目黒の長い坂【2023年移動演劇桜隊追悼会記】

その日は雲こそいくらか見えるものの、日差しは盛夏そのもので、歩く度に汗がにじんだ。JR目黒駅から坂を何回か上り下りする道は暑いに決まっているのだが、点在する神社仏閣の恩恵か、緑の日陰がさりげなく歩く者に手を差し伸べてくれる。

8月6日はやはり晴れがふさわしい。

駅から徒歩10分余りの天恩山五百羅漢寺では、毎年8月6日に移動演劇桜隊の法要と追悼会が行われる。「桜隊」とは太平洋戦争末期に存在した移動劇団で、国策により広島周囲の農村や軍需施設の慰問を行っていた中、広島の原爆に遭遇。滞在していた劇団員9人が全滅した。桜隊の前身「苦楽座」の発起人で同人でもあった徳川夢声が戦後に寺に相談して、以来、毎年法要が行われている。

被爆当時の桜隊は「新劇の団十郎」と称された丸山定夫が隊長で、園井恵子、仲みどり、森下彰子、羽原京子、島木つや子、高山象三、小室喜代、笠絅子たちが帯同していた。

園井恵子は宝塚歌劇団出身で、映画『無法松の一生』では阪東妻三郎の相手役を演じて全国に名前を知られたスターだった。丸山定夫の相手を務める女優が欲しかった桜隊としては、園井恵子はなくてはならない存在だったが、彼女自身は過酷な移動演劇から離れたい気持ちもあり、直前まで撮影所で仕事を探すなど他の道を模索していた。しかし悲劇の悪魔の爪は園井にしっかりと食い込み、広島で他の隊員たちと運命に殉じることになる。皮肉にも原爆投下日は園井の32歳の誕生日であった。

今年は園井恵子の生誕110周年であり、法要後に行われる桜隊の追悼会も彼女に焦点を当てたものになった。4月に園井の評伝『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』を上梓した縁もあり、光栄にも講演の依頼を受けた。

〈園井恵子 『宝塚グラフ』昭和12年8月15日号より〉

急勾配の坂が続く五百羅漢寺への道は、桜隊や園井恵子への旅にふさわしく思われた。園井恵子には緑がよく似合う。そして細い道がよく似合う。幼少時代を過ごした岩手川口駅前の道、小樽の女学校への通学路、宝塚の花のみち、巡演先の鳥取岩美町の田舎道、どの道も決して広くはない。その静かな小道を一人で歩くのが、北原白秋やハイネを少女時代から愛読し、思索好きの園井にはよく似合うように思われた。

移動演劇桜隊平和祈念会との最初の接点は2013年、当時はまだ「移動演劇桜隊原爆忌の会」という名前だった。原爆忌の会がかつて『草の花』という小冊子を発行していて、そのある号に河崎なつ氏の「人としての園井さん」という原稿が掲載されているのを聞きつけ、それを分けてくれないか頼んだのがきっかけだった。

対応してくれたのが、当時事務局長だった近野十志夫さんで、『草の花』は残っていないけど、PDFで良ければと、どこの誰かも分からない人間にデータを分けてくれた。この資料は亡くなる直前の園井さんがどのように過ごしていたか、その一端を知るための貴重なもので、この存在がなければ、晩年の園井さんの人間像は一部欠けたものになっていた。この時から近野さんには頭が上がらない。

そもそも、僕はずっと著作もなく無名の存在だったが、その人間に手を差し伸べてくれる人たちがずいぶんといた。

駅からの道途を終えて、五百羅漢寺の正門前にたどりついた。門をくぐり階段を上がると右手に常盤貴子さんが「あそこ、意外に美味しいの」と不思議な賞賛をした、らかん亭・らかん茶屋があり、さらに階段を上がりきると左手にホールや聖宝殿を備えた建物の入り口がある。

案内に従ってそこから入っていくと、名札を付けた男性のスタッフが待っていた。

僕は人見知りなので、直前まで誰にも気付かれずに会場に潜んでいようと考えていた。男性のスタッフに礼をして素早く横を通り抜けて会場に入ろうとすると、ちょうど黒地のノースリーブに白く花が象られたスカートを履いた御婦人が早足にやって来て、僕に気付いて足を止めた。

キッと僕を見ると「八時からの法要に参加ですか!」「追悼会に参加されますか!」と歯切れよく次々に質問が飛んでくる。名札には「青田いずみ」と書かれている。こちらはなんてごまかしたものか、「ああ」「ええ」と煮え切らない返事をしていたが、「ご連絡いただきましたか!」「お名前は!」と追い詰める質問が次々に繰り出され、とうとう観念して名前を白状した。

「ああ、そうでしたか。これはこれは遠いところをありがとうございます。ホホホ。こちらにどうぞ」

青田さんは現在、平和祈念会の事務局長を務めている。小柄で細身だが歯切れの良い言葉が次々に出てくる人で、たぶん醜悪な老女など演じたら抜群に上手いと思う(これは褒め言葉である)。逆に現在はこういう女優が少なくなってきたのではないか。園井恵子さんが最初に演じた大役『ライラック・タイム』の門番女房なんかピッタリだろうなんて考えながら、奥のホールに案内された。

そこでは設営の準備が行われていて、痩身の七十代ほどの男性がゆっくりと段ボールから機材を出していた。青田さんが「近野さん、千和さんがいらっしゃいましたよ!」と声をかけるが、近野さんは不思議そうな顔をしている。「千和さんです!」と繰り返し言って「ああ」とようやく頷いた。青田さんは「近野さん、千和さんを色々と案内してくださいますか! ええ! よろしくお願いします!」と頼むと、忙しそうにどこかに消えて行ってしまった。

〈平和祈念会事務局長の青田いずみさん。講演では青田さんの機転で雰囲気がなごやかなものに〉

残された近野さんはポツリと「初めて会うんだもんね。それに千和さんってどうしても聞き慣れなくてね」と言った。

そう、近野さんと知り合ったのは10年ほど前で、その間電話をしたことはあるが、直接会ったことは一度もなかった。自分は平和祈念会のリーフレットなどで近野さんの顔を何度も見ていたが、近野さんは私の顔も知らなかったのだろう。最近でこそ「千和」というペンネームを名乗っているが、旧知の方は本名で接していた時間が長く、ピンと来なかったに違いない。

数年前に病気を患った近野さんはゆっくりと歩く。羅漢像の前、原爆殉難碑の前を歩きながら、「徳川夢声が頼んだ時は尼さんの寺ですっかり荒れていたらしいよ。でもそこにいた人材はすごい人が並んでいたらしいけどね」なんてエピソードを話してもらいながら歩いた。境内は静かで時間が止まっているようだった。

八時になると本堂に案内されて、五百羅漢寺代表理事の日髙秀敏氏の挨拶の後、読経が行われた。手を合わせて目を閉じていると、胸にこみ上げるものがあり、理由もなく涙があふれそうになった。園井恵子のゆかりの地を色々と歩いたのに、この五百羅漢寺には足を運んだことがなかった。ひとつの区切りのような気がした。

殉難碑の前で焼香が終わり、会場に戻ろうとすると呼び止められた。本を出版してくれた国書刊行会の神内編集者である。背が高いけど腰はすこぶる低いこの編集者は宝塚歌劇のファンで、戦前は詳しいけど現代宝塚には疎いという、すっかり歪んだ宝塚観を持っている僕にいつも色々と教えてくれる。

国書刊行会という出版社は大手ではないかもしれないが本の質には妥協しないでくれる会社で、ページを使う年譜の掲載や美しい装丁など素晴らしい本を作ってくれた。値段が高くなってしまったのは読者の方に申し訳ないけど、資料としても後世に残したいという希望は十分に叶ったと考えている。

会場で本を置いてくれると決まった時、提示された冊数に対して近野さんは「残った部分はこちらで全部買い取る」と言ってくれた。それを聞いた神内氏は「待ってください、それならもっと持っていきますから」と、腰は低くても編集者魂をしっかり持ち合わせている男なのであった。

法要が終わり、追悼会の始まりまでは1時間以上時間が空いていた。神内氏は近野さんと本の取り扱いなどについて話している。

僕は会場に来る旧知の方々に挨拶していた。この日、元タカラジェンヌの来場者も多かったように思う。「○○先生にまず挨拶しなくちゃ」なんて聞こえてくるのはまずタカラジェンヌである。

私の近くには流けい子先生(48期。宝塚時代は八千代環。小夜福子様のお嫁様)、奈加靖子さん(72期生。宝塚時代は宗田靖子。アイルランド音楽、アイリッシュハープが専門)、その時は気付かなかったが後方には草の芽もゆさん(70期生。園井恵子ブロンズ像のモデルになった生徒)、会場内には早花まこさん(88期生。作家)もいて、自分が気付かなかった人たちも多かっただろう。

奈加さんが流先生に挨拶する様子などを見ると、宝塚の良い伝統がしっかり息づいているのだと感じる。縦社会を嫌う人も多く、もちろん悪い点もあるのだろうけど、園井恵子が語り継がれた要因には当時を一緒に生きた仲間たちだけでなく、直接繋がりがない下級生たちの尽力が大きい。先輩を敬愛する姿勢は宝塚から学ばなくてはいけない。

宝塚関係者以外でも、「園井恵子を語り継ぐ会」の会長・柴田和子さん、同会の事務局担当で園井恵子が少女期を過ごした岩手町の町長・佐々木光司さん、早稲田大学やドイツのトリア大学で大正時代の芸術文化を専門に研究活動をしている山梨牧子先生などが近くにいた。僕は挨拶することができなかったが、映画監督で女優の杉野希妃さんもいたそうだ。

他にも様々な分野の方が来ていたのだろう。

この日、演者のうち五百羅漢寺の日髙理事と音楽を担当していたTAKAHIROさんは直接接する機会がなかったが、常盤貴子さん、美郷真也さん、渓なつきさんとは少しだがお話しする機会に恵まれた。

ひとつ言えるのは僕も含めて常盤さん、美郷さん、渓さんともとても緊張していたということだ。僕が緊張していると話すと常盤さんは「緊張しますよね、私なんか話を聞くだけなのに緊張するんだから」、美郷さんは「大劇場で何回公演していても、場所が違えば雰囲気も違う。緊張しますよー」と話していた。大舞台でずっと活躍してきた人たちなのにそれでも緊張するのだと、ちょっと内面を覗けたような気がして嬉しかった。

常盤貴子さんは「私と園井さんは似てるかも。私もテレビの世界にいれば良かったかもしれないけど、でも、やらずにはいられなかったもんね」と話す。

講演の依頼を受けてから常盤さんの著書(『まばたきのおもひで』講談社)を読んだ。僕は常盤さんに「これ、本当に常盤さんが書いたんですか?」と聞いた。隣で聞いていた神内氏から「ずいぶんと大胆に聞きましたよね」と言われたのだけど、僕なりの最大の賞賛で、常盤さんは「もう、返金したいくらいです」と言っていたけど、特に表現に携わる人には心に響くのではないだろうか。これを読んで常盤さんの会場での所作を見ると今の生き方が少し分かるような気がする。たくさん引用できる部分があるのだが「おわりに」から ――

自分が面白いと思うものを、きちんと選んでいれば、見ている人たちにもそれは伝わり、同じように楽しんでくれるのではないか。

作品選びでも直感を信じ、自分の心に正直に選ぶようになった。すると一作一作を大切にするようになり、出会う人たちが変わり、出会った人たちとの関わり方も変化し、時間の使い方も変わった。

常盤さんが思い出深く話すのが大林宣彦監督だ。古い映画ファンは『転校生』『時をかける少女』『さびしんぼう』の尾道三部作をよく覚えているだろう。2020年に亡くなったが最後まで現役の映画監督であり続けた。

その大林監督が晩年よく話していたのが「映画」と「戦争」だった。

大林監督の遺作『海辺の映画館 キネマの玉手箱』(2020年)で、常盤さんは撮影ずっと以前から「園井さん役は貴ちゃんでいくからね」と、監督から園井恵子役を打診されていた。桜隊のことを撮りたいと言い続けていたのだという。

「監督は型通りになることが嫌いで、今までやって来たことが突然全部ガラリと変わることもよくあった。私たちも負けないように裏でよく稽古したけどね」。

大林組の話をする時の常盤さんはどこか楽しそうだった。その経験が今も血肉となって生きているのだろう。過去を無碍にするのではなく、ギュッと心で噛みしめながらも、自分を信じて今を思いっきり生きる、そのような生き方が常盤さんの所作や言葉からは伝わってくる。

常盤さんは8月6日、上下紺の出で立ちだったが、追悼会が始まるまでは上着はなく白いシャツのみだった。遠くから会場を軽やかに動き回る姿を見ると、失礼ながらなんだかシャツとモンペに見えないこともなくて、きっと移動演劇中の園井恵子はこんな姿だったのだろうと想像した。

平和祈念会に所属する若い女優たちに囲まれて生き生きと話す常盤さんを見て、桜隊の園井恵子はこんな感じではなかったのか、平和祈念会の若い女優たちと同じ目で森下彰子、羽原京子、島木つや子は園井恵子を見つめていたのではないかと思った。

平和祈念会・椎名友樹氏の司会のもと、山崎勢津子会長の挨拶で追悼会は開会となった。会長の桜隊についての概説は、はじめて足を運ぶ人たちにとって導入としてかなりの助けになっただろう。

続いて常盤さんの壇上での挨拶から第一部が始まった。

園井恵子が出演した映画『無法松の一生』のフィルムは、軍部とGHQの命令でそれぞれ一部をカットされた。常盤さんはそれを絵画に例えて、誰かが完成した絵にベシャッと勝手に塗りつぶしたようなものと比喩し、桜隊と演劇の関係とともに、自分はこれまで生きてきた映画という分野からも戦争と表現について考えていきたいと結んだ。それは大林監督の遺志そのものでなかったか。

常盤さんと五百羅漢寺代表理事・日髙秀敏氏の対談は、寺内の原爆殉難碑の建立の経緯について深く見つめ直すものだった。幕府の援助を受けた隆盛、災害や移転の末の衰退、安藤妙照尼の登場など、五百羅漢寺の由緒から話が進められ、その起伏ある歴史は一人の人間の人生のようであった。様々な人間関係が結び付き、徳川夢声はこの五百羅漢寺に桜隊の供養について相談する。

僕も著書の刊行まで多くの奇縁に支えられただけに、人間の繋がりや運命の不思議さについてあらためて感じさせられた。

〈追悼会第一部 常盤貴子さんと日髙秀敏氏の対談〉移動演劇桜隊平和祈念会ホームページより

美郷真也さんと渓なつきさんはともに宝塚歌劇団出身で、渓さんは宝塚退団後、劇団四季にも所属していた。

今回披露された音楽朗読劇は6月10日に成美教育文化会館グリーンホールでも上演されて、二人はその前に岩手町を訪れて、ブロンズ像と対面して園井恵子資料室にも足を運んでいる。案内した「園井恵子を語り継ぐ会」柴田和子会長がその時の様子を次のように教えてくれた。

園井さんのブロンズ像に案内したのだけれど、あの二人、銅像の前に進んだと思ったら並んで深々とお辞儀をしてね。その振る舞いがなんとも美しくて、園井さんもきっと喜んでいたと思うわ。

二人は園井恵子像をどのように感じていたのだろうか。

美郷真也さん:
園井さんのブロンズ像にお会いした瞬間に胸がいっぱいになり、涙が溢れてきました。そのお姿は、決して大きくないけれど、岩手山を背に、清く正しく美しく。凛と前を向いて、心はそこに清々しく強く、生きていらっしゃいました。

渓なつきさん:
お写真だけで見ていたブロンズ像は思ってた以上に小さくて、でもその小さなブロンズ像は岩手山を背に凛としたエネルギーに満ちていました。何故か、涙が溢れてきましたよ……
(いずれも本人Instagramより)

〈園井恵子ブロンズ像 岩手県岩手町〉

美郷さんは組長(宙組2005-2008)でありながら、下級生が愛称(マリエッタ)を呼び捨てにしていたという逸話を持っていて、その懐の広い美郷さんが仲良く過ごしているということで、渓なつきさんの人柄も想像ができた。渓さんは「おひさまプロジェクト」という活動の一環で、高齢者施設や障がい者施設でのコンサート、読み聞かせと歌を融合させた親子向けコンサートも行っている。

追悼会終了後、この二人を目の前にした僕は神内氏に会わせようと思った。6月の成美教育文化会館グリーンホールのコンサートでも神内氏は本の販売を行っていた。

二人は「そう、あの時本を売ってくれてたよね。お話もできなくて」と覚えていた。気さくに応じてくれて、宝塚ファンの神内氏は照れつつも嬉しそうだった。

「よくあんなフランクにしゃべれますね。組長ですよ、偉い人なんですよ」。

美郷さんと渓さんの人柄がとても良いと知っていたからのコミュニケーションなのだが、そんなことを言いつつも神内氏、二人に名刺を渡す時に手が震えていたのだが、実はこの日、一番手の震えが強かったのは早花まこさんだったことを付け加えておく。ああ、秘密にするつもりだったのに書いてしまった。

音楽朗読劇『宝塚歌劇団・園井恵子 あの日の空』はもちろん悲しい話なのだけど、二人の歌声は明るく、場を一瞬で華やいだものにした。渓さんの歌声はCDで聞いていたけど、美郷さんの歌声は初めてで、こんなに上手に歌う人だったのだと知った。つい悲愴に想像してしまう園井さんの人生だけれど、本当の気持ちは当時生きていた園井さんにしかわからない。「意外と明るく前向きだったのかもしれない」と思わせてくれる劇だった。何より楽しい気分にさせてくれた。

お二人の音楽朗読劇が終わり、会場は大きな拍手で包まれた。拍手を続けていればアンコールしてくれるかもしれないと、会場の一部は思っていたに違いない。そのくらい拍手は続いていた。

〈追悼会第二部 音楽朗読劇『宝塚歌劇団・園井恵子 あの日の空』左から美郷真也さん、渓なつきさん、TAKAHIROさん〉移動演劇桜隊平和祈念会ホームページより
〈余談ですが、最後の記念撮影で美郷さんと中央の譲り合い。笑顔に美郷さんのお人柄が出ていませんか?〉

楽しい気分になったけど僕の内面は複雑だった。朝から壇上に上がる緊張と、本堂の読経でこみ上げてきた感情と、歌で高揚した楽しい気分とで、その感情はずいぶんと色々なものをごちゃ混ぜにして、もはや何が何だか分からない様相を呈していた。

舞台転換は司会者の演台を中央に移すだけ。ほとんど時間はない。進行としては、これまで予定よりも時間が遅れているらしく、一刻も早く開始してほしそうだった。

覚悟を決めて立ち上がり、常盤さん、美郷さん、渓さんという歴戦の強者すら緊張するという舞台に、よろけながら向かった。

講演の依頼を受けた時、条件は20~25分で、園井さんの魅力や取材時のエピソードというだけで、内容のほとんどはこちらに任せてくれた。

講演に不慣れな僕はあらかじめ原稿の作成に取り掛かった。

それほど長くない時間に何を話せば良いのだろう? こんなこと話してもすでに知っているのではないか?

来場してくれた人が園井さんに興味を持ってくれるためには何を話せば良いのだろう?

一ヵ月ほど前、山梨牧子先生と東京で会う機会があった。講演の話をすると「それは楽しみね。千和さんのまま、いつも通り話せば良いんですよ。それしか出来ないしね」とアドバイスをくれた。

素直に自分が園井さんについて思っていることを話すことにした。原爆で亡くなった悲劇の女優としてではなく、彼女が何を思い、何を感じて生きていたのか。そして、園井さんの人生は生前も死後も多くの人の愛情に包まれている。それを伝えられたらと思った。

作家の朝井まかてさんが著書『ボタニカ』の関連で、植物学者の牧野富太郎博士について講演した動画がYouTubeにアップされていて、それを参考に原稿を組み立てた。

壇上に上がり話し始めると、青田さんが舞台の端で本を掲げてくれた。打ち合わせも何もなく、機転を効かせてくれたのだ。

観客が青田さんを一瞬見つめたことで、舞台も客席も動きが出て緊張が解けた。たどたどしかった言葉が自然と出るようになった。

講演は最初にいかに上手く話せるかがポイントで、気持ちが乗れば話にも力がこもる。

客席には熱心に話を聞いてくれている人が何人もいて、どこを見ても疎外感がなく、気持ち良く話すことができた。青田さんと客席のおかげで、気がつくと講演は結びの一言を終えていた。

本もたくさんの人が購入してくれて、サインをするのに慌てた僕は、途中まで8月6日と日付を書くべきところを6月8日と書いていたことに指摘で気がついた。他にも名前を間違えて書いてしまった人もいた。そうでなくてもイラストにも出来不出来があったり、最初のうちはまさか行列ができるなんて思わなくて誘導が不十分であったり、とにかく至らない点がたくさんあった。

しかし、それだけ不手際があったにも関わらず、多くの方が温かく声をかけてくれた。

遠く過ごしている家族の方用に2冊買ってくれた人もいた。SNSの画面を見せてもらうときれいな若い女性だった。園井さんに興味を持ってくれるのだろうか?

ブロマイドを持っていらした女性もいた。僕も持っていないブロマイドで、何の公演の写真だったのだろう? 園井恵子ファンは昔も今も熱い。ゆっくり見てみたかった。

来場者、関係者ともたくさんの人が本を手にしてくれた。

それぞれの園井さんへの思いをもっと聞きたかったし、言葉をかわすことができなかった人もたくさんいた。挨拶した方の中でも、丁寧に接することができなかった人たちもいて、失礼をしたと今さらながら思い起こされる。

〈僕よりずっとトークが上手いと思った木南様(左:丸山定夫の御親戚)と。僕の後ろにいる眼鏡の男性が神内編集者〉

園井恵子が亡くなった時、残された机の中からファンレターがたくさん出てきたという。彼女は取り繕うことが苦手で、感情をそのまま相手にぶつけるようなところはあった。反面、伝わってきた真心は心底大切にしていたのだと思う。今と違って、気楽にメールで返事なんてできない時代だったけれど、手紙に宿っていた思いを死ぬまで拠りどころにしていたのだと思う。

同じようには生きられなくても、その思いに共感することはできる。

帰り道を国書刊行会の神内氏と歩く。二人で歩くと同じ道のはずが少し違った顔を見せる。桜隊のメンバーと歩いた園井も同じ気持ちではなかったか。心ある人たちと繋がることで、辛いことも忘れて、一瞬でも充足した楽しい気持ちになれる。

目黒駅への帰り道は上り坂が続く。

大盛況だった今年の追悼会だが、継続するのは今後も高い障壁が続くだろう。法要が始まった当時、参加者は桜隊と接したことのある人たちばかりだった。それがこの30年ほど、平成から令和にかけてこの世から次々に去ってしまった。

体感としての戦前は急速に失われつつある。戦争も桜隊も直接知らない人たちばかりの中、その伝承はますます難しくなっていくだろう。

だが、同じ思いを持つ人たちが一緒に歩くことで、その困難な道も楽しい道になるかもしれない。この日、お話をした中で常盤さんは「普段から前向きに生きていることで思いもよらない繋がりが生まれる」と繰り返し話していた。

平和祈念会にはすでに若く清々しいエネルギーが満ち始めていて、それが多くの新しい軌跡を生み出すと信じている。そして、僕もその舞台にまた立てるように自分の道を真摯に進んでいきたいと思う。

〈演者一同で記念撮影〉
〈最後にスタッフと演者一同で記念写真〉

2 件のコメント

    • コメントありがとうございます。並びに読んでくださって重ねて御礼申し上げます。
      会場の雰囲気が伝わったならとても嬉しいです。

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    兼業作家。2023年4月『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)上梓。歴史全般が興味の対象ですが、最近は大正~昭和の文化、芸術、演劇、映画、生活史を多く取材しています。プロフィール写真は愛貓です(♂ 2009年生まれ)。よろしければTwitterのフォローもお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。