園井恵子を支える絆 ~ファンが遺したもの

残されたブロマイド

小木曽美雪さん所蔵のブロマイド。このうち、園井恵子さんの画像25枚を今回譲り受けた。現物は阪急文化財団に寄贈された。

最近、園井恵子さんの貴重なブロマイドの画像を分けていただきました。持ち主は小木曽美雪さんで、2011年に89歳で逝去されましたが、戦前は園井恵子さんのファンで亡くなるまで大切にブロマイドは保管されていたそうです。娘様のInstagramからその存在を知りました。
1988年(昭和63年)8月6日の朝日新聞には小木曽さんの投稿が掲載されています。娘様の了承を得て以下に全文を引用します。

「園井恵子さん思う原爆の日」
岸和田市 小木曽美雪(主婦 65歳)

「お母さん園井恵子さんの事が載ってるよ」と娘が朝刊を持ってきた。天声人語の一句一句を何度も読み返しているうちに、半世紀近く前の事なのに、ついこの間の事のように思い出し、若くして逝った園井恵子さんをしのび涙がほおを伝った。
宝塚通いをしていた若かりし日々、園井恵子さんの舞台に魅せられて、何度も何度も見に行ったものです。『無法松の一生』の吉岡夫人役は本当に適役でした。先日もテレビで放映されたのでビデオにとり、楽しんでおります。原爆記念日が来る度に園井さんの事を思い出します。
活躍されたのが戦時中なので、忘れ去られているのでは、と心を痛めておりましたのに、天声人語に取りあげて頂き、こんなにも園井さんを理解しておられる方がいらっしゃるのかと、うれしくなりました。
また、新藤兼人監督の映画『さくら隊散る』をつくられた意味も理解でき、ぜひ見たいものだと念じています。
今年も原爆記念日を迎えました。このような悲しい出来事が二度とないように念じつつ原爆犠牲者のご冥福(めいふく)を祈ります。
園井さんへの深い愛情が伝わってくる文章です。この時すでに園井さんの死後40年以上が経過していました。その長い期間、思い出を心に大事にしまい、それは亡くなるまで持ち続けたのでしょう。なぜ、小木曽さんはここまで園井恵子さんを思い続けたのでしょうか。

後述しますが、園井さんは当時の宝塚少女歌劇で決して突出したスターではありませんでした。しかし、後に移動演劇で全国を回っていた時は、各地で宝塚時代のファンが楽屋に差し入れを持って会いに来たと言われています。園井さんが亡くなった後、ファンが残した文章や写真によって、その人生が時代の経過に埋もれることなく語り継がれることになりました。

2013年、横浜市で宝塚少女歌劇の『悲しき道化師』(1936年東京宝塚劇場)の舞台を映した5分ほどの16㎜フィルムが発見されました。どのような意図で撮影したかはわかっていませんが、そこには在りし日の園井さんの姿が映っていました。これは『被爆死タカラジェンヌ舞台映像発見』(平成25年7月16日毎日新聞大阪夕刊)などメディアでも報道されました。

園井さんがこれほどまで人々を魅了した理由は何でしょうか。

園井さんを当時、ファンはどのように見ていて、どのように支持していたかは、以前から私の大きな関心ごとのひとつでした。小木曽さんのブロマイドと新聞への寄稿はあらためてその疑問を考えるきっかけとなりました。今回の記事では園井恵子とファンの関係について書きたいと思います。

背景~戦前宝塚の黄金期

「空より俯瞰せる大劇場及び新温泉」(『宝塚少女歌劇二十年史』昭和8年発行より)

園井恵子さんが岩手から家出同然で宝塚にやって来たのが昭和4年、この前後は戦前の宝塚少女歌劇団の当たり年で多くのスターを輩出しています。
1年先輩には戦前の男役の大スターで、小夜福子と宝塚の人気を二分した葦原邦子、戦後にわたって歌劇団の第一人者であり、「宝塚の至宝」とまで言われた春日野八千代、男役、日本舞踏で活躍しただけでなく多くの著書を残し、マルチに才能を発揮した富士野高嶺がいます。この3人は2014年に発表された「宝塚歌劇の殿堂」に選出されています。

同期でも戦前はダンスの名手、戦後は重厚な演技派として平成に死去するまで歌劇団に在籍した神代錦(同様に殿堂入り)や、新劇、映画、テレビで活躍して後に仏門に入り話題になった桜緋紗子がいます。他にも大空ひろみ、藤花ひさみ、草路潤子、千村克子、社敬子、月影笙子、安宅関子と当時の舞台を沸かせた人気者がいました。

彼女らはレビュー黄金期と呼ばれる昭和初期の宝塚歌劇を支えました。当時、宝塚歌劇団の作家であった坪井正直はそれら生徒たちに囲まれた園井さんを次のように語っています。

本姓の袴田から通称をハカマといわれた園井恵子も、歌もダンスも日舞も出来なかったのでその演劇科にいた。小柄な身体で眼の大きな、色の多少青白い顔つきであったが、人を笑わすユーモアがあって誰からも愛されていた。
(中略)
彼女は怜悧な頭脳と演劇的感受性と理解力を多分に持っていたが、雌伏期から生来の勝気な気性で懸命な努力を続けていた。多くの人がそうであったように、最初はその他大勢や通行人など端役から出発して、やがて軽い三枚目役を受持つようになり次第に認識されて来たものの、当時の雪組は組長を始め上級生に喜劇の妙技を持った者が多かったので、その洒脱の個性を知られるのは遅い方であった。日本物では老け役、年増役、西洋物でも同じ役処の三枚目、美人の多い歌劇団では決して美しいといえる方ではなく、日常も質素であくまでも地味な存在であった。
ようやく雪組スターの一人になったのは、昭和10年を越えていた頃であろうか。

坪井正直『原爆十七回忌 園井恵子さんを偲ぶ〜園井恵子さんのこと』(『歌劇』昭和36年(1961年)11月号より)

興味深い寄稿なのですが、途中の「美人の多い歌劇団では決して美しいといえる方ではなく、日常も質素であくまでも地味な存在であった」というくだりは少し余計なお世話な気もします(笑)

同期の中でも園井さんは抜きん出た存在とは言えませんでした。宝塚歌劇団の機関誌である『歌劇』では生徒の顔が表紙に飾られますが、園井さんが取り上げられたのは昭和11年12月号で、これは同期の中では大空ひろみ、藤花ひさみ、桜緋紗子、神代錦、月影笙子、安宅関子に次いで7人目で、取り立てて早いものでもありません。

園井さんが表紙を飾った『歌劇』昭和11年12月号

昭和8年に従来の月・花・雪組に加えて星組が新設されると、園井さんは同時にそちらに移り、以降は役に恵まれるのですが、そこでも婦人役や老人役、男役でも喜劇的な要素を含んだものが多く、豪華絢爛なレビューの中心でスポットライトを浴びるような役とはあまり縁がありませんでした。自身でもそのような境遇に葛藤があったらしく、雑誌に次のような文章を寄せています。

歌が好きで初舞台の頃は浦川まつほさんのジョゼフィン――『パリゼット』でした――のあんな役を羨んで見ていたものですけれど、今はその頃の願いも、そして自分の気持ちもおさえて老けや三枚目ばかりを精進しています。折角楽しんでカラスロヴァ先生の所に習いに行ってる歌だって音域がソプラノでは私の役どころには合いません。せりふも歌も高い自声を殺して低くしているのですけれど、時には自分の気持ちのゆくままに思い切ったお芝居もしてみたい。
だけど結局は私は小さな白い花。自分の役を演活かす事に専念する外、野心も不平も持たずうすら寒い秋風の中に静かにゆれている気持ちです。はじめて来た東京の秋に、どこか静かな通を静かな心で、誰かと舞台のことを一心に語って歩けたらきっといい思い出が創れるだろう。私は夢の様な事を考えながら白い石路を毎日老け役ばかりをするために黙々と楽屋入りをするのです。

園井恵子『心境を言ふ』(『東宝』昭和9年11月号より)

華やかな役柄とは無縁の園井さんでしたが、そこから一部のファンたちは何かを見い出し、支持していたのです。

「脇役に園井恵子の名演技」

宝塚いろは歌留多(『宝塚グラフ』昭和12年12月号)

園井恵子さんの舞台がどのように受け取られていたのか、当時の雑誌に寄せられた文章をもとに推察していきたいと思います。宝塚少女歌劇の創立時から携わり、初期の代表的な脚本・演出家であった久松一聲は次のように書いています。

宝塚の舞台に粉黛を装う若人幾百、芸達者、なんでも来いは数あるが、滋味で目立たぬほどの演出の中に、底力のこもった、しかも品位を失わぬ演技は、はなはだ少ない。
その少ない中の一人に数えられるのが園井恵子である。
(中略)
万事に優やかな、すべてを目立たぬように心がけた恵子は、ただこつこつとして錬磨し、黙々として光陰を重ね、忍苦練達の功をつみ、その芸風の上品な点において、まれに見る演技と見眼者からたたえられている。

久松一聲『今様昔ふり 続・宝塚生徒月旦十一』(『歌劇』昭和15年2月号より)
次に宝塚で一緒に舞台に立っていた同僚たちの寄稿を紹介します。
社敬子さんは園井さんの同期で、宝塚音楽学校時代からよくケンカもしていたそうですが「ひとつの飴パンを二人で分けて食べる」と当時の雑誌に書かれているほどで、親友といえる間柄でした。
内海明子さん(芸名:加古まち子)は園井さんを慕っていた後輩で、園井さんもその思いを感じてよく可愛がっていました。その死に際を看取り、平成にいたるまで講演などで彼女の伝承をしました。
あの若さでと思いますが、日頃の園井さんを知ってこそ、あの芸と感じます。
常に小さい弟妹さん達の杖柱ともなり細かな点にまで感情をくばっている実生活の感情が扮役等に泌々(しみじみ)とにじみ出でる事です。色々な経験によってみがかれる偽りのない至芸、それこそ尊い芸術と思います。

社敬子『相手役を談る 日常の友情から』(『歌劇』昭和10年2月号より)
園井恵子さんは常に前向きで「武士は食わねど高楊枝」と言った風情を持ち、対話の中にインテリジェンスを感じたものです(中略)立居振舞がそのまま舞台に立てるほど、気品があり、言葉も発音もソフトで優雅でした。

内海明子『園井恵子さんを偲んで』(『年輪一九九八春』より)
それでは、彼女を見ていたファンたちはどのように見ていたのでしょうか。雑誌『歌劇』には当時から現在にまで、「高声低声」という読者の論評欄があり、そこにはファンからの多くの投稿が寄せられています。当時の宝塚系の雑誌は全体に少女を対象にした独特の甘さが感じられるのですが、この投稿欄においては批判的な意見も多く掲載されて、当時のファンの受け取った率直な感覚をいくらか知ることができます。
園井恵子、この人ほど何でもこなせる人があるだろうかと見る度毎に思う。そしてこの人ほど上品な三枚目をやる人があるだろうか。と誰でも考えることながら今更感心してみたくもなる。

星組公演『バービーの結婚』(昭和11年11月宝塚大劇場)の論評
最後に御大園井さん、祖母の役なんてこの人に気の毒だと思いました。でも、園井さんならでは、あの味、あの芸は誰にも出来ぬと思いました。この人こそ、本当に芸術家として立派な人だと思いました。二枚目はもちろん軽い三枚目、男役、女役、老役、若役、日本物、西洋物、踊り、せりふ、表情、宝塚広しといっても、この人程深味のある、一分の隙をも、又、そつをも見せぬのはこの一人でしょう。

雪組公演『みち草』(昭和15年1月京宝劇場)の論評
赤十字旗は進むの園井さん乗本婦長に満場の観客の涙をしぼらせている。上品さ、優しさ、凜々しさ、この人にして初めて表される役だ。いい役であり、いい配役であると思う。太平洋の春田さんのおじいさん振、乗本婦長、最後のアナウンサー、何と鮮やかな変わりようだろう。

雪組公演『太平洋』『赤十字旗は進む』『サイエンス・ショウ』(昭和15年4~5月宝塚大劇場)の論評
多くの園井評に共通しているのは、どのような役もこなし、演技に気品があったという点です。それはスタッフ、演技者、ファンの違いはありません。昭和12年12月の『宝塚グラフ』では「宝塚いろは歌留多」という企画があり、そこでは「脇役に園井恵子の名演技」と謳われています。当時、園井さんの演技は宝塚随一と言われるほどの高い評価を得ていました(※1)。興味深いのは、身近にいた人たちはその芸風を普段の生活と結びつけて捉えている点です。それを踏まえて論を進めたいと思います。

※1 『その日の園井恵子』くろつばき(『歌劇』昭和28年4月号)より

園井恵子の人間観

『その日の園井恵子』くろつばき(『歌劇』昭和28年4月号)

生前、園井さんと実際に交流があったファンは何人かいて、それらの方々は彼女の人生に多分な影響を与えています。小樽高等女学校の卒業生であった中井しづさんは長年、彼女の支援者となり「六甲のお母さん」として慕われる存在でした。広島で被爆して避難した先も中井家でそこで園井さんは息を引き取っています。
政治家であり、『美味求真』というベストセラーの料理本を書いた木下謙次郎氏も夫妻で園井さんを支援していました。関東滞在の際は木下家を宿にすることも多く、子供のいなかった夫妻は彼女を養子にと希望したそうですが、それは実現しませんでした。
昭和15年(1940年)、園井さんは宝塚に身を寄せていた家族を盛岡に移します。その後、ファンであった芝本(旧姓:村上)キクノさんと1年10ヶ月ほど同居生活をしています。

それら関わりがあった方々は園井さんについて深い思い入れがあり、残された証言や記述は彼女の人生を知る上で貴重な資料となっています。そこからは園井さんの人生だけでなく、その背後にある人生観や人間観のようなものも垣間見ることができます。

園井さんの熱心なファンであり、私的な交流もあった黒田弘子さんは園井さんの死後、在りし日の彼女との思い出を「くろつばき」のペンネームで寄稿しています。いくつかの部分を抜粋します。

私が園井恵子ならぬハカマに親しむ様になったのもフトした私の小さなまごころが彼女の琴線に直接ふれたある時からなのであったが、それは何と彼女に紹介されてから約一年も過ぎた後にして漸くである。突然として今迄の冷淡な態度が打って変わり、私の方に向かって初めて胸を開いてくれたのである。園井恵子とはそう云う人であった。

私のファン時代に彼女から受けた印象で一番強く心に残るのは、私がファンである故に彼女から心にもないお上手をされた事は只の一度もなかったと云う事である。ハカマは表面だけを取繕う様なごまかしの出来ない人であった。それ故、彼女の言動はその時の彼女の感情の赴くままにしか表現されなかったからである。それはファンにとって随分冷酷であったけれど、その代り彼女の良き言動は又、彼女の心から出たそのままの言葉であり、嘘偽りなき眞実の態度と信じてよかったのである。

園井恵子と云う人は、結局一本気で、感情家で、激し易く誤解され易く、あるいは団体生活の中では敵も多かったかもしれない。然し彼女には何事にもまさる眞実さがあった。

彼女の損得を考えない一本気な性格は、よくファンとも喧嘩したけれど、怒られても泣かされても、彼女の眞実さを知るファンはこうしてどこまでもついて行ったのである。

くろつばき『その日の園井恵子』(『歌劇』昭和28年4月号)
黒田さんの記述を読み、後年に岩手町で証言した時の映像(※2)を見ると、園井さん独特の人間観が窺えます。
自分自身を厳しく律して、潔癖に生きようとした反面で、他人にもそれを求めていて、裏切った人は二度と許さない傾向がありました。宝塚音楽歌劇学校で親友だった社敬子は裏表ない性格で、感情をそのまま表すようなところがあり、園井さんとしても安心して付き合うことの出来る存在だったと考えられます。
そのような傾向は人生で散々に辛酸をなめてきた末に染みついたものかもしれません。他人を容易に信じれず、特に活躍にしたがって増えてきたファンについては厳しく見ていたのでしょう。
芝本キクノさんとの同居が終わったのも、芝本さん曰く「ちょっとした誤解」からで、和解したい気持ちもあったそうですが、園井さんは死ぬまで許さず近づけませんでした(※3)。

しかし園井さんは孤独を好んでいたわけではありません。それは次の黒田さんの記述からもうかがえます。
彼女について今一つ知っておいて頂きたいことがある。それはハカマが家庭的に極めて寂しい人だったことである。彼女の父は神経衰弱のため、鉄道で不慮の死を遂げ、年老いた母と弟妹5人を抱えてハカマ一人が一家の支えであった。生徒の中にはその扶養家族のために犠牲となる人もあると思うけれど、彼女のようにいろいろな点から言って、これ程暗い家庭を持った人はなかったのではなかろうか。
お稽古から舞台に疲れて帰ってきても、その疲れを癒やしてくれるはずの愉しい家庭がハカマにはなかったのである。ハカマは黙って口をつぐみ、その代わりその気持ちのはかせ所を他人の中に求めたのである。ハカマほど友情に傾倒し、友情に繾りついた人はなかったのではないかと思われる。

くろつばき『その日の園井恵子』(『歌劇』昭和28年4月号)
心の交流を求めていても容易に人を信じることができず、だからこそ一度心を開いた人には家族と同じように接していたというのが、園井さんの人間関係の本質なのではないかと思います。園井さんにとって信頼するファンは、家族と同等かかなり近い存在として認識していたのではないかと考えられるのです。

※2 『生誕90周年 原爆が奪った未完の大女優 園井恵子展』(VHS)岩手町ふるさと再発見シリーズ③より
※3 『園井恵子・資料集』(平成3年、松尾村編集)P168、芝本キクノから中井しづへの手紙より。

ファンが愛した園井恵子

終戦直後は園井さんの死を悼む記事が所々に散見されたのですが、時間を追う毎にそれは少なくなっていきました。ただ、園井さんと一緒に舞台に立っていた者や熱心に応援していたファンはその思い出を大切に生きていたように感じられます。前述の黒田弘子さんの『その日の園井恵子』の結びは次のような言葉で締めくくられています。

終わりに臨み読者の中にも居て下さるかも知れないかつての園井恵子ファンの皆様、恐らくは私と同じ様に、今は妻となり、母となって生活していらっしゃるであろう、貴女方に、市井の片隅から、私はおよびかけしたい。園井恵子が私達の胸に残して行ってくれた過ぎし日の想い出を、夢を抱きつつ、私達もまた彼女と同じ様に真実な心を持って、清く美しく、この苦しみ多き世の中を生きて行こうではありませんか――と。

くろつばき『その日の園井恵子』(『歌劇』昭和28年4月号)
この寄稿時には園井さんの死後からすでに8年近く経過しています。記事は10ページにわたる長文なのですが、届けられた原稿はもっと長く、編集で短くしたと巻末に書かれています。

冒頭に紹介した小木曽美雪さんは女学生の頃、一円玉を握りしめて宝塚に通ったと言います。その時見た園井恵子の思い出を大切に、その後も生きていたと言えます。娘様曰く「母は単なるファン」とのことなのですが、なぜそこまで園井恵子に熱い思いを抱いたのでしょうか。

現在ではあまり考えられないことですが、当時の雑誌では生徒たちの生い立ちやプライベートが制限緩く載っていました。園井さんに関して言えば、父が病気であること、亡くなったこと、母、妹弟と暮らしていることや、雑誌によっては家族が事業に失敗して宝塚に身を寄せた事情まで書いてあります。
舞台の園井恵子さんは、あんなに剽軽で、滑稽で、賑やかだけれど、平常の彼女は厳粛なばかりの真面目屋さんですね――と彼女の親友である桜緋紗子さんに言ったことがあります。すると桜ちゃん(かんちゃん 筆者注:本名の神崎からこのように呼ばれていた)に、
「真面目だからこそ、剽軽な役があんなに一生懸命に演れるのですわ」
と叱られてしまいました。なるほど、そうかもしれない。三枚目が突っ込んで演れるのは、概して真面目な人が多いのは事実です。
「それにハカマは苦労人だから……」。桜ちゃんはしみじみと言いました。園井さんは宝塚でも最も苦労を積んだ一人かもしれません。その苦労のなかで、彼女は一心に人格と腕を磨きました。

来部花彦「園井恵子」(『エスエス』昭和13年11月号より)
熱心なファンにとっては園井さんが実生活で苦労していたのは公然の事実だったと考えられます。そんな園井さんの演技に魅せられたファンたちは、観客席の内外から精一杯の気持ちを込めて応援していたのではないでしょうか。

また、たとえ脚光を浴びなくても、与えられればどんな役でも最高の演技で応えた園井さんは、当時の道徳と献身性を重んじる日本人の心のどこかに憧憬と共感を呼び起こし、舞台に誠実であろうとした当時の宝塚ファンはそこに一種の安堵感を覚えたのだと思います。

前述の引用で久松一聲は「その芸風の上品な点において、まれに見る演技と見眼者からたたえられている」と書いていますが、その言葉を借りれば園井さんの演技の魅力をわかるのは舞台に対して真摯に向き合っている人たちで、その人たちは園井恵子のファンであることに心のどこかで誇りを持っていたのだと思うのです。
園井さんの死後、タンスの引き出しにはファンからの手紙が一杯に入っていたと言います。ファンたちの矜持が生前、死後に渡り、園井さんを支え続けたのです。

最後に小木曽さんが残した園井さんのブロマイドを紹介します。もし取材ができたら貴重な話が聞けたに違いありません。残念で仕方ないですが、残された園井さんの写真を見ながら、その純粋な思いを偲びたいと思います(写真をクリックすると拡大します)。

補足:本文中の引用にあたっては、現在の読者が読みやすいように一部、現在の仮名遣いなどに修正を加えました。

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ABOUTこの記事をかいた人

兼業作家。2023年4月『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)上梓。歴史全般が興味の対象ですが、最近は大正~昭和の文化、芸術、演劇、映画、生活史を多く取材しています。プロフィール写真は愛貓です(♂ 2009年生まれ)。よろしければTwitterのフォローもお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。