「カネツクロス」という馬と「楽を覚える」ということ

カネツクロスという馬を覚えているとしたら、それなりの競馬ファンかもしれません。

同馬は1994年から1997年に活躍した競走馬で、同い年にはナリタブライアン、サクラローレル、ヒシアマゾン、タイキブリザードなどがいます。ナリタブライアンの名前を聞くと、競馬ファンでなくても覚えがあるかもしれないので「へえ」という印象を持たれるかもしれません。

父親はオグリキャップとともに芦毛ブームを巻き起こしたタマモクロスで、天皇賞(春・秋)、宝塚記念などを制しています。

父・タマモクロスが頭角を表したのは遅く、3歳後半(当時の表記では4歳)からで、多くの競馬関係者が目標にするダービーも終わった後でした。

カネツクロスも父に似て晩成型で、注目されるようになったのは4歳春頃でした。前年は同世代の怪物・ナリタブライアンが三冠を達成しましたが、同じレースに出走することも叶いませんでした。人間で言えばおじさんになるまで全くうだつが上がらなかったというイメージです。

〈馬のデビューと成長〉
現在の日本競馬では2歳の夏から「新馬戦」といって若駒たちのデビュー戦が始まります。馬の成長は個体差が大きく、体質の問題も考えて、デビュー時期はそれぞれです。早い馬であれば2歳夏から走り出しますが、遅い馬であれば3歳春にデビューする馬もいます。馬には「早熟」「晩成」という成長の呼び方があり、前者は若駒の段階から活躍しますが、後者は成長するのに時間がかかります。しかし、早熟馬が早々に成長が止まり勝てなくなることもあれば、晩成馬が長い時間をかけて大レースを勝つこともあります。このような成長の違いも遺伝する部分が小さくありません。後述のクラシックレースが3歳の春から夏にかけて始まりますので、中央競馬の多くの競走馬はまずそこを目標にします。

〈三冠とは?〉
日本の競馬にはクラシックレースと言って、皐月賞、日本ダービー、菊花賞というレースがあります。この3つのレースを全て勝つと三冠馬と呼ばれます(牝馬の場合は桜花賞、オークスという2つのクラシックレースがあり、それに秋華賞を含めて牝馬三冠と呼ばれています)。3歳馬しか出場できないので、すべての馬にとって一生に一度の機会です。クラシックレース、特に日本ダービーを勝つことは多くの競馬関係者にとって憧れになっています。

カネツクロスはもともと球節(人間でいう足関節)が弱いという事情があり、大事をとりデビューも3歳の1月と早くありませんでした。日本の競馬には芝コースとダートコースがあり、カネツクロスはデビュー当初はずっとダートコースを使っていました。球節が弱いので足に負担の少ない柔らかいダートを選んでいたのです。父・タマモクロスが芝で活躍していたことを考えれば、この馬も芝コースが向いていそうで、実際にレースに乗った武豊騎手も「なんで芝を使わないんですか?」と調教師に聞いたそうです。

芝コースをしっかり使えるようになったのが4歳春頃でした。この頃にはカネツクロスと引退まで戦いをともにする的場均騎手とも出会っていました。1995年6月10日、GⅢエプソムカップ、この馬にとってはじめての重賞競走でした。

重賞競走とはレースの世界で、特に格付けを特別にされたもので、中央競馬の場合はGⅢ、GⅡ、GⅠとあり、GⅠが最高峰です。馬にとっても関係者にとっても重賞を勝つことは大きなステータスです。僕たちはテレビで当然のように重賞競走を見ることができますが、重賞を勝つ経験をしないまま定年を迎える競馬関係者もたくさんいて、それほど勝つことが難しいと言えます。

カネツクロスは直線で並みいる強豪を大外からかわして、重賞初勝利を飾っています。的場均騎手は1週前の宝塚記念で落馬事故に遭い、騎乗していた愛馬ライスシャワー号はその時のケガがもとで死んでいます。的場騎手は「思い出したくもないほど、ショックだった。一時はもう馬に乗りたくないとすら思った。それを救ってくれたのがカネツクロスだった」と語っています。遅咲きのカネツクロスにしても的場騎手にしても特別な勝利でした。

エプソムカップの勝ちっぷりによって、カネツクロスは「GⅠを勝てる器」と評価する声も出てきました。しかし、ここでひとつ、この馬の行く末を変えたかもしれない出来事が起こります。

11月5日の大原ステークスというレースで、的場騎手が不在なために横山典弘騎手が手綱を握りました。レースは思いもよらない展開を見せます。カネツクロスはいつもの通りに4、5番手についていましたが、ここで引っかかります。「引っかかる」とは馬が前に行きたがり、騎手の制動が必要な状態です。引っかかることでたとえ騎手が抑えたとしてもレース中盤で余計な体力を消耗します。気性の激しい馬によく起こる問題で、スパートに勝負をかけている馬にとっては大きなマイナスです。ここで横山騎手は思い切ってカネツクロスの行きたいままに行かせる戦法をとります。カネツクロスは結果的に大逃げの形をとり、最後はスタミナが切れながらも勝ちきります。

臨機応変に対応した横山騎手の好騎乗だったのですが、その後のカネツクロスに変化が起こります。この馬のレース前はいつも的場騎手自ら調教(トレーニング)をするのですが、馬から下りてきて言いました。「この馬、またかかるようになっちゃったよ」。

もともとカネツクロスは引っかかり癖があったのですが、大人になるにつれて成長して、騎手の抑えが効かないほどではありませんでした。それがここにきて再び引っかかり癖が目立つようになってきたのです。

馬にとっては逃げた方が楽です。本来は自分勝手に走る動物が、レースに勝つという目的のために、走りたい気持ちを我慢しているわけです。馬は走る距離を知っているわけではないので、いつまで我慢すれば良いのかわからないまま、騎手の指示にしたがっています。それは相当なストレスでしょう。勝負に強い馬というのは闘争心が強い馬でもあります。それだけ勝ち気な馬を大人しくさせるというのは大変なことです。なので有望な馬がデビューし始めの頃は、レース途中はわざと馬群に入れたり後ろに控えたりして、レースというものを覚えさせることもします。

大原ステークスの後も、12月のGⅡ鳴尾記念、翌1996年のGⅡアメリカジョッキークラブカップを連勝し、続く3月のGⅡ日経賞は2着に敗れたものの、GⅠは手に届く範囲にあると思われました。どのレースも逃げて粘るものでした。重賞での活躍により、父親のタマモクロスや、その父で「白い稲妻」と呼ばれたシービークロスの再来とも言われましたが、タマモクロスもシービークロスも鋭いスパートが持ち味の馬でした。

4月のGⅠ天皇賞(春)は直前に蹄(ひづめ)を痛めて、大事をとって出走させませんでした。そして、7月7日のGⅠ宝塚記念。2番人気の高い支持を受けたカネツクロスはこの日もレース序盤から先頭を走ります。しかし、1番人気の田原成貴騎手騎乗のマヤノトップガンはその後ろから、マークするようにカネツクロスを見ていました。終盤に入る前からカネツクロスに並びかけて潰しにかかります。的場騎手は「田原はわかってたんだよ。カネツクロスさえ潰せば、敵がいないことをね。大したやつだよ」と語っています。最初からスタミナを消耗している逃げ馬は、途中で競りかけられると脆さを出します。息をつくことができずに、カネツクロスはもがくように馬群に沈みます。この時にGⅠに手が届かないことが決定付けられたのかもしれません。

その後もカネツクロスはレースに出続けますが惨敗が続きます。GⅠだけでなくレースで接戦を演じることもありませんでした。僕が競馬に興味を持った時、すでにカネツクロスは負け続きで、大きなレースに出ているけど、勝負にならない状態でした。負けるために出ているようで、その前時代の特撮ヒーローみたいな名前と合わせて、なんとも冴えない印象を受けたのを覚えています。

それだけに後年に、これだけ勝っていて期待されていた事実を知ると意外に思いました。そして、カネツクロスに対して悲哀とも言えるような、なんとも不思議な感情を覚えました。逃げる味を覚えてしまったカネツクロス、もし父や祖父と同じように豪脚を生かした差し馬として成長していたらどうだったのでしょうか? そこに運命の難しさを感じずにはいられないのです。

この記事は柴田哲孝著「たった一瞬の栄光」を参考文献にしました。

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兼業作家。2023年4月『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)上梓。歴史全般が興味の対象ですが、最近は大正~昭和の文化、芸術、演劇、映画、生活史を多く取材しています。プロフィール写真は愛貓です(♂ 2009年生まれ)。よろしければTwitterのフォローもお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。