千村克子渡欧日記

写真:中央の女性が千村克子さん、左側の女性が華澤榮子さん、右側が貫玉代さん(『日独伊親善芸術使節団 渡欧記念アルバム』より)

千村克子さんと日記

千村克子さん(右)、親友の糸井しだれさん(左)と一緒に(『歌劇』昭和13年3月号より)

園井恵子さんの伝記の完成まで長い時間が必要でしたが、その中で多くの時間を要したのは、資料の収集と読み解く作業でした。取材を始めた時、戦後すでに70年近くが経過していて、園井さんと同時代を生きた人から証言を得るのが難しく、彼女を知るには書籍や文献に頼る他なかったのです。

集められた文献の中には、貴重なものもあり、今回紹介する『千村克子渡欧日記』もそのひとつです。

千村克子さん(本名:竹入清子)は大正6年大阪府大阪市出身2)。宝塚歌劇団(当時は宝塚少女歌劇団)19期生で、同期生に園井恵子、神代錦、櫻緋紗子、大空ひろみ、藤花ひさみ、社敬子、月影笙子などがいます。昭和5年4月が初舞台で、デビュー当初は娘役が多く、特徴がなく目立たない生徒でした。一時期は春日野八千代に拮抗する二枚目男役に抜擢されたこともありましたが、これも成功せず脚光を浴びないままでした。昭和9年3月の『ウィナー・メーデル』の劇場監督役あたりから三枚目役が徐々に付くようになり、昭和12年4月の『ブライア・ローズ』の尨犬ピーフケ役が当たり役となり、以降は三枚目の名手として地位を築いていきます。初音麗子と組んでの漫才もどきのコンビは多くの客を笑わせて支持されました。昭和21年5月、大劇場再開第1回公演を終えるのを待って結婚のために退団。その後は「宝塚新芸座」や花登筐の「劇団喜劇」などで舞台活動を続けました。晩年はパーキンソン病などを患い、介護生活の後に平成17年(2005年)に亡くなっています3)4)

この『千村克子渡欧日記』は千村さんの昭和12年1月から昭和14年9月、および昭和17年2月のプライベートの日記です。昭和12~14年であれば千村さんは当時20~22歳頃です。「渡欧日記」と名付けられているのは、昭和13年10月2日から同14年3月4日にかけて日独伊親善芸術使節団として、ドイツ、イタリア、ポーランドなどで公演に同行した時の記録が詳細に記されているためです。

千村克子さんの日記(後述の朝日新聞2015年9月8日の記事より抜粋)

千村さんが亡くなられた時、知人がその遺品を託されて、そこから西宮在住の詩人である今村欣史さんの元に渡り、日記は今村さんから阪急財団池田文庫に寄贈されて今に至っています。『渡欧日記』という名称は寄贈された際に池田文庫が付けたものと考えられます。私は今村さんのブログからこの千村さんの日記の存在を知り、池田文庫で閲覧させてもらいました(池田文庫で閲覧の際はマイクロフィルムでの利用になります)。

今村さんは出石アカルの名前でも活動していて詩やエッセイの著書があります。今村さんの最近の著書はこちらです。

園井さんと千村さん

宝塚少女歌劇団19期生。後列右から月影笙子、桜緋紗子、大空ひろみ、藤花ひさみ、千村克子、秋風多江子、八重春代、前列右から夏野洋子、園井恵子、神代錦、安宅関子、社敬子、泉川美香子(『歌劇』昭和10年12月号)

園井さんと千村さんは同期ではあるのですが、当時の宝塚音楽歌劇学校は年齢によって2クラスに分けられていて、園井、櫻、社、藤花は女学校卒業(園井さんは正確には中退)で甲組、千村さんは小学校卒業後すぐに宝塚に入学したため、神代、大空、月影らと乙組になりました。

そのためか、同期ではあるのですが、舞台で共演することはあっても、それ以上園井さんと千村さんの接点を示す文献や証言はなく、日記にもただ1箇所、昭和12年5月8日に「学校へ行くとバービィは牧師さんとか星組のハカマダさんは雪組に応援なさるそうです」と書かれた部分があるのみでした。これは当時、園井さんの当たり役だった『バービィ』のセシル役について、星組から雪組に出張して演じることになったという記述です。

当時園井さんの愛称は本名の袴田から「ハカマ」で通っていました。下級生でも「ハカマちゃん」と呼ぶ生徒がいたのに対して、千村さんの「ハカマダさん」という記述はいかにも他人行儀で、接点が少なかったことの証左とも言えます(※1)。一方でクラスが一緒だった神代錦の「イナちゃん」、大空ひろみの「ひろみ」、月影笙子の「トキワ」といった愛称は日記中の様々なところで見られます。

園井恵子の伝記執筆のためという意味では、あまり有用ではなかったのですが、この日記はその存在だけで十分に価値があるものです。さらにその内容について紹介していきます。

※1 ただし、これはあくまで昭和12~14年時点での園井さんと千村さんの関わりであり、その後に接点があった可能性はあります。雑誌に掲載された写真では園井さんと千村さんが隣に並んで写っているもの(「青空の下の座談会」『歌劇』昭和9年5月号)もあります。

ヨーロッパ公演と水晶の夜

この日記からは多くの価値が見いだせますが、池田文庫がこの資料を「渡欧日記」と名付けたように、ヨーロッパ公演の詳細な記録は他にはない貴重なものです。

昭和初期という時代に、宝塚少女歌劇団の女性たちが遠くヨーロッパで公演していたのは何ともロマンを感じます。ヨーロッパ公演の直後、サンフランシスコとニューヨークで行われる万国博覧会に合わせて、昭和14年4月5日から7月8日にかけてアメリカ公演も行われています。

その時の様子は当時、宝塚少女歌劇団から発行された『日独伊親善芸術使節団 渡欧記念アルバム』『渡米記念アルバム』(ともに昭和14年発行)で見ることができます。

日独伊親善芸術使節団(『渡欧記念アルバム』より)

ワルシャワにて墓前に鎮魂を祈る生徒たち(同上)

使節団は各地で名所や旧跡を周り見聞を広げながら、一方で稽古や公演も続けています。公演では時に歴史的に貴重な体験もあり、それは日記にも書かれています。昭和13年12月15日の日記には次のような記述があります(一部、読みやすいように表記を整えています)。

早く衣装を着に降りたら、秦さんがムッソリーニがいるから早く来なさいと言われた。皆、夢とばかり驚く。ムッソリーニのため、一場目に全員そろってジャビネツァ(筆者注 イタリアファシスト党歌)を唄う。二階舞台から向かって四つ目のボックスにお孫さんを連れて来ておられる。幕が上がるなり一同お辞儀なのに忘れる。公演も順序よく行く。だが、こちらの大道具はいささか上がり気味。幕が引っかかる。この劇場も人も皆、ムッソリーニなんかに会えるのは多分初めて位だろうと思う。秦さんは最後までご覧にならないだろうと言っておられたが、最後までおられ、私達アンコールの時のジョビネツァの時はファシストの敬礼をしてニコニコしておられた。一寸やはり上がり気味で赤くなり、照れくさく、お孫さんの頭を撫でておられた。
私達は一心にムッソリーニばかり見ていた。
今日は皇后様、内親王様も見ておられた。幕が降り、又上がり又上がり、そして二度ジョビネツァを合唱する。下のお客さんも私達を見に来ていてもムッソリーニばかり見ている。ムッソリーニ氏は四階の人に到るまで敬礼され、いかに国民から慕われているかがわかる。写真像などではとても怖い顔だが、とても優しい顔。やはり子供のある人は違う。それにつけてもドイツのヒットラーのシャクにさわる事。帰りのバスは皆、思い思いのムッソリーニの事を言い、とても騒がしかった。

昭和13年12月15日の日記の一部

千村さんは時に日記帳からはみ出すくらいびっしり文字を書いていて、おそらく現地で解説されたのであろう内容も詳細に記憶して書いています。その記憶力と書くための根気は驚くほどです。海外公演中は日記を付けるよう歌劇団から指導されていたらしいですが、書かなかった生徒が千村さんに日記を借りていたことも、ある日の記述から伺うことができます。それも容易に納得できるくらいの熱心さで、それが文面に表れています。

昭和14年1月4日の日記。ハイデルベルクの見学について左のページにびっしりと書かれています。

この日記は昭和13年9月8日から12月13日の部分が欠けています。本当はそこには1冊の日記帳が存在していたはずでした。10月2日からのヨーロッパ公演の前半部分やその直前の使節団メンバーの発表など、興味深い部分が欠けていることになります。その日記帳が残っていないのは、単に紛失したのではなく、おそらく意図的に処分したのではないかと考えられます。

日本を出発してから1ヵ月ほど経過した11月9日、使節団はドイツのベルリンに滞在していました。この11月9日の夜、ナチス・ドイツのゲッベルス宣伝相がユダヤ人青年がパリのドイツ大使を射殺した事件について声明を発表します。大使は7日に銃撃されて、この9日に亡くなっていました。ナチスは事件を反ユダヤ主義を促進させるきっかけに利用しました。ゲッベルスは事件に対して市民が自発的に暴動を起こした場合、それを妨げないと言いました。それはユダヤ人への暴力の容認宣言でした。
9日夜から翌朝にかけて、ドイツ全土でユダヤ人の住居、商店、礼拝堂などが破壊、焼き払われ、略奪や強姦も発生しました。3万人近くの人が逮捕されて強制収容所送りとなりました。この暴動はナチスの部隊やヒットラー・ユーゲントにより主導されましたが、市民の自発的な暴発を装うために、多くは一般市民の服装を着用していました。この暴動により道路は割られた窓ガラスで埋め尽くされて、それがキラキラと輝いていたことから、この事件は「クリスタル・ナハト(水晶の夜)」と呼ばれて、アウシュビッツやホロコーストに繋がるナチス・ドイツのユダヤ人迫害のターニングポイントとされています。

その「水晶の夜」の現場に千村さんや使節団が居合わせたとされています。以下は11月17日付けの、千村さんが自宅の女中、小梅に宛てた手紙の抜粋です。

日記からひらって私達の生活ぶりをお知らせ致します。
十一月十日
ドイツの舞踏学校見学に行きました。この日はドイツ大使がユダヤ人にピストルで撃たれて殺された日なのでユダヤ人のお店は皆つぶされてひどい事になっていました。そしてユダヤ人の教会を焼き払って。私達はその教会の前のビルでおけいこをしていましたがとてもすごいでした。この話は一寸手紙では書けません。
(『千村克子』出石アカル.月刊『KoBecco』2010年4月号より引用)

この宝塚少女歌劇団と水晶の夜の関連については、岩淵達治氏が『水晶の夜 タカラヅカ』(青土社)という著書で触れています。また、日記と水晶の夜については2015年9月8日の朝日新聞でも記事として取り上げられています。

朝日新聞2015年9月8日の紙面より

岩淵達治『水晶の夜 タカラヅカ』によると、ドイツの公演では使節団は冷遇されていたように書かれています。それは前述の千村さんの日記(昭和13年12月15日)「それにつけてもドイツのヒットラーのシャクにさわる事」という部分にも繋がってきます。女中に宛てた手紙の内容から日記が存在していたのは間違いなく、1冊だけ欠けているのは、この水晶の夜など戦争と関連する記載を残すのを嫌がって処分したのではないかと推察できますが、あるいは他に残しておきたくない記述があったのかもしれません。今となっては真実は歴史の地層の中に埋もれています。

宝塚少女歌劇の息吹

ヨーロッパ公演の記録は得がたいものですが、この日記の価値はそれだけにとどまりません。当時の一人の生徒から見た宝塚少女歌劇の貴重な視点が書かれています。当時、交流のあった生徒たちの様子や、どのような生活をしていたのかも窺い知ることができます。

犬のイショウが苦しくて暑くてこんな思いをするのなら休んだ方がましです。悲しいことです。息も苦しくて目もはっきり見えず生きながらの地獄です(昭和12年3月27日)。

千村さんの当たり役になった『ブライア・ローズ』の尨犬ピーフケ役ですが、当の本人は大変な苦痛だったらしく、上のような言葉が残されています。ただ、本人は意識していないのかもしれませんが、三枚目で観客を笑わせる才能なのか、苦しそうな記述にもどこか表現がユーモラスで、私などはちょっと微笑んでしまうところがあります。後の日記では「今日は犬で暴れてやろうと思った」などの記述もあります。

舞台げいこはかなりもめて、私の階段から落ちる所などは八辺押さされ腰やら足やら打ってとても痛い(昭和13年7月30日)。
今月は公演の月だったので色々と面白い事があったが、よっぱらいで毎日段はしごから落ちるのにはつらかった。からだ中あざだらけでどうしてこんな役ばかりまわるのかと思った(昭和12年8月の感想欄)。

こちらも三枚目ならではの悩みが書かれています。稽古でも肉体的にキツかったらしく、尨犬ピーフケ役と同様、役の辛さについての記述が散見されます。

あまり私の足が痛そうなので、吉ちゃんが出てあげると言ってくださったけれど、一寸ねつがあるのでやはり私が出る事になる。十四日から出られるそうだ。やはり私には人気が無いので吉ちゃんに出てほしいらしい。しゃくにさわった。声は割と出る(昭和12年6月12日)。

「吉ちゃん」とは春日野八千代さん(本名:石井吉子)の愛称で、この時体調不良で休演中だったのですが、代役を務めていた千村さんの状態を見て自分が戻ろうと申し出た様子です。しかし、春日野さんの体調も万全ではなく、千村さんが続けて代役を務めたようです。この時期は三枚目としての地位が確立しておらず、二枚目の男役としての登場も見られたようです。

「吉ちゃん(石井吉子)=春日野八千代」のように宝塚少女歌劇の生徒たちはお互いを本名や愛称で呼んで、芸名で呼ぶことはほとんどありませんでした。そのため、日記でも人名は本名や愛称で書かれています。日記には次のような愛称が見られ、千村さんとの交流が書かれています。

池ちゃん → ??
宮田さん → ??
ミヤス → 糸井しだれ
石井さん、吉ちゃん → 春日野八千代
武藤さん → 初音麗子
ひろみ → 大空ひろみ
江川さん → ??
サーちゃん → 久邇京子 または 左近八重子
きくえさん → ??
清ちゃん → 倭一二三
榮子さん → 天津乙女
矢野ちゃん → 佐保美代子
武やん → ??
ノッペ → 那智美奈子
秦ちゃん → ??
トキワ → 月影笙子

生徒の生活ではファンや支援者との交流も多く、書かれているのが生徒なのかスタッフなのかファンなのか不明な部分も多いです。もし、上記の愛称の不明者でどなたのことか分かる方がいましたら、ご教示いただけるとありがたいです(できれば出典なども合わせて教えていただけると幸いです)。

舞台の華やかな様子だけでなく、日記には次のような記述もあります。

北支事変で出征する人がたくさんあるので毎日見送りの人でややこしい。学校の山口さんが出征されるので武藤さん達と千人針を作ってあげることにした(昭和13年7月28日)。
夕方楽士さんの出征の見送りに行く。とても悲しかった。好きでもない人でこんなに悲しかったら、好きな人だったら卒倒するだろう(昭和13年7月30日)。

他にも電車に乗ったら戦死者の遺骨箱を持った人がいて悲しい気持ちになったことなども書かれていて、ヨーロッパだけでなく、日本においても戦争がすでに日常生活に忍び寄っている様子が伝わってきます。

一人の女性として

この日記はプライベートなものなので、一人の20代前半の若い女性として日常生活や悩みも多く書かれています。ちょうどこの頃に母親と祖父を胃がんで亡くし、介護の様子や亡くなった後の淋しい思いを度々吐露しています。また当時ではすでに結婚適齢期だったようで、周囲の生徒が結婚で退団して、自分に良い縁談がないか待ちわびていることも書かれています。「どうぞ神さま、私をすくって下さいませ。良い結婚が出来ますよう、二十五才までにやめられますようお祈りします」「宮ちゃんも今月限りでよされて結婚をなさる。うらやましい。早くやめたい」「お茶を飲んで、又彼氏の事をきかされギャフンとなる。私はなぜ彼氏がないのかしら。淋しい」「やはり私は男の人には好かれないたちだ。淋しい」など、悩んでいる様子が伝わってきます。

千村さんの周囲の印象が書かれたものを読むと、持ち前の大阪弁で明るく人なつっこい人柄が見えます。同期の桜緋紗子は宝塚音楽学校の入学試験の時、千村さんが声をかけて緊張をほぐしてくれたと書いています5)

本旨と少し離れますが、千村さんについてファンがその人柄について書いた文章があるので、あまり出回っているものでもなく、長いのですが引用したいと思います。

「千村克子の断面」
郷 武子

ちっともお化粧せんで地味なべべ、東京へ行こうがロンドンへ行こうが我が大阪弁で押し通し、三つ子の前でも先生の前でも臆せず「うちのお母ちゃんがなぁ」派手な環境にあって、これだけ飾り気なく平気でいられるのがエライと思う。
それに勉強熱心で真面目で正直な態度は要領の良いずるがしこい人(良い意味での)から見れば、およそ滑稽なものだろうと思う。
「記事掲載で学校から歌劇雑誌くれはるいうこと分かっててもウチは出たら直き自分で買いに行く」
「誰かに見せてもらえばいいのに」
「それがなあ、誰かて早よ読みたいやろ、それにせっかく一生懸命読んでるのに、一寸借してぇと、ハタからヒッパラレたら誰かてシャクやろ? そんで」
人に迷惑及ぼすこと等は非常に良く心得ている人です。
そして彼女は毎日の登校にはたいていの場合、余分なお金などお母ちゃんからもらってきません。「今日な、うちアレ買おう思てんけどお母ちゃんにお金もろてくるの忘れた」と澄ましている。「今度楽譜入れるカバンお母ちゃんと阪急へ行って買うてもろてん」「もう一寸したらお人形の箱買うたげる、お母ちゃん言うたからうれしーい」と言う具合にお月給取っていてそのお金を自分で差配するような気配がミジンもない所、誠にもって無邪気の権化とでも言いたいです(金銭問題を云々して御免)。
失礼ながら「アホかいなあ」と思われても仕方のないような素直さを持って人の言うことは何でもフンフンと聞くが、さてと言ったら自分の思った通りしかしない人。即ち従順にして頑固。
間違った意見をされても人に逆らわんでもいいが人の言うことを聞かんでもいい……とどこまでも穏便主義。とにかく表向きに人と喧嘩のできない円満な性質。負けるが勝ちが彼女の主旨である、それだけに競争意識に乏しく、舞台人としてすでにこれまでかなりの損をしている。
そしてまた一面あの通り家では甘ったれで無邪気なくせ思わぬところで渋い人間味にあってこちらがあわてます。
世の中には利口そうに見える馬鹿が多いのに、彼女の場合はおよそその反対の形にあると言っても過言ではあるまい、と思う。
(『阪神女子宝塚会会報』昭和11年11月号 P41より引用)

この文章を読むと、千村さんにはまだ子供のあどけなさが残っているように思います。これは日記の前年の寄稿であり、この約4ヵ月後に母は亡くなります。これだけ母親との結び付きが強かった人が死別する時、失った衝撃は計り知れないものと推察されます。まだ20代前半であり、その人間としての試練、苦しみがちょうど日記の時期と一致しています。母親が亡くなってしばらくしてヨーロッパ公演があり、この数年は千村さんにとって人間として大きく成長して、人格が形成されていった時期と言えます。日記の出来事一つ一つが千村さんのその後において影響していると考えられるのです。

最後に

園井さんの伝記を執筆する上で、たくさんの人たちと出会いました。そして資料においても多くの邂逅がありました。この『千村克子渡欧日記』もその忘れがたい思い出のひとつです。これを心にとどめておくのはもったいないと思い、このブログでも紹介しました。

日記を読み、多くはない資料ではありますが千村さんについて調べてみると、この人もまた不思議な運命を持った人なのではないかと感じました。戦争で犠牲になったタカラジェンヌは3名いるとされています。昭和20年3月10日の東京大空襲で亡くなった清美好子さん、昭和20年7月24日の三重県の津空襲で亡くなった糸井しだれさん、そして8月6日の広島の原爆で亡くなった園井恵子さん(命日は21日)です。千村さんはそのうちの糸井しだれさんと親友であり、園井恵子さんと同期です。ヨーロッパ公演で水晶の夜を目撃したことと合わせて、不思議な巡り合わせと思うのです。

千村さんについて調べれば調べるほど、その魅力が伝わってきます。人生の試練に苦しみながらも、一生懸命に生きていたことが感じられます。「お母ちゃん」に甘える無邪気な面がある一方で、ヨーロッパの見学先を描写をした文章からは知性的な方だったのではないかと推察できます。さぞ人間味豊かな方だったのだろうと思います。

このブログを通じて、千村さんの人生や日記に興味を持っていただければ幸いです。日記は多大な情報をもたらす反面、当人の人生に足を踏み入れる部分があります。日記の閲覧の際には、故人への感謝、プライバシーの尊重を忘れずに見ていただければと思います。

最後に、この記事においては今村欣史様に多くの資料を提供していただき、多大なご助力をいただきました。心より御礼申し上げます。ありがとうございました。

親友・糸井しだれさん(右)と船上ゴルフを楽しむ千村克子さん(左)。お気に入りだったらしく、船での移動中には毎日(時には1日複数回)船上ゴルフを楽しんでいる(『渡欧記念アルバム』より)

昭和13年12月6日ボローニャ駅にて歓迎を受ける。正面を向いて笑顔の千村克子さん。右の花束を持って真横を向いているのが糸井しだれさん(同上)。

引用・参考文献

1)『日独伊親善芸術使節団 渡欧記念アルバム』宝塚少女歌劇団.1939年
2)『対談会 東京・大阪』千村克子、大空ひろみ(『歌劇』昭和11年7月号)
3)『「脇役」に栄光あれ・宝塚雪組の巻』古賀寧(『東宝』昭和16年4月号)
4)『千村克子』出石アカル(月刊『KoBecco』2010年1~4月号)
5)『愚女一心』小笠原英法.白川書院.1971.P42-45
6)『阪神女子宝塚会会報』昭和11年11月号 P41
7)『水晶の夜 タカラヅカ』岩淵達治.青土社.2004

2 件のコメント

  • 丁寧な記述に敬意を表します。
    このように詳しく書いていただいて、わたしもうれしいです。
    マイクロフィルムでしか見せてもらえないのですか。それは知りませんでした。

    あの日記帳を寄贈するときに、コピーを取って頂き、それを一部わたしに戴くという条件を提案しました。
    すると、写真撮影をして、それを印刷物にして提供してくださいました。
    段ボール箱にいっぱい。
    ああいう資料を撮影する専門家が撮ったようでした。

    • コメントありがとうございます。また、この度は資料の提供ありがとうございました。
      池田文庫で資料について申し出た時、マイクロフィルムでの閲覧を案内されました。もし、原本がどうしても見たいと申し出れば見せてもらえたかもしれません。
      原本は貴重なのでマイクロフィルムにしたのは保管のために妥当な措置だと思います。ただ、検索システムにもこの日記は登録されていないので、世間の人はこの存在を知る手段が何もありません。軽々しく見るものではないかもしれませんが、貴重な資料は広く世の中の人に知られても良いと思うので、その点は池田文庫としても周知のための何らかのアクションをしてほしいように思います。
      そのような意味でもこのブログが役に立てば幸いです。

  • コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

    CAPTCHA


    ABOUTこの記事をかいた人

    思索にふけるのが好きな無名の作家・ブロガーです。職業は理学療法士、整体師。特技はオセロ(五段の実力)です。将棋、競馬など勝負ごとやゲームも好きですが、最近はブログが忙しくてあまり手を付けられていません。ブログに興味を持っていただいた方は、更新情報もつぶやくので、Twitterのフォローをお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。