平穏な心で生きるために

誰もが穏やかに生きたいと考えているはずです。しかし、それと裏腹に現代人の心は葛藤や苦悶など、悩みが絶えないように思います。

テレビを見ていると、ニュースで凄惨な事件が流れています。そこにある心理と人間関係は僕たちと関係ないようで、実はそんなに遠い世界の出来事ではないと考えています。僕たちの心にも闇はしっかりと存在しているのです。

今回の記事では、どうして人間の心にはこのような苦しみが生まれるのか? そして、どうすればこのような苦しみから解放されて、平穏な心で日々を過ごせるのか、非常に大きな課題ではありますが考えていきたいと思います。

人間にしかない負の感情

人間には多くの感情があります。うれしい、楽しい、面白いなど人の心を高揚させる感情もありますが、不安、恐怖、恨み、妬み、自棄など、気持ちを乱したり、好ましくない方向に動かすものもあります。

不安や恐怖は、危険から身を守るために役立つものでもあり、不要なものではありません。しかし、過剰に心を占めると、情緒を乱し、時に自分の心身を傷つけてしまうこともあります。

恨み、妬み、自棄など負の感情と呼ばれるものは、根本をたどると自尊心を守っていたり、他者の助けを求めていたり、一種の心の防衛反応(心理学では防衛機制と呼びます)なのですが、これも過剰になると、自分を傷つけるエネルギーになってしまいます。

恐怖は動物にもありますが、不安、恨み、妬み、自棄は人間に独特なものです。動物はお腹を空かせて獰猛になることはありますが、人間のように将来を考えて不安を覚えたり、他人と比べて嫉妬したりはしません。恐怖にしても動物に比べて、人間の方が感じる範囲が広いように思います。

人間がおそらく最も恐れているであろう「死」についても、動物には恐怖がありません。本能として危険から逃げるという意味での恐怖はあるかもしれませんが、将来にある「死」について想像して怖がるということはありません。それは「死」という概念を理解できないことが大きな理由です。

知能の発達が複雑な感情と社会を形成した

なぜ、人間だけがこのような負の感情を多く持っているのでしょうか? それは人間が知能を発達させたことに起因します。過去の記憶を持ち、未来の想像ができ、自分自身の存在について考えることができ、周囲との関係を考えることができるようになりました。

そのことにより、人間は他の動物よりも複雑な社会を形成します。個人や家庭だけでなく、地域によって異なる文化や慣習が築かれて、それに対して時にはお互いが干渉し争うことも起きます。動物では食物や異性を奪い合うことや、縄張り争いをすることはありますが、それはあくまで生存や種族維持のためのプロセスです。人間みたいに生存と関係ない欲求で争うことはないのです。そして、文明が進み社会が発展するに従い、人間の感情とそれに伴う問題はさらに複雑に深刻になっていったのです。

前述のように、テレビでは日々凄惨な事件のニュースが流れていますが、その動機はほとんどが生存欲求とは関係ないものです。本来は人間が最も恐れるであろう死やそれに近い罰則が与えられるにも関わらず、それを越えて犯罪が行われます。そこには種々の要因がありひとつの過程を断じることは難しいでしょう。しかし、もとは生存とは関係ない何らかの理由がその人の心を苦しめて、理性や正常な判断能力を破壊し、最も恐ろしいものであるはずの死ですら越えさせてしまうのです。

大きな犯罪を犯さなくても、現代の日本人の心には多くの負の感情が潜んでいます。不安や恐怖が心を支配して何も手につかなくなる人、僻みや妬みが強過ぎて、怒りや悲しみで他のことが考えられなくなる人……自分を守るはずだった負の感情がコントロールを失い、自分の心身を傷付けてしまいます。

本当は誰もが穏やかに過ごしたいはずです。それにはどうすれば良いのか、僕なりの考えを書きたいと思います。

先人たちの教え

実はこのような悩みは科学が発達した現代に特有なものではなく、程度の差はあるかもしれませんが昔からありました。自分たちと同じ悩みを、おそらく過去も多くの人間が考えていたのです。例えば、仏教やアドラー心理学でも語られています。

禅僧の藤田一照さんとイラストレーターの伊東昌美さんの対談本「生きる稽古死ぬ稽古」には次のような会話があります。

藤田 そう、本当のリアルにあるのは現在。だけど本当はよく見ると、現在もない。あるけどないものです。

伊東 え? それってどういうことですか? 「今」という時間はまさに今あるこの瞬間ですよね。それがないってどういうこと?

藤田 今って捉えられないですよね。

伊東 それは、瞬間だから?

藤田 いえそういう意味ではないです。今って不思議じゃないですか? 昨日も「今」って言ってましたよね。

伊東 言ってました。

藤田 今も「今」って言ってるけど、それならば、さっきの「今」はどこへ行ったのか。「今」って、「本当の今」と「いつでもある今」とでは、違っていませんか?

伊東 それは内容の濃密さが違うという意味でしょうか? 私は「輪廻転生があるなら、まだ次があるからいいか」と、今の生が薄まってしまうことに関連しているのかなと思ったのですが。

藤田 ああ、ちょっとごまかしの効く人生になってしまうという話でしたっけ。

伊東 そうです。死んで何もなくなってしまうのかもしれないけれど、なんとなく生きる中で「今」「今」「今」……というのと、「今」この瞬間を生きるのとでは、後者の方がずっと濃密な生き方なんじゃないか? という意味です。

藤田 そうでしょうね。今この瞬間を生ききった者だけが、死にきることができる。今を生ききれない人は、死ぬのも生殺しみたいになる、といわれていますよね。
(引用:「生きる稽古死ぬ稽古」日貿出版社 P145-146)

将棋棋士の米長邦雄さんと囲碁棋士の藤沢秀行さんの対談本「勝負の極北」には次のような一節があります。

藤沢 道元禅師に「修証一如」という教えがあります。修とは修行のことで、証とは悟りの境地のことです。つまり、修行の果てに悟りがあるのではなく、修行することと悟りを開くことは一つである、修と証には因果関係はない、という教えです。

道元が中国に留学したときのことです。船が港に入って間もなく、一人の年老いた僧がやってきた。聞けば、中国五山のひとつ、阿育王山の広利禅寺の典座であるということだった。典座というのは、お寺で、僧に食事の支度をする僧のことです。その老典座は道元の乗ってきた船にシイタケを買いにきていたわけです。当時は、留学生の乗った船に輸出品が積んであったんですね。

若くて、優秀で、向学心盛んな道元です。老典座に話しかけて、現在の仏教界についていろいろと訊ねた。この典座は相当な人物だったんですね。話がはずんだ。もう夕刻だったから、道元は「今日はこの船に泊まっていったらどうか」と勧めました。

ところが、老典座は「明日の食事に、皆にシイタケを出してあげたいから」と、これを断わる。道元は「広利禅寺ほどの大きなお寺ならば、食事の支度をする人はあなた一人ではないでしょう、今日ここに泊まっても差し支えないでしょう」と言って説得するのだけど、老典座はやはり帰ろうとする。老典座が言うには、「私は最後の仕事だと思ってこの仕事に就きました。だから人にこれを任せることはできない」ということでした。それでも道元は納得できない。とうとう「失礼ながら、あなたはもうお年ではないですか、静かに座禅だけをして公案を考えていればよい、そういう雑用は、悟りを開くのとは関係がないことでしょう」と言った。

すると老典座は「外国の好人、未だ弁道を了得せず、未だ文字を知得せざることあり」と答えた。弁道とは修行のこと、文字というのは学問という意味です。つまり、「あなたは少しもわかっていない」と言ったわけです。

ところが、それまで大秀才で通ってきた道元でしたけど、どういう意味なのかわからない。そこで、「いかにあらんかこれ文字。いかにあらんかこれ弁道」と訊ねてみた。すると老典座は「それは『学問や修業とは、いったい何なのか』という疑問の心を持ちつづけることである」と答えた。道元はまだピンと来ないままだったけれども、典座はそれで帰ってしまった。

その後、道元はお寺に入って修行するのだけど、あるとき、別の高僧に同じことを訊ねてみた。すると高僧は「修行というものは、何か特別なことをするわけではない。全世界のすべて、日常に関わるすべてのものが真理を現わしているのだから、日々生きていくことがそのまま修行である。どんなことであっても、全身全霊をもって生きていく。そこにおのずから悟りがある」と言ったんです。つまり、世の中に雑用はない、一見、雑用に見える仕事の中にも悟りがある、ということです。道元はとうとうそれに気付いて、やがて「修証一如」の境地に辿り着いたわけです。
(引用:「勝負の極北」クレスト社 P88-90)

ベストセラーになったアドラー心理学の「嫌われる勇気」には次のような言葉があります。

人生は連続する刹那であり、過去も未来も存在しません。あなたは過去や未来を見ることで、自らに免罪符を与えようとしている。過去にどんなことがあったかなど、あなたの「いま、ここ」にはなんの関係もないし、未来がどうであるかなど「いま、ここ」で考える問題ではない。「いま、ここ」を真剣に生きていたら、そんな言葉など出てこない。
(引用:「嫌われる勇気」ダイヤモンド社 P271)

3つの例を引用しましたが、若干の違いはありつつも共通している部分があります。それは「今」に焦点を当てていると言うことです。

平穏な心で生きるために

人間が負の感情を多く持っているのは、人間が知能を発達させたことに起因すると前述しました。過去の記憶を持ち、未来の想像ができ、自分自身の存在について考えることができ、周囲との関係を考えることができるようになったことは、人間の社会を高度で豊かなものにした一方で、過剰な負の感情という弊害も生まれました。

仏教にしてもアドラー心理学にしても、そのひとつの解決策として、「今」という瞬間に集中することを勧めています。今、目の前のできることを一生懸命やるということです。未来も過去も自分にはコントロールできません。そこに思考のエネルギーを使い過ぎていることが問題なのです。

精神論のように思われるかもしれませんが、実際に精神科の治療では作業療法が行われます。何かの作業に没頭することは精神を安定させる効用をもたらします。

「後先考えずに場当たり的に好きに生きれば良いのか?」という疑問があるかもしれません。しかし、何か目標に向かって進むにしても、実質は目の前のことを懸命にやるという積み重ねです。やるべきことが決まったら、あるいは決まっているなら、それに集中すべきなのです。スポーツの練習であればメニューを考えたらそれに集中、余暇であれば楽しむことに集中、仕事であれば嫌な内容でもその場はそれに集中するのです。そこで上司や会社の不満(すなわち「過去」にあたります)を考えても自分を傷つけるだけです。

負の感情が強い人は、自分がコントロールできる「現在」にエネルギーを使わずに、コントロールできない「過去」「未来」にエネルギーを使う傾向があります。過去や未来を考えることを全て否定するわけではありませんが、そちらに必要以上に傾倒しているなら、目の前のことに集中するように意識のバランスを整えることが大切です。

すると「考えない」、実際のところは「考え過ぎない」という精神状態に行き着きます。僧侶である小池龍之介氏の「考えない練習」が30万部のベストセラーになったのも、人々が自分たちや社会の問題を何となく感じ取っているからではないでしょうか。

自己中心的か利他的か

最初のうちは色々な考えが頭に浮かび、目の前のことに集中できないかもしれませんが、それを繰り返すうちに意識の調整も上手になってきます。慣れないうちは難しいことを考えずに目の前のことをより良くするための努力をしましょう。

会社の人に笑顔で挨拶したり、ご飯の時によくかんだりとかそのようなことでも良いのです。自分ができることを尽くすことが大切です。考えないから懸命に生きられるのではなく、懸命にやっていると考えなくなるという流れです。難しいことを考えず、目の前のことをできる範囲で一生懸命やってみましょう。

このように話すと例にあげた道元禅師の話に通じるとお分かりいただけると思います。

さて、目の前のことに力を尽くすのは、多くの場合において精神的に良い効果をもたらすと僕は考えています。しかし、いくつか懸念があります。ひとつは、何かを一生懸命やることで見返りを求めるのは危険ということです。見返りを求めるという行為は、そちらの方に意識が集中していて、目の前の行為に集中しているとは言えません。

それと閉鎖的にひとつのことをやり続けるのは、時において精神状態を偏ったものにします。なので、行う内容についても若干の考慮は必要です。

僕が考えたのは、自己中心的に自分のベストを尽くせば良いのか、利他的にベストを尽くした方が良いのかという問題です。マザーテレサは「あなたの中の最良のものを世に与え続けなさい」と言いましたが、それは社会のためもあるでしょうが、その人自身の精神に関わる問題でもあります。

マザーテレサは他人や周囲がどうあろうとも「気にすることなく、最良のものを与え続けなさい」と言っています。見返りを求める心や自身に向ける疑問に対して、それは不要だと言っています。

被災地にボランティアに行く人たちは、その人たち自身にも何か得られる栄養があることを知っています。他人のために何かするというのは、見返りを求めなければ精神的に良い効用をもたらします。

しかし、利他的に徹する人生が良いかどうかは、今の僕には考えきれない問題です。現状で言えるのは、平穏な心で生きるためには「今」に集中すること、それにおいて多少なりとも他者との繋がりを持つことも必要かと思います。過ぎゆく時間の中で、自分のできることを尽し、それを他者や外部に対しても多少でも向けることができれば良いのではないかと思うのです。それがその人自身の心の安定に繋がると考えています。

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ABOUTこの記事をかいた人

兼業作家。2023年4月『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)上梓。歴史全般が興味の対象ですが、最近は大正~昭和の文化、芸術、演劇、映画、生活史を多く取材しています。プロフィール写真は愛貓です(♂ 2009年生まれ)。よろしければTwitterのフォローもお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。