったかと言うと、もともと男子生徒は1年を通じて農作業で忙しかったのですが、桜隊が訪れた7月は塩不足の時期で浜辺で製塩作業の最盛期でした。男子生徒たちはそちらの手伝いに駆り出されていたため、女子が代わりに迎えに来たのでした2)

岩美駅は平成に入ってから一度改築された3)とのことですが、昭和時代の写真(「写真アルバム 鳥取・因幡の昭和」に収録:鳥取県立図書館所蔵)と見比べても形状に大きな変化はなく、昔の面影を残しています。

岩美駅~大岩小学校跡

桜隊が公演を行ったのは大岩国民学校の講堂で、そこまで女子生徒たちと歩いて行きました。大岩国民学校は後の大岩小学校で、現在は他の学校と統合されて岩美西小学校となっています。大岩国民学校は旧大岩村の大谷という地区にありました(現在も大谷という地名は残っています)。現在、旧大谷地区に行くには大岩駅からが最寄りですが、昭和20年にはこの駅はまだ存在しておらず(昭和25年開業)、岩美駅から歩く必要がありました。

岩美駅から大岩国民学校までのルートは、八田元夫が「ガンマ線の臨終」の中に書いた記述が参考になります。

砂丘の麓のこじんまりした村落をすぎて街道にさしかかると、ぽつぽつ小降りになって来た。足を早めているうちに、盆をくつがえしたような降りとなってしまった。雨宿りする蔭さえない、畑と削り取られた山肌にかこまれたまま続いている道筋だ。途中、追い抜いて行くトラックに手を揚げて合図しても、聞こえないのか完全に黙殺しきって、煙る往還の曲がり角に消えてしまう。岩美の駅に辛うじてたどりついた頃は、腹の底まで夏の雨にぬれてこごえきっていた。(「ガンマ線の臨終」P48)
これは八田が一人、別行動で東京に戻った時の描写ですが、土地勘のない八田が往路と違う道を戻ったとは考えにくく、桜隊が歩いた道も同一と考えられます。

国土地理院に所蔵されている旧版地図の中に昭和7年の「浦富」(縮尺1/25000)があり、その中に大岩村も含まれています。それを見ると、当時の地形や道を知ることができます。

岩美郡(国土地理院所蔵旧版地図「浦富」1/25000 昭和7年より)

岩美駅から現在の大岩駅付近までの道のりはほぼ一本道です。現在は県道328号線が大岩駅南を東西に走っていますが、昭和20年当時はその道がなくて、山陰本線の北を通る道が主な道でした。八田が記述した「雨宿りする蔭さえない、畑と削り取られた山肌にかこまれたまま続いている道筋」とはおそらくこの道で、トラックが通っていたという点でも当時の主幹道路を歩いていたと考えられます。

現在の地図に桜隊が移動したであろうルートを矢印で加えます。

大岩駅より北は当時も現在も田畑が広がっていますが、田畑の区画が変わっていて、その関係で現在なくなっている道があります。現在なくなった道で関連するものについては、灰色で記入しています。

現在の大岩駅あたりから大谷地区に行くには、八田の「街道」という言葉を全面的に受け入れるなら、ルート③になりますが、この道は距離的に回り道である上に勾配の厳しい山道であって、リヤカーを引いていた現地の女子生徒たちがあえてこの道を選ぶとは考えにくいです。もし、田んぼの中の細道でもリヤカーの通行に耐える道であったなら、おそらくルート①か②を進んだと考えられます。

岩美駅から大岩駅付近の、かつて桜隊が歩いた道、見ていたであろう風景の写真です。地図上に「写真①~⑤」と記された場所です。黄色い矢印は写真の見ている方向を示しています。

写真①(2019年11月撮影)

写真②(2019年11月撮影)

写真③(2019年11月撮影)

写真④(2019年11月撮影)

写真⑤ 大岩駅前の駐車場(2019年11月撮影)

大谷地区


大谷地区は岩美町の西海岸近く、蒲生川が海に流れる河口の南一帯の地域です。昭和7年の地図を見ると分かりますが、大谷地区の北西地域には大きな砂丘があり、民家はそのふもとに密集していました。下の地図で住宅密集地の南を東西に通行する主幹道路は、現在の国道178号線(大谷中央の交差点がある道路)ではなく、そのひとつ北の大岩大谷郵便局がある細い道です。当時は178号線の道はまだありませんでした。

岩美郡大谷(国土地理院所蔵旧版地図「浦富」1/25000 昭和7年より)

砂丘の跡地はまだ丘として地形の名残が残っています。丘の上にも住宅や公共施設(学校や保育所、コミュニティセンターなど)が建てられましたが、ふもとに住宅が密集しているという構図は現在も残っています。

高台から大谷地区を見た写真(2019年11月撮影)

大岩国民学校跡地

桜隊の公演は大岩国民学校の講堂で行われました。大岩国民学校は後に大岩小学校と名前を変えて、平成に入ってから他の小学校と統合されて、現在は岩美西小学校となっています。

大岩小学校は昭和35年に岩美町大谷376-1に場所を変え、平成4年に岩美西小学校となって現在の場所に移転しています。昭和35年~平成4年時の住所は文献によって細かい違いがあるのですが、ここではゼンリンの住宅地図に記載されている住所に基づいています。

昭和35年以前の所在地(つまり桜隊が公演した場所)については、どの文献にも明確な住所の記載がないのですが、「草の花 その7」には「当時の講堂は、鳥取産業というカニ罐詰工場になっており、外装されて昔の面影は無い」と書かれています。実際に桜隊を迎えた人への取材に基づいていることから間違いないと考えられます。昭和7年の地図にも該当の場所に学校が書かれています。

鳥取産業は現在は廃業しているらしく、地図上にその名前はないのですが、過去のゼンリン住宅地図を見るとその場所が確認できます。現在の岩美町大谷310がその場所に当たります。

跡地に実際に足を運ぶと、鳥取産業の看板がかけられた建物は残っていて、容易に場所を確認することができます。

大岩国民学校跡地①(2019年11月撮影)

大岩国民学校跡地②(2019年11月撮影)

大岩国民学校跡地③(2019年11月撮影)

この時、桜隊が主に演じていたのが三好十郎原作の「獅子」という作品でした。この作品で園井は丸山定夫演じる農夫の妻・お紋を演じていました。かつては良家でありながら没落してしまった家を建て直そうと、お紋は娘の雪に縁談を持ち込みます。雪は慕う男性がいたのですが言い出せずにいます。しかし最後にはその男性と駆け落ちしてしまいます。

園井が演じたお紋の役はそれまで宝塚や映画で演じてきたどの役とも違い一種の汚れ役でした。女優として新たな境地に達するために必死だったと言います。桜隊で一緒だった俳優・池田生二は当時の日記(「苦楽座移動隊(桜隊)日誌」)で「丸山さんに見られるようなうまさには欠け、難点もあるが『獅子』ではこの人が一番よく演っているのではあるまいか。お百姓のおかみさんになりきろうと精一杯に演っている。体当りの熱演である」と書いています。

クライマックスで雪がいないと気付いたお紋は列車に向かって「おゆきーっ」と叫びます。この園井の絶叫が印象に残ったのか、しばらく子供たちの間で「おゆきーっ」と叫ぶのが流行ったと証言に残っています。

宿舎跡、大谷海岸

「ガンマ線の臨終」には大岩国民学校と宿泊先について次のように書かれています。

丘陵の山間を通って川口に近い部落に学校があり、宿舎もそこから砂丘を一つ越えた岩浜の海岸にぽつんと取り残されたような錬成道場であった。

(「ガンマ線の臨終」P45)

「錬成道場」とは現在においては耳慣れない言葉ですが、堀川惠子著「戦禍に生きた演劇人たち」によれば、戦時中に旅館や小学校をそのような名称で軍が使用した例が各地にあり、桜隊が宿泊に使用した旅館も昭和19年以降、徴兵検査で不健康とされた若者を鍛える陸軍の「修練所」として使われたことが分かったと書かれています。堀川女史は、八田がその修練所に使われていた旅館を「錬成道場」と書いたのだろうと結論付けています。

昭和7年の地図を見ると、大岩国民学校から海へは砂丘があったので、それを越えて海岸沿いのどこかにあった旅館に泊まったのでしょう。時間が止まったような美しい海は桜隊の隊員たちの心を癒し、束の間の安穏を与えたようです。

宿は庭先から砂浜続きになっていて、目の下は岩山にかこまれた、ささやかな湾を形づくっている。昼一回の芝居も片づいて、ほっと一息ついていると、さっさっと寄せ返す波の彼方に、ぽつりと光るものがあった。おやと思って見ていると、迫ってくる宵やみの中に、その火のまたたきは次第に数を増し、暮れきった海にイルミネイションのようなきらめきを見せはじめた。烏賊取舟の漁火とわかったのは暫くたってからであった。日夜空襲に追われて旅から旅を歩いていた私たちに、この灯の色が無性になつかしい和いだ気持ちをとりもどしてくれた。やがて、一人二人と浜へ消えていった。波音と点滅する漁火とは、戦争の下とは思えない旅情をよみがえらせたのであろう。三々五々さまよい歩く者、砂浜にのびのびと身体を横たえる者、唄を口誦んでいる者、波うち際近く槇村が久方ぶりに夫婦だけの語らいをしている後姿が漁火越しに見うけられた。

(「ガンマ線の臨終」P45-46)

桜隊が心身を休めた浜辺は大谷海岸と呼ばれています。現在、海岸線は埠頭として舗装され、戦前に比べると砂浜は半分ほどになっていますが「岩山に囲まれたささやかな湾」と書かれた地形は今も面影を残しています。

大谷海岸①(2019年11月撮影)

大谷海岸②(2019年11月撮影)

大谷海岸③(2019年11月撮影)

大谷海岸④(2019年11月撮影)

郡家

郡家駅(2019年11月撮影)

桜隊の最後の公演場所は鳥取県の郡家と言われています。しかしその時の記録は全く残っていません。唯一「ガンマ線の臨終」の中で「明日、郡家の公演を最後に一同は広島まで引揚げることになった」という一文があり、それが根拠になっています。ただし八田はこの後、郡家には同行せずに一人東京に戻ったため、これに関するそれ以上の証言はありません。実際に公演が行われたかも不明です。しかし、推測する限りではここが桜隊最後の巡演地であり、園井恵子最後の舞台の場所と言えます。

郡家駅は2015年に改修があり、写真集で見る過去の外観と大きく変わっていて、ほとんど面影はありません。(取材時、日が暮れてしまい夜の写真となりました)。

まとめ

鳥取における園井恵子ゆかりの地についてまとめました。最後の公演地である郡家について資料がないのは残念ですが、岩美にしても証言が残っているのは八田元夫「ガンマ線の臨終」と丸山由利亜、加藤ひろむの「草の花」しかなく、山陰地方の足跡を辿れるだけでも奇跡的なのかもしれません。そのような記録を残してきた先人たちに対して頭が下がる思いです。

今回の取材に当たり十分な下調べをしたつもりでしたが、慣れない土地で時間の制限と日没があり、十分に見ることができず思い残した部分もあります。いつかまた鳥取の地に足を運び、取材の続きをしたいと考えています。

なお、この記事を書くにあたり、鳥取県立図書館には郷土に関する多くの資料をご教示、閲覧させていただきました。ここに心より御礼申し上げます。

引用・参考文献

1)八田元夫「ガンマ線の臨終」未来社.1965
2)丸山由利亜、加藤ひろむ(編)「草の花 その7」1991
3)堀内惠子「戦禍に生きた演劇人たち」講談社.2017

これらの資料についての詳細は過去記事「園井恵子の関連書籍・文献・映像作品」を参照してください。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


ABOUTこの記事をかいた人

兼業作家。2023年4月『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)上梓。歴史全般が興味の対象ですが、最近は大正~昭和の文化、芸術、演劇、映画、生活史を多く取材しています。プロフィール写真は愛貓です(♂ 2009年生まれ)。よろしければTwitterのフォローもお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。