自分の中の小さな作家の育て方

人は何をもって作家と言うのでしょうか。
どのような方法を用いれば、作家という存在になれるでしょうか。
また、作家とはどのような人間を示すのでしょうか。

世の中には多くの作家の諸先輩方がいて、私がそれを論じるには多少荷が重いかもしれません。けれども、中学生で手塚治虫を読んで漫画家に憧れるも絵が上達せずに諦めて、シナリオに活路を見出して10年近く新人賞に投稿するも芽が出ずに、そして、初めての企画出版まで取材開始から12年もの時間を費やした私は、「誰よりも作家という存在を渇望してきた」くらいは言えると思うのです。中学生で表現者を夢見て、最初の出版(企画出版)まで30年以上かかっています。才能に恵まれたとはとても言えないでしょう。

この30年の間に積み重ねられたのは、作家とは何か、表現とは何か、才能とは何か、という疑問であり、その答えがおぼろげながら自分の中で答えが出てきてから、それらの存在が少し微笑みかけてくれるようになったように思います。

どのような道にしても、公平に門戸が開かれていることは多くありません。世の中には生まれつき運動が得意な人、頭が良い人、容姿が美しい人、経済的に恵まれている人など様々な才能に恵まれた人がいて、文章や執筆にしても、学生時代に早々にデビューして作家生活に入られる方もいます。
そのような人はそれで良いのだと思います。しかし、そのようなきらめくような才能がない人でも、文章や執筆を介して人生をより豊かなものにできるのではないかと私は考えています。

私は初めての商業出版には30年かかりましたが、次の出版にはあまり時間は要さないと思います。それは掴んだ感覚やそこに至るまでに得た経験があるからで、2冊目、3冊目の出版はすでに実現可能な目標とはっきり認識しています。

ここでは、作家という存在、才能、行き着くまでに必要な素養、執筆を介してより豊かな人生を歩む方法などについて、30年の年月の中で気付いた自分なりの考えを述べたいと思います。

作家の条件

必ずしも「売れる=作家」とも言えない

そもそも、作家に必要な資格はありません。
その人が作家を名乗れば、その人は「作家」であるとよく言われます。
生計を立てられるか、という点を重視する考え方もあると思いますが、収益を上げるのには単純に作品の質とは一致しない部分もあります。
マーケティングの話になりますが、書籍が売れるかという問題にはそもそもの読者層の厚さが関わります。

例えば、私はスマホのアプリで将棋を指すのを楽しみにしているのですが、初心者で段どころか級位もない棋力です。
私のような初心者相手の書籍の場合、まず「①将棋に興味を持っている」「②ルールを知っている」「③まだ初心者である」人が対象になります。その中で、さらに「④向上に意欲を持っている」「⑤書籍という方法を選ぶ」、なおかつ「⑥わざわざ自分の本を選んでくれる」人が初めて読者になります。いくら書籍としての完成度が高くても⑤までですでに日本中の多くの人が対象外になります。

企画出版で印税の相場は5~10%と言われています。1500円の本で10%の印税だったとしても、1冊150円ほどです。
ちなみにノンフィクションでは3万部売れればベストセラーと言われています(「文藝春秋がノンフィクション作品に拘る真意」東洋経済ONLINE 2023.4.29閲覧)。
本一冊の執筆にかかる手間を考えると、作家業で生計を立てることがいかに難しいか、感じられるのではないでしょうか?

専業作家であることは、それだけ多くの人から必要とされる本を執筆し続けているということで、それは素晴らしいことですが、兼業でも作家として素晴らしい作品を生み出している方はたくさんいます。

作家の定義

それでは作家の条件とは何でしょうか? 前に述べたように定義があるものではなく、本人が名乗ればそれは作家と言えるのですが、文法を全く無視した内容のない文章を書いて、それで作家と名乗っても、世の中のほとんどの人は認めないと思いますし、このブログを読んでいる方もそのような「作家」を望んでいるわけではないでしょう。世の中に認められる「作家の定義」を自分なりに考えると次のように言えるのではないかと思いました。

①その本人の持つ創作性により新たな価値を持つ作品を作ることができる
②その作品がある程度の人々の支持を得る
③そのような作品を複数生み出すことができる

① その本人の持つ創作性により新たな価値を持つ作品を作ることができる

小説だけでなく、ノンフィクションにしても実用書にしても、その人の個性が反映されるものです。その人の物の見方や思想が世の中やその出来事に新たな視点を生み出し、それが切り口となって作品が生まれます。
逆に全く個性が反映されていない作品をいくら生み出しても、その人は作家とは言えないでしょう。
例えば、社史や家系などを調べて執筆したとしても、純粋な記録の羅列であれば、それをいくら執筆したとしても世間的には作家と呼ばれないでしょうし、翻訳の分野でも「作家」とは呼ばれずに「翻訳家」と呼ばれます。
厳密には、社史、家系、翻訳でも、その人の個性が全く反映されないわけではありません。社史や家系でも収集する記録の取捨や編集作業でその人の個性は出ますし、翻訳家の文章は作品の質を大きく左右します。しかし、その程度の個性の反映では、世間の感覚では作家とは呼ばないということだと思います。
実用書でも知識を紹介するだけのものと、その人の思想や考え方を大きく反映させたもので、受け取られ方が違うようです。

② その作品がある程度の支持を得る

その作品がある程度の人々の支持を得るかも、作家の要素と言えるかもしれません。売り上げと作品の質は比例はしませんが、誰からも必要とされないものを書いて作家と言えるかは疑問です。その比較的明快な基準が企画出版と言えます。ただし、企画出版は創作性がなくても収益があると見込まれれば実現するので、これだけではイコール作家とは言えないかもしれません。
また、自費出版であってもその価値を認めて、買い求める人が多くいるのであれば、作家と呼べると思います。

③ それを複数生み出すことができる

私個人の考えとして、多くの人は一冊であれば、何かしらの優れた書籍を生み出せると考えています。ただ、2冊、3冊と続けて本を出版しようとするほど難しくなっていきます。前述のクオリティを保ちつつ、それを行うことができる人は間違いなく作家と呼べるでしょう。

……そして、もうひとつ私なりに自分が作家だと言えるようになった明確な基準があります。それは「自分の作品の質を自分で判断できるようになったこと」です。以前の私は作品をコンクールに応募していましたが、自分の作品が良いのか悪いのかよく分からず、ライターズスクールの講師に事前によく見てもらっていました。
今は誰がどのような批評をしても、自分の作品はこれで良いのだとはっきり言えます。もちろん、編集者とのディスカッションの中で修正を加えることはありますが、自分の作品への信頼を他人からの意見で失うことはなくなりました。

作家の資質

それでは、前述したような作品を生み出すにはどのような能力が必要なのでしょうか。
もちろん、文章技法や構成力など多少の技術は必要なのですが、それは学んだり繰り返し実践することで自然に身につきます。それ以上に作家としてより根本的な大切なことがあります。
現在は情報通信が発達して、わざわざ本を購入しなくてもインターネットで手軽に多くの情報や知識が手に入ります。
人が本を購入する時に、そこから単なる知識や情報を得たいというケースは今後どんどん少なくなり、その作者からでしか得られない付加価値を体験したいからという動機が増えてくるでしょう。
いわば読者は本を介して、作者の経験や思想を共有したいと無意識に考えているわけです。
言い換えれば読者が感じる価値というのは、その人自身の感性や人間性、魅力ということです。

人が対価を払って手に入れるサービスとはどのようなものでしょうか。
自分が簡単にできるものや、事足りることにお金を払う人は多くないと思います。
人が道具を買うのはそれを買った方が便利であり、自分でその製品を作るより手間がかからないからです。サービスにお金を払うのは、自分一人では体験が難しい感情を手に入れるためであったり、自分では解決できない問題を代わりに解決してもらうためです。
書籍についても同様です。フィクションについてはそこから何かの感情を得たいから、ノンフィクションや実用書についても、インターネットや他の書籍から得られないその著者独自が提供できる知識や感情を手に入れたいからなのです。

もし、作家の定義を前述の①~③とすると、誰でも作家になれるかというと、それは難しいかもしれません。
特にフィクションについては理論通りにいかない部分も多く、確たる助言が難しい分野です。例えばYOSHIの『Deep Love』は携帯小説からスタートし、評論家からの酷評も多かったですが、10代の女性の多くの支持を得てベストセラーになりました。『リアル鬼ごっこ』は自費出版からのスタートで、文章としては体をなしていない未熟なものだったらしいですが、内容は編集者も認める斬新なもので、結果として大ヒットになりました。このように、フィクションのヒットは理屈通りにいかない部分も多く、助言が逆に長所を潰してしまう可能性もあり、先天的な感性や才能が影響する部分も大きいと感じています。
一方で、ノンフィクションについて言えば、少なくても多くの人が考えているような才能は、それほど要素として重要度が高くないと私は考えています。
人がうらやむような、きらめくような閃き、インスピレーション、発想がなくても作品を書けると考えています。少なくても執筆や取材を通じて、自分の人生をより豊かにすることは出来ると考えています。

作家として最も大切なこと

作家として最も大切なことが何か、と問われたら私は躊躇なくまず「書きたいものがあること」と答えます。当たり前のことに思われるかもしれませんが、意外にこれを見失っている人が多いように思います。作家という「職業」に憧れている人にも多い傾向です。
作家にとって何よりも恐ろしいことは「書きたいものがなくなること」であり「書く情熱を失うこと」です。「書きたい」という強い情熱を失わなければ、いつか必ず思いは結実(作品は完成)します。
逆に言えば、文章で収入を得ようとするのは、ひどく効率が悪く、単純に同じ額の収入を得ようとするだけなら、もっと楽に達成する方法がたくさんあるはずです。
教養としてのお金とアート」(クリックするとAmazonのページに移動します)という本の中で書かれていたことですが、どのようなアーティストでも、自分の表現したいものに取り組む部分と、生計のために取り組む部分の両方が存在すると考えられます。創作活動全体の中で、どちらがどのくらいの比率を占めるかは人それぞれでしょうが、よほど才能がある人以外は創作活動の中に生活するためという作業を入れているということです。
作家も同様で、兼業作家の場合は、生計のための創作活動の代わりに、別の仕事をしているというイメージだと思います。

あなたの個性が作品の武器になる

読者が無意識に本に求めているのは、著者の感性や人間性、魅力だと前述しました。
例えば、スポーツ選手の大スターや実業界で大きな足跡を残した人が、どのようなプロセスを歩み、どのような考えで練習や仕事に向き合っているのか、日々の生活はどうしているのか、というのは多くの人が興味を持つと思います。
しかし、そのような特別な人でなくても、人は一人一人個性を持っています。
他の人よりも優しく、気配りができる人もいます。気持ちが強くて勇敢な人もいます。高い知性を持った人もいます。

その特性が「書く」ことと上手く結びつくと、それがその人独自の武器になります。
優しく気配りができる人は取材においても他人から安心感を持たれるでしょう。そのような人柄から書かれる文章は人の心を癒すはずです。
気持ちが強く勇敢な人は、他の人では踏み込めない分野に深く切り込むことができるかもしれません。後世に名前を残すジャーナリストは不当な権力に屈服せずに、正義のために真実を報道して、世の中に是非を問います。そこまでできなくても、貧困、暴力、差別、若者問題など介入が難しい分野があります。そのようなテーマを扱う時、気持ちの強さは大きな武器になるでしょう。
高い知性を持った人は、既存に書かれたテーマでも新たな視点を見出すかもしれません。すでに書かれたものでも、切り口によっては新しい価値を生み出すことができます。例えば、歴史の分野では同じ出来事から多くの書籍が出版されています。それは新しい解釈であったり、新資料を元にしたものであったり、視点を変えたものであったり、介入の仕方は様々です。一見、事実だけを扱うように思える歴史でも、その人の視点によって多くの可能性を持っています。それを支えるひとつの大きな要素が知性と言えます。

人は自分では到底できないであろうことに畏敬の念を覚え、憧れ、時に関心を持ちます。書籍についても同様で、自分では得ることのできない知識や体験をそこに求めます。
そう言うと、とてつもなく高い能力や才能が必要な気がするかもしれませんが、私はそうではないと考えています。前述の優しさ、勇気、知性など誰もが持っているものを突き詰めて、他の人がやらないレベルまで積み重ねれば、誰かを感動させる作品を生み出せると思います。

小さな作家の育て方

作家が作品を作ることは登山に似ていると思います。スタート地点で途方もなく遠くにある頂上を見つめ、気が遠くなるような思いをし、それでも一歩を踏み出す。
途中で上を見ると、また気が遠くなることもあります。ひとつ山を登ったら、また次に大きな山があったなんてことも珍しくありません。
前述のように、それだけの思いをして書いた作品でもよほどのベストセラーにならない限り、多くの収益は望めません。私の場合も取材にかかった費用を考えると大赤字だと思います。
それでもなぜ書くかと問われれば、それは書きたいからに違いありません。長い時間をかけて作品が完成した時、製本された本を実際に手に持った時、読者からの感想をいただいた時、その言葉に表しがたい昂揚した気持ちは他では体験できません。その報酬は保障されていませんが、それでもきっと書くのだろうと思います。
何の見返りがなくても書かずにはいられない、それが作家の第一歩なのだと感じています。

今は多くの表現手段があります。得意は人それぞれで、社交的で誰とでもすぐに仲良くコミュニケーションがとれる人がいますし、動画が得意な人もいるでしょう。アートと呼ばれる分野でも音楽、絵画、彫刻、舞台、映像など様々な表現があります。それぞれの人がそれぞれの夢中になれる方法で人生や自分自身を表現していくことが大切なのではないかと思います。

もし、自分が文章を書くことが好きで好きでたまらないとしたら、何かどうしても書きたいテーマがあるとしたら、それだけで作家の入り口に立っていると言えます。そして幸運なことだと思います。最後まで書き切ることは決して簡単な道のりではありませんが、その作業は自分と向き合う連続であり、新たな自分を開拓し、多くの新しい自分の可能性を発見する旅路になるでしょう。
私の場合はひとつの書きたいテーマを追求し続けて完結させたことで、多くの素養が身につき、気が付くと新たな関心が生まれて、次の書きたい本に向かっていました。
自分が好きなもの、関心があるものを表現するために夢中に取り組む、それを繰り返し続けることで表現者としての素養が磨かれるのだと思います。

そのような道筋はアーティストだけでなく、様々な仕事、分野に当てはまるのでしょう。そのような道をひたむきに進み続ける人たちに祝福が待っていることをお祈りして、この記事を締めくくりたいと思います。

自分が執筆活動を続ける中で得た具体的な考えや経験については、今後も記事にしていきたいと思います。

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ABOUTこの記事をかいた人

兼業作家。2023年4月『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)上梓。歴史全般が興味の対象ですが、最近は大正~昭和の文化、芸術、演劇、映画、生活史を多く取材しています。プロフィール写真は愛貓です(♂ 2009年生まれ)。よろしければTwitterのフォローもお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。