岩手町芸術祭2023 園井恵子生誕110周年記念公演

映画の制作発表が行われ、生涯を書いた本も出版され、所属した桜隊追悼会では特集が組まれて、今年は園井恵子への注目が例年以上に強かった一年のように思う。
園井恵子は元宝塚少女歌劇団出身で、戦前映画の名作『無法松の一生』では阪東妻三郎の相手役を務めて全国区のスターになった。しかし戦時下の移動演劇に身を投じて、32歳の若さで広島の原爆で亡くなっている。
その悲劇や彼女の人生は新藤兼人、井上ひさし、大林宣彦など多くの演劇人、映画人が取り上げた。

その園井恵子が生まれ育った土地が川口村(現岩手県岩手町)だった。岩手町(いわてまち)は県庁所在地の盛岡市からひとつ北の自治体で、1955年に沼宮内町、一方井村、川口村、御堂村が合併して誕生した。やまと豚、いわて春みどり(キャベツ)、いわてめんこい黒牛など、食物の優れた名産品がたくさんある地域で、B級グルメではいわてまち焼きうどんがある。

【岩手町キャベ塩焼きうどん(岩手町ホームページより)】

1993年、岩手県初の野外彫刻美術館として石神の丘美術館がいわて沼宮内駅北東に開館した。2019年にはアイルランドを相手国とする東京オリンピックのホストタウンに登録されて、アイルランドチームの合宿を引き受けるなど、文化、国際交流、スポーツにも力を入れている。

岩手町は南の盛岡と比べると知名度も観光資源も恵まれているとはいえず、そんな町の中で、注目を浴びる希少な存在が、園井恵子という一人の女優なのではないかと思う。

岩手町ではほぼ毎年、園井恵子に関する何らかのイベントを企画しているのだが、今年は生誕110周年ということもあり、毎年実施されている岩手町芸術祭に常盤貴子さんと森奈みはるさんを招いて『郷土の華 園井恵子 今、ふたたび!』というトークショー、歌唱、群読を含めた記念公演が企画された。

僕も今年、110周年の節目に園井の本を出版できたこともあり、6年ぶりに岩手に足を運ぶことにした。

11月12日(日)、盛岡から8時40分発のいわて沼宮内行きのIGR銀河鉄道に乗りこんだ。現在、盛岡から青森駅までの旧JR東北本線の路線のうち、盛岡-目時間がIGR銀河鉄道、目時-青森間が青い森鉄道という第3セクターの管轄となっている。
目指した先は岩手川口駅で、徒歩圏内に働く婦人の家という施設があり、その敷地内に園井のモニュメント的存在であるブロンズ像が建っている。

まずはそこで像に挨拶をしてというのが一日の始まりだった。
雨は降っていないが、薄曇りの快晴とは言えない日だった。夏場はきれいな花で囲まれる像の周辺も枯れ草が目立ち、どこか静かな空気だった。
近況の報告と御礼を言い、しばらく脇に座ってボンヤリ景色を眺めていた。いつまでもそこにいられる気持ちだった。

『園井恵子を語り継ぐ会』の柴田和子会長からこのブロンズ像のちょっとしたエピソードを聞いた。宝塚歌劇団のある生徒が新人公演で主役にしてほしいと願ったところ、新人公演の期限の7年目でそれが実現したという。その話が後の打ち上げで紹介されると、常盤貴子さんや元タカラジェンヌも含めた一同が「いいなぁ、行きたーい!」と声を上げた。
この時、そんなことは知る由もなかったのだが、ずいぶんと愚痴に近い希望を聞いてもらっていたから、ひそかに願いが叶うのではないかと期待している。

いわて沼宮内駅は岩手川口駅から北に一駅である。岩手町芸術祭の会場である岩手町スポーツ文化センター「森のアリーナ」へはそこからシャトルバスが出ている。
10年前の生誕100年祭もこの会場で行われた。歌劇団の演出家・岡田敬二氏が招かれ、流けい子先生、森奈みはるさん、久城彬さん、鳴海じゅんさんらが記念ステージを披露した。当時、復元したばかりの園井さんの『悲しき道化師』の16ミリフィルムの映像も山梨牧子先生の解説で特別公開された。

その時は8月で開場まで屋外で並んで待っていた記憶があったが、この日は屋内で待つことができた。10年前の自分はまだ園井さんの取材を始めたばかりで、一冊の本を書くという構想も持っていたかもよく覚えていない。外で並ぶ列にIBC岩手放送のクルーが取材していて、自分もそれに答えた。遠く名古屋から来ていたので驚かれたのを覚えている。

【岩手町スポーツ文化センター「森のアリーナ」(岩手町ホームページより)】

受付では「本を読みました」とスタッフから感想を聞かせてもらった。自分が書きたいと思っていたことを素直に受け取ってくれた感想だった。園井さんの取材を始めたのが岩手町、その時も素性もよく分からない自分に、地元の人々は時間を作って優しく声をかけてくれた。今も胸を温かくしてくれる。

芸術祭は第一部で地元・岩手町芸術文化協会に所属する団体の発表が行われ、コーラス、日本舞踊、吹奏楽部、ダンスもかなりの出来で、日々鍛錬を積んでいる様子が伝わってきた。
コーラスでは涙ぐみ(選曲がとても良かった!)、日本舞踊ではその動きの巧みさに感嘆し、吹奏楽は調和の見事さに心が高揚させられた。吹奏楽にはパーカッション奏者の板垣あや子さんも参加されていて、そのスティック捌きはひたすら格好良く、自然と拍手も大きくなっていった。プロは言葉を発しなくても、立ち振る舞いだけで語ることができるのだとあらためて感じた。

そして、創立40年というN.L40ダンサーズは全般的に高齢化が進んでいるというが、特に「語り継ぐ会」の柴田会長(後期高齢者)率いるコッキーズは70歳以上4人によるチームで、元タカラジェンヌたちがこれを見るために時間を調整したという。年齢を感じさせない若々しい動きで、盛大な拍手に包まれて第一部の幕が下ろされた。

第二部は『郷土の華 園井恵子 今、ふたたび!』というタイトルで、常盤貴子さん、森奈みはるさんのトークショー(聞き手:作家・斎藤純さん)、森奈さんの朗読、同じく地元コーラスをバックに歌唱、地元小学生の群読、柴田泰孝さんの歌唱などでぎっしり詰まった構成だった。

来賓席は吉崎憲治先生(宝塚歌劇団作曲家)、流けい子先生(歌劇団48期、八千代環)、草の芽もゆさん(70期)、奈加靖子さん(72期、宗田靖子)、美郷真也さん(74期)、青田いずみさん(移動演劇桜隊平和祈念会事務局)、佐藤成美さん(後述)、山本雄吾さん(名城大学経済学部教授)などが並び、すでに揃っている感があった。

常盤貴子さんと森奈みはるさんが招かれた理由は、二人がともに常盤さんが映画(『海辺の映画館 キネマの玉手箱』)、森奈さんが演劇(『紙屋町さくらホテル』)で園井恵子を演じたという縁であった。

森奈さんは常盤さんの長年のファンで、アンケートの「好きな女優」の欄には必ず常盤さんの名前を書いていたという。

「何かの映画で雪の中を走るシーンがあるんです。それがとても好きで、タイトルなんだっけ、えーと『北の国から』かな」と言ったところで常盤さんが「私、『北の国から』出てないし!」と突っ込んで、場内が大爆笑になった。

常盤さんは岩手県の印象を聞かれて、まず「花巻東高校」と答えた。西宮市出身常盤さんにとって、甲子園の野球大会は身近な楽しみで、甲子園球場近くの母校を「甲子園に一番近くて遠い高校と言われていた」と表現して、また場内を笑いに包み込んだ。

【森奈みはるさんと常盤貴子さん(森奈さんのInstagramから)】

常盤さんが園井恵子さんを語る上で、避けて通れないのが2020年に亡くなった大林宣彦監督だ。デビュー当時から出演したい映画監督の名前に大林監督と黒澤明監督の名前を挙げていた常盤さんは、ある時に大林監督と遭遇して、この機会を逃してはならないと駆け寄った。
「私、監督の大ファンなんです!」と告げた常盤さんに、大林監督はニコリとして「知っているよ」と答えた。記事をすでに見ていた監督は「いつか一緒に映画を撮ろうね」と若い常盤さんに言った。

その大林監督が晩年に撮りたいと言い続けていたのが「戦争」と「桜隊」だった。
監督は桜隊を撮る時は、常盤さんも一緒にと言っていた。常盤さんは桜隊の一員を演じることはあっても、まさか園井恵子さんとは思っていなかったという。

「園井さんは貴ちゃんで」と聞いてから、常盤さんは園井さんの資料をできる限り読み込んだ。当時、まとまった資料は松尾村(現八幡平市)が平成3年に編纂した『園井恵子・資料集』しかなかった。この書籍は一般販売されておらず、八幡平市の役所でしか取り扱っていない。情報を得て自ら問い合わせて、ようやく入手することができた。

常盤さんの中に大林監督の思い出は溢れるほどあるのだろう。その中からこの日は、ある言葉を紹介していた。「戦争を本当にそのまま描いたら、誰も怖くて見られない。でも、ピカソの『ゲルニカ』は一見、何を描いているのかわからない絵だけど、あれから子供でも何かを感じてくれる」。それを聞くと、一見不可解な構成の『海辺の映画館 キネマの玉手箱』もその意図がわかってくる。

常盤さんの凄さというのは、会う度に感じるのだが、その常盤さんにこれほどの影響を及ぼす大林監督というのは、どんなに大きな人物だったのだろうと思わずにはいられない。

トークショーが終わると、森奈みはるさんがドレスに衣装を替えて、園井恵子が過去に雑誌に寄稿した『ふるさと』という文章を朗読した。

森奈さんのトークをYouTubeで見ると、宝塚に詳しくない自分でも、情景を想像して笑ってしまう。いつも笑顔が絶えず、あっけらかんとした雰囲気なのだが、舞台に上がり、ドレスを着ると、今までの雰囲気と一変して宝塚の娘役になってしまう。

自分は再登場した時、「森奈さん?」と思った。「え、誰?」「別人かと思った」という感想は他の観客からも聞かれた。文字通りの”変身”だった。
園井さんの引退公演となった『ピノチオ』、その主題歌である「懐かしの丘」も歌われたが、そこにいたのはやはり宝塚の娘役で、退団して30年近く経っても、身体に刻み込まれた何かがあるのだろう。

この日は吉崎先生が作曲した「ふるさと永遠に」が歌手の柴田泰孝氏(「園井恵子を語り継ぐ会」柴田会長のご子息)によって初めて披露された。園井恵子さんの生誕110年を作られたこの曲は、「この愛よ永遠に~TAKARAZUKA FOREVER~」など名曲を生み出した吉崎先生らしい宝塚を自然と感じさせるものだった。

園井さんの後輩にあたる川口小学校児童たちが群読した『お帰りなさい園井さん』(阪田寛夫・作)は観客席にいた常盤貴子さんも眼を潤ませたという。

ラストは第二部のキャストが壇上に揃い、会場も含めて『すみれの花咲く頃』を歌い、フィナーレとなるはずだった。だが、僕も含めて、壇上、会場にいるほとんどの人間が『すみれの花咲く頃』は知っていても歌詞をほとんど知らず、壇上の森奈さんのリードに合わせて細々と歌うことしかできなかった。
このような時、だいたいは雰囲気に流されてそのまま歌が終わってしまうのだが、来賓席の中央にいた吉崎先生が静かに立ち上がり、朗々と歌い始めた。どこからかマイクが届けられ、隣の流けい子先生も一緒に歌い、スポットライトが当たった。大拍手の中、森奈さんの「吉崎先生、ありがとうございます!」で幕は下りた。
流先生「『すみれの花が咲く頃』が流れ始めて、吉崎先生はずっと大きな声で歌っていたんだけど、突然、立って歌おうって仰って……」
最近、たいへんな渦中にある宝塚歌劇団だが、確かにそこには何物にも動じない「宝塚愛」が存在していた。

この日も会場で販売スペースを設けてくれていて、「背は高いけどすこぶる腰の低い」国書刊行会の神内編集者が本を売ってくれていた。有り難いことにこの日も用意した8割ほどが売れたという。

関係者の打ち上げは「道の駅 石神の丘」内のレストランで行われた。

常盤さんの「歩いた後にはファンができる」というマジックはこの日も健在で、関心のなかった人はファンになり、もともとファンだった人は大ファンになる。初めて来たという岩手でもファンを次々に増やしていた。
道の駅の地産品のコーナーで、常盤さんは様々なものに興味を持ち、地元の人に熱心に質問していた。そして質問していたはずなのになぜか「常盤さんは頭がいい」と感心され、その人もファンになってしまっていた。道の駅の店員さんには握手して、去り際に「またね~」と手を振っていた。常盤さんと接した岩手町の職員は「岩手町に勤めていて良かった」と微笑んだ。

【打ち上げ開始前】

レストランでの会食は、いくつかのテーブルに分かれ、中央で宝塚関係の方々が卓を囲んでいた。吉崎先生、流けい子先生、森奈みはるさんの他、美郷真也さん、草の芽もゆさん、奈加靖子さん、柴田和子さん(「園井恵子を語り継ぐ会」会長)と並んでいた。

流先生のご主人はジャズシンガーの東郷輝久氏で、園井恵子が慕っていた先輩・小夜福子さんの息子である。夫婦で東京でコンサートをしていた時に楽屋に工藤剛嗣氏(園井の同級生で「園井恵子を顕彰する会」の会長)が訪れた。小夜さんはすでに亡くなられていて、生前に園井さんのことを語ることはなかった。そんな人と関わりがあるとは知らなかった夫婦は、以降、園井さんのために奔走することになる。岩手町の有志が園井恵子のブロンズ像を建立したいという話を聞くと、教え子(夫婦でジャズを教えていた)のタカラジェンヌたちに声をかけてチャリティコンサートを行った。一回ではブロンズ像制作に少し(予算が)足りないと聞くと、もう一回開催した。二千人収容の会場が満席になったという。

コンサートの参加者には大浦みずきさん(故人)もいた。大浦さんがトップスターだった頃にデビューした生徒たちが、この場に座っている。

美郷さんが「美郷真也です。いつも森奈みはるがお世話になっています」とユーモアを交えて挨拶した。二人は同期で、記念公演のトーク中、森奈さんが宝塚時代の思い出話中に「今日は同期も来ていて…… ね!」と、最前列に座っていた美郷さんに視線を投げかける場面もあった。
美郷さんは園井さんをテーマにした音楽朗読劇『宝塚歌劇団 園井恵子 あの日の空』を6月に成美文化教育会館(東久留米)、8月に五百羅漢寺の移動演劇桜隊追悼会の追悼会でも上演した。

草の芽さんはブロンズ像が制作される時、実際に袴の正装になって、モデルになった生徒である。ただ、「ブロンズ像のモデルです」と感嘆されるべきことを話しても、なぜか笑いが起こる不思議なジェンヌさんで、「今日のみはるのチャックは私が上げました」とすまして言うと、森奈さんが立ち上がり「ありがとうございます、先輩!」とまた笑いが起こった。僕は草の芽さんの”変身”をいつか見るのを渇望している一人である。

奈加さんはアイルランド音楽をライフワークにしていて、歌手であり、アイリッシュハープの演奏者でもある。2022年にアイルランド首相 Micheál Martinが来日した際にはレセプションで日本とアイルランド両国の国歌を斉唱した。前述の東京オリンピックでアイルランドと岩手町との繋がりができる中で、奈加さんとの縁もまた深まっていった。当初、岩手町の関係者は奈加さんが宝塚歌劇団の出身とは知らなかったという。
前日まで和歌山で舞台に上がっていて、この日は朝、新大阪から岩手町に駆けつける強行軍だった。後で「私、今回は演者でもないし、まあ(無礼しても)いいかなって思いもちょっとしたんだけど、やっぱり来て良かった」と笑顔で話していた。そして「ただ、コッキーズのダンスに間に合わなかったのが……」と義理堅い奈加さんらしい顔をした。
来賓席でも吉崎先生、流先生、そして奈加さんと自然に収まっていた。
その落ち着いた雰囲気は、知識がないと草の芽さんではなく、奈加さんを上級生と思わせてしまうだろう。

草の芽さんが「吉崎先生は本当に偉い方で、一緒のテーブルを囲むなんて、とても考えられないほど恐れ多いことで……」と話していたその直後に「先生~! 写真撮りましょう」とジェンヌたちは椅子を囲んでいた。吉崎先生はとても嬉しそうだった。

僕のテーブルは常盤貴子さん、柴田泰孝さん(歌手)、佐藤成美さん(音楽朗読劇『宝塚歌劇団 園井恵子 あの日の空』演出)、青田いずみさん、神内さん(編集者)、佐々木光司さん(岩手町町長)、久保郁子さん(岩手町芸術文化協会会長)が一緒だった。

テーブルに8月6日の桜隊平和祈念会の関係者が多かった多かった関係で、今後の活動についてなど、たくさん話を聞くことができた。
いろいろと話が出ると、常盤さんは丁寧に頷いて話を聞いているのだが、目は「難しいことを考えず、とりあえずやってみたら?」といつも語っている。そして、本当にやればできるような気持ちにさせられてしまう。
大林監督が常盤さんに多くの影響を与えたように、常盤さんもまた周囲に大きな影響を与え続けている。

岩手町は都心とは言い難い自治体で、新幹線駅(いわて沼宮内駅)はあるものの一日の乗降客が3桁に達せず、北海道に延伸するまでは東北新幹線内で最も利用客が少ない駅だったという。その岩手町に活況を呼び込みたいというのが、佐々木町長、園井恵子を語り継ぐ会の柴田会長たちの念願だった。
一方の移動演劇桜隊平和祈念会はメンバーの高齢化や運営費の捻出も難しくなってきたことから、一時は閉会の話も出てきて、それは現実の一歩手前まで進んでいた。それが常盤貴子さんとの巡り会いや若い演劇人との繋がりの中で、にわかに息を吹き返そうとしている。
ふたつの小さな光が、園井恵子さん、宝塚歌劇団、桜隊、アイルランドと様々な縁によってつながり、それは巨大な何かを生み出す気配がしている。木南麻浦さん(桜隊・丸山定夫の親戚で弁護士)が平和祈念会を「関わってから2年か3年くらいだけど、繭が年を追うごとに大きくなっていると思う。人や色々な点が集まって何かが確実に大きくなっている」と話していた。

話や挨拶が面白くて時間はあっという間に過ぎていった。テーブルに用意された食事は申し訳ないことにあまり手が付けられなかった。帰る段階になって、僕は周囲に知人が誰もいないと肩身が狭いだろうと隣に座ってもらった神内編集者と一言も話していないことに気付いたのだった。

【道の駅 石神の丘(岩手町ホームページより)】

帰り……僕はIGR銀河鉄道の濱戸さんの車に同乗させてもらい(この人の話がまた面白いので、またどこかで書く機会もあると思う)、盛岡駅前の某ホテルに到着した。同乗していた柴田泰孝さんなどがこのホテル宿泊で、僕だけ別のホテルだったのでそのまま送ってもらう予定だったのだが、別便で先に送迎していた佐々木町長と濱戸さんが何か心配そうに話している。

すでにここに到着してもいいはずの常盤さん、青田さん、佐藤さん、森奈さん、美郷さん、草の芽さんらのタクシーがまだ到着していなかった。電話すると途中、ローソンに寄ったとのことだった。大事なお客さんたちなので濱戸さんは見届けてから出発することにした。
しばらくしてタクシーが到着して、運転手さんが「すみません、勝手なことして」と謝っていた。間違いなく、「コンビニに寄りたーい!」と言われたのだと思うし、このメンバーに言われたら絶対に逆らえないだろう。

濱戸さんが外で丁寧に見送っていた。僕は助手席でボンヤリしていたら、急に反対側のドアが勢いよく開いてビクッとした。常盤さんと青田さんが笑顔で「まったね~!」と手を振っていた。

翌日、常盤さん、青田さん、佐藤さんの3人は佐々木町長の案内で園井恵子ゆかりの場所や盛岡市内を回るという。僕は明日は東京で人と会う約束があるので同行できないのだがとても残念だった。
観光出来ないのが残念なのではない。あの3人が回れば、絶対に各地で面白いことをするに決まっている。それを物書きとして見届けられないのが残念でならなかった。

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ABOUTこの記事をかいた人

兼業作家。2023年4月『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)上梓。歴史全般が興味の対象ですが、最近は大正~昭和の文化、芸術、演劇、映画、生活史を多く取材しています。プロフィール写真は愛貓です(♂ 2009年生まれ)。よろしければTwitterのフォローもお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。