文が人を表すのはなぜか

僕のように自ら進んでブログを書く人間には実感がわかないのですが、文章を書くことに苦手意識を持つ人は多いようです。

医療関係の仕事をしていると、カルテの記載など、いくつか書類作成の義務があります。他人の文章を読む機会も度々あるのですが、文は人を表す とよく感じます。

物事をよく考えて頭の中で整理している人は、文章もまとまっていてよく論旨が伝わってきます。誤字が多い人というのは、文章の見直しをしていないか、文字の使い方に無頓着と言えます。単純に知識がない場合もありますが、そのような人に几帳面な性格は多くありません。

言葉の選定ひとつをとってもその人の性格がよく出ます。難しい言葉をあえて使おうとする人と平易な言葉でわかりやすく伝えようとする人ではどちらが優秀か、すぐにお分かりいただけると思います。

なぜ、そのように性格が表れるのかと言えば、それは文章がコミュニケーションの要素を持っているからです。

人と話す時、多くの人は相手によって使う言葉や話す内容を選びます。子供が相手なら、子供がわかるような言葉を選び、仕事の同僚なら専門的な言葉も使います。

急いでいる相手なら要点を先に伝えることもしますし、雑談であれば面白おかしく伝えようと、順序を考えて話すこともあります。

それと同じように、文章においても相手のことを考えて伝えることが大切です。相手に応じて、丁寧に説明を加えることもあれば、簡潔にすることも考えます。

相手の既知の内容をくどくどと説明するのは、親切なようでそうではありません。実用性だけ考えるならば(小説などは別ですが)、可能な最小限の量で伝えるのが良い文章と言えます。

さて、そのような前提を踏まえた上で、文章の技術についてもいくつか簡単に話したいと思います。

伝えたい内容が樹木の幹(みき)だとします。盆栽や植木を伐採して形を整えるように、文章を整えることも大切です。不要な内容を付け過ぎてしまうと、幹が見えなくなります。そして、生け花や盆栽が必ずしも対称形でなく、変化をつけながら調和を保つように、文章も変化をつける方がきれいになります。下の文章を読んでみてください。

猫がいる。シマシマの色である。こちらを見ている。目が合った。あわてて逃げていった。僕は猫が嫌いである。なぜなら子供の頃に近所の野良猫に顔を引っ掻かれたからである。それ以来、僕は猫が嫌いである。だから、多分猫も僕のことが嫌いである。

この文章は言いたいことは伝わります。しかし、きれいな文章とは言えないでしょう。最初に短い文章と「である」という文末が続いていて、これが単調でリズム悪く聞こえるでしょう。このような使い方は「吾輩は猫である。まだ名前はない」(夏目漱石「我が輩は猫である」)のようにリズムが悪いことを逆手にとって、インパクトを与えたいなら有効ですが、これが繰り返されると読みにくさが出てきます。さらに同じような長さが続いていて、これも読みにくさを増しています。それでは下の文章を読んでみてください。

シマシマ模様の猫がこちらを見ている。目が合うとあわてて逃げていった。僕は猫が嫌いである。なぜなら子供の頃に近所の野良猫に顔を引っ掻かれたからで、それ以来嫌いになった。だから、多分猫も僕のことが嫌いである。

まとめられる文章をまとめてみました。文末も「いる」「いった」「である」「なった」「である」と同じものを並べないようにしています。さらに文章の長さもそれぞれ変化を出して抑揚を付けてみました。それでは次の文章を読んでみてください。

雨に濡れた服を着替えようと更衣室に入った。あわてて服を脱ぐ。脱いだ服はたたんで持ってきた紙袋に入れた。

この場合は「服」という同じ言葉が何回も使われているのが気になります。ちょっと書き直してみます。

雨に濡れた服を着替えようと更衣室に入った。あわてて着替える。脱いだ服はたたんで持ってきた紙袋に入れた。

真ん中の文章を少し変えただけでだいぶ印象が変わると思います。しかし、最初の文と次の文で「着替え」という同じフレーズが続くので、可能ならここも表現を替えたいところです。

雨に濡れた服は嫌だから更衣室に入った。あわてて着替える。脱いだ服はたたんで持ってきた紙袋に入れた。

このように同じ用語の部分を、表現を変えるだけで重たい印象が変わります。日本語には同じ意味でも様々な言葉があります。このような時に類語辞典はとても便利です。また、ネットで「○○ 類語」と検索すると、類語のサイトが出てきます。

さて、文章の技術について少し触れましたが、他にもここでは書き切れない様々な作法があります。もちろん、正しい原稿用紙の使い方をすることや、誤字や間違った用語の使い方をしないということが前提です。

どのような文章作法や技術にしても、その根底には相手がどのように感じるのかという、相手目線の考え方があります。会話と同じく、相手のことを考える心配りがそこに表れます。文が人を表すというのは、そのあたりにも理由があるのです。

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兼業作家。2023年4月『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)上梓。歴史全般が興味の対象ですが、最近は大正~昭和の文化、芸術、演劇、映画、生活史を多く取材しています。プロフィール写真は愛貓です(♂ 2009年生まれ)。よろしければTwitterのフォローもお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。