(写真:一緒に写っているのは後輩の海原千里。撮影年月日不詳だが、海原の宝塚退団が1941年なのでそれ以前のものと考えられる)
園井恵子ゆかりの地を岩手県、小樽と紹介してきましたが、最後は宝塚、神戸、大阪です。宝塚は園井さんにとって青春を過ごした場所であり、女優としてスタートした場所でもあります。少女時代から園井さんにとって宝塚は夢の舞台であり、念願叶って学校に入った時は天にも昇る気持ちだったのでしょう。神戸は「六甲のお母さん」と呼んで慕っていた支援者・中井志づが住んでいました。そして園井さんは最後、中井志づ宅で亡くなります。大阪には阪急文化財団の池田文庫があります。
宝塚
宝塚駅
園井恵子は1929年(昭和4年)6月、親にも告げずに単身で岩手から宝塚に向かって出発しました。実家の経済的苦境が日増しに強くなる中、閉塞感の末の行動でした。幼少時からお世話になっていた平安商店のおばさんにお金を借りての旅立ちでした。当時16歳で人生の賭けに出るにはあまりにあどけない顔でした。
当時の列車事情からすれば、おそらく2日夜を明かしての宝塚行だったはずです。国鉄宝塚駅に下りたのか、阪急宝塚駅に下りたのかはわかっていません。そこからおそらく宝塚音楽歌劇学校に向かったと考えられます。
現在、阪急宝塚駅の南側の駅玄関から外に出ると、正面の先に武庫川と宝来橋が見えて、左側にはショッピングモール「ソリオ宝塚」の入口があります。ソリオ宝塚のフロアを通り抜けると大劇場に続く「花のみち」があり、桜や松など多彩な木々や、昔の形を模した街路灯が迎えてくれます。花のみちを歩いていくと、すぐ右側に大劇場の入口が見えます。
宝塚歌劇団、宝塚音楽歌劇学校
花のみちを歩いていくと、すぐ右側に大劇場の入口が見えます。大劇場の位置は園井さんが初めて宝塚に来た時とほとんど変わっていません。宝塚音楽歌劇学校は当時、大劇場の隣(大劇場と今津線の高架の間)にありました。後の1935年(昭和10年)に宝塚市宮ノ下(現在の宝塚文化創造館の場所)に移転し、1998年(平成10年)に現在の場所に移っています。園井さんが来た当時の大劇場と音楽歌劇学校の写真を載せます。
寄宿舎跡
宝塚音楽歌劇学校に通されたものの、6月ではすでに受験も終わっていて、園井さんは帰るように説得されます。しかし、どうしても後ろに引かないため、とうとう対応していた生徒監(当時、学校や寮の生徒の世話をしていた人)が根負けして、親が許可するなら受験を受けさせると約束します。
園井さんは寄宿舎で待つことになります。しかし、親は宝塚に行くことに反対で、何も言わずに飛び出してきた身です。父親が許してくれる保証はありませんでした。不安に待つ中、励ましてくれたのが、すでに宝塚少女歌劇のスターであった小夜福子だったと言います。
寄宿舎の跡地は花のみちの向こう、今津線の高架下を抜けてさらに直進します。武庫川沿いに並ぶマンションの一角、リアージュ宝塚や藤和宝塚ホームズ弐番館のあたりにありました。
この寄宿舎はかつて遊郭に使われていた建物をそのまま移転したもので、窓に縦にはめられた鉄格子はその時に遊技の安全を守るために設置されたものと言われています。
待った末に父親から帰ってきた返事は「本人の気の済むようにやらせてください」でした。こうして、園井恵子は特例の試験を受けて、宝塚音楽歌劇学校に入学することができたのでした。
武庫川河川敷
舞台にデビューしてからもしばらくは端役ばかりで、ろくにセリフもない役が続きました。ようやく役らしい役をもらえたのは宝塚に来てから3年目の1931年(昭和6年)10月、「ライラックタイム」という作品でした。若き日のシューベルトの悲恋を描いたこの作品で園井さんに与えられた役は、主人公シューベルトでもヒロインでもなく「門番の女房」という名前でした。
門番の女房はシューベルトが住む下宿のいわば管理人で、年をとるにつれて人間の醜悪さが染みついたような人物でした。あたりかまわず悪態をつくという、宝塚少女歌劇では珍しいキャラクターで、それだけに高い演技力が要求されました。
園井さんも与えられた役の難しさに悩み、寄宿舎裏の竹藪でセリフの練習を繰り返したと言います。武庫川の河川敷には今も下りることができて、ランニングする人や犬の散歩をする人が行き来しています。寄宿舎と武庫川の間には現在も竹藪がわずかながら残っていて、当時の名残を残しています。
六甲近郊
園井さんが小樽高等女学校の元生徒ということで、1935年(昭和10年)頃から、その卒業生たちが気付いて応援してくれるようになりました。中井志づはその1人で、以来生涯にわたって園井さんを支援します。中井志づの家があったのが六甲で、園井さんは親しみを込めて「六甲のお母さん」あるいは「お母さん」と呼んでいました。
宝塚退団後、園井さんにとって中井宅は心安まる数少ない場所でした。1945年(昭和20年)8月、広島に行く直前に滞在していたのも六甲の中井宅でしたし、原爆投下後の広島から避難して助けを求めたのも中井宅でした。そしてそこで園井さんは亡くなります。
広島から避難して西灘駅(※)に下りた時、この地域一帯も空襲を受けて無残な焼け跡となっていました。しかし、中井宅は奇跡的に戦火を逃れていました。園井さんにとって、母と慕う中井志づのもとで最後の時を迎えたことはせめてもの救いだったのかもしれません。
中井宅があったのは神戸市灘区上野通3-10と言われています(現在は残存していません)。
宝塚方面から中井宅に向かった時はおそらく六甲駅で下りたものと考えられます。六甲駅から中井宅があった方向に向かうと、昔からの家が並ぶ静かな住宅街という印象を受けます。場所によっては遠く離れた海を見ることもできます。この土地で園井さんはしばらくの間喧噪を忘れて心を休めていたのだと思います。
※ 園井さんが下りたのは現在の阪神電鉄の西灘駅ではなく、1984年まで阪急神戸線に存在した西灘駅です。現在は王子公園駅と駅名を変更しています。
大阪
池田文庫
阪急宝塚線・池田駅近郊には、かつて阪急財団創始者の小林一三の邸宅があり、小林一三記念館、逸翁美術館など、阪急文化財団の施設がいくつかあります。その1つに池田文庫があります。
池田文庫の始まりは宝塚新温泉(宝塚少女歌劇を含む娯楽観光施設)内の図書室にさかのぼります。宝塚少女歌劇団(現在の宝塚歌劇)の公演が始まった翌年、1915年(大正4年)に開設されました。池田文庫となったのは1949年(昭和24年)で、以来、宝塚歌劇を中心に演劇、大衆芸能などの資料を広く集めています。
池田文庫の特筆すべきは、やはり宝塚歌劇関係の資料です。「歌劇」「宝塚グラフ」「宝塚少女歌劇脚本集」などの雑誌が大正時代から揃っています。さらに「東宝」「エスエス」など関連する雑誌も戦前から揃っています。
それらの雑誌を読むと園井恵子さんの記事もありますし、ファン向けに様々な特集記事が組まれていて、当時の宝塚歌劇やその周囲の様子を知ることができます。また脚本集を読めば、どのような演目だったのか配役や内容を知ることもできます。
これほどの資料を保存していたこともそうですが、出版していたこと自体が素晴らしく、文化に対する高い先見の明を感じずにはいられません。そのおかげで園井さんの伝記執筆の際にも多くの恩恵を受けました。
池田文庫は入館無料、貸出は行っていません。コピーは白黒で1枚30円だったと思います。資料によっては閲覧に際してあらかじめ予約が必要なものもあります。
詳しくは池田文庫のホームページをご覧下さい。
http://www.hankyu-bunka.or.jp/ikedabunko/
まとめ
園井恵子ゆかりの地について、宝塚、神戸、大阪とまとめました。ゆかりの場所はほとんど当時の面影を残していませんが、園井さんが青春を燃やした宝塚歌劇は現在も続いていて、その後輩たちが舞台で活躍しています。その文化の灯を絶やさないことが園井さんの供養にもなるのではないかと思います。
さて、戦前の宝塚は観光地ではありましたが、当時の盛岡や小樽ほど商業が発達していたわけではなく、地図もそれほど作られませんでした。そのため、盛岡や小樽に比べると、当時の住所と現在の位置を細かく調べられない部分があります。園井さんのかつて住んでいた場所も大まかにはわかるのですが、細かい位置の特定は難しいのが現状です。そのような事情も機会があればまた書きたいと思います。
6回にわたって書いてきた園井恵子さんの記事もこれでひと段落です。伝記に載せられなかったこぼれ話など、また折を見て書いていきたいと思います。園井恵子さんのファンにおきましても、このブログを時々見てくださると幸いです。
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