天から見える景色【2025年移動演劇桜隊追悼会記】

 行ったら、丸山さんが出て来てね、こうやって腰かけて、「純ちゃん」ってったきり、あの埃だらけの黒い編上靴の上に、涙がポトッ、ポトッてね。「苦しんでんだなあ」って思ったですねえ。多くは語らなかった。それから僕あもう、二泊でも三泊でも四日でもいいやと思って、松江までついてったねえ。
(桜隊原爆忌の会・昭和六二年会報)

 戦後の多々良純の回想である。招集された多々良は僅かな時間の合間を縫って、島根県の木次町まで桜隊を追いかけ隊員たちと再会した。この「苦しんでんだなあ」という言葉が、なぜか、最近よく思い起こされるのである。

 そぞろに続く雲で、お日様も少し遠慮がちな8月6日の朝だった。
 JR目黒駅から大圓寺前の下り坂を歩いていくのが、この年も変わらない”始まり”だった。この道は寺の樹木など緑による日陰が多く、蝉の鳴声があってもどこか優しい静けさが漂う。毎年この道を歩くと、この日ばかりは喧騒から離れて、静かな気持ちでありたいと思う。

 五百羅漢寺に到着し会場の講堂に入ると、第二部でミニコンサートを担当するSoft Voiceの3人(本来は4人構成だがこの日は3人が出演)がリハーサル中だった。それを桜隊平和祈念会の山崎勢津子会長、事務局長の青田いずみさん、第一部で脚本を担当している佐藤成美さんらが見つめている。
 佐藤さんが最後に立ち位置の確認をして、緊張した面持ちで3人は舞台を下りていった。
 私はリハーサル(事前の準備)の雰囲気がとても好きである。演者やスタッフとも張り詰めた空気があるし、その人間の表現者としての空気が出るように思う。自分が演者やスタッフとして関わる時はその立場を生かしていろいろと見せてもらう。

 「あとは野となれ山となれって感じかな。いくら心配しても自分が舞台に上がるわけじゃないしね」と佐藤さんがさばさばした口調で言った。彼女は追悼会では一昨年に美郷真也・渓なつきの音楽朗読劇『宝塚歌劇団・園井恵子 あの日の空』で脚本を担当した。昨年はスタッフとして全体の補助もしていた。
 佐藤さんと話す後ろで青田さんが慌ただしく機材の設置場所について指示している。あちこちの最終調整が持ち込まれて、その度に次々と捌いていた。青田さんと佐藤さんはもともと同級生で、何かと表で動かざるをえない青田さんにとって、さっぱりした物言いで地元の東久留米でイベント運営の経験もある佐藤さんは頼りになる存在なのだろう。今年も第一部だけでなく全体のサポートを務めていた。

 事務ブースでは販売用の資料が並べられて、金田径子さんが準備をしていた。通常の受付業務の他、毎年、様々なゲストや来場者があるので、その度にここでは臨機応変な対応がされる。ここは長年、平和祈念会を陰ながら支えて、その歴史を見てきた女性たちが並び、舞台とはまた違った昔からの空気を持っている。
 時代の中で平和祈念会も少しずつ変化をしていくが、渓流の狭間にゆったり静かな流れがあるように、ここもまた会を落ち着かせてくれる場所のように感じる。個人的には女性の聖域のようにも少し感じている。このブースの裏にいつも多めになる手荷物を置かせてもらうのが、会場に到着した私のちょっとした”決まり”でもある。

青田さんと打ち合わせをするスタッフたち。後ろに黒いマスクをした佐藤さんも見える。

 会場の入口で、椎名友樹さんが来場者用のペットボトルを並べてニコニコ立っていた。椎名さんは三年前はマリンバ演奏で出演して、二年前は司会進行を務めている。女性の活躍が目立つ桜隊平和祈念会の中で、小磯一斉さんらと並んで男性として存在感を見せている。
 2023年12月に平和祈念会内の朗読発表会が行われた時、椎名さんは太宰治の「一二月八日」に出演、太宰治役を演じた。その時に相手を務めた常盤貴子さんに「椎名さんは太宰治について全く知らなくて、先入観がないんです。そんな人、今時なかなかいないでしょう。おかげで固定観念にとらわれない太宰治が表現されたと思います」と不思議な絶賛のされ方をしていた。
 いつも落ち着いていて、椎名さんの周りだけは違う時間が流れている。

 会場を見回すと、純白のシャツでひときわ鮮やかな三輪桂古さんが素早くあちこちに動いていて、ここ数年の変わらない平和祈念会の空気がこの日も流れていた。

 8時になり、空席が目立っていたホールも人で埋まり法要が始まった。本堂の様子がモニターに映り、読経が始まると目を閉じた。続いて、殉難碑まで移動し順次、焼香に移っていった。

 会場に戻り、事務のブース前を歩いていると谷芙柚さんがいた。昨年の追悼会では朗読劇で森下彰子役を演じていた。「今年はスタッフとして。といっても出来ることはそんなに多くないのですけど。でも、後で役に立つように周りの動きをよく見るようにはしています」。

右から谷芙柚さん、三輪桂古さん、浦吉ゆかさん。浦吉さんは2005年の朗読で森下彰子を演じていたから、祈念会にとっては新旧の森下彰子なんだなと思ったり……

 時間が9時を過ぎて、小磯さんが外に歩いていくのが見えたので、椎名さんからペットボトルを受け取って正門に向かう。陰っていたはずのお日様は雲の外に出て、いよいよ暑さを主張し始めた。
 正門に着くと小磯さんが物陰から現われて「大丈夫ですよ、私、まだ生きてますから」と言った。
 日よけにできる細長いわずかな影が頼りだった。そこに身を寄せて、来客者が見えると出ていって挨拶、必要に応じて誘導をする。
 飄々としゃべる小磯さんは自分から余計なことは言わない。大笑いするところも見たことがない。思い浮かぶのは朗読会などで、周囲のテンションが上がる中で、苦笑いしてたり、呆れたように一言添える姿だ。
「追悼会の日に雨だった記憶はないですねぇ」
 小磯さんが呟いた。おしゃべりではないが尋ねれば訥々と答えてくれる。来場者を待ちながら、今年の追悼会の内情や、平和祈念会の置かれている環境について、いろいろとお話を聞いた。
「これを続けることで、若い役者さんが何年かに一度でも来てくれるといいですね。今年は初参加の人が多いようですよ」。
 昨年も門の近くで立っていたが、今年はエレベーターに乗る人が少なかった。これは昨年に比べて若い層が増えていたことの表れでもある。

正門で石川勝利さんと小磯一斉さん。

 外での役割は暑さを考慮して、何人かのローテーションで回していた。涼んでくるように声をかけてくださったので、一時的に屋内で休んでいた。そこに昨年、『槇村浩吉と桜隊』で眞山蘭里さんとともに講演された小津和知穂さんが通りかかった。
 昨年の追悼会後、私は少し東京に滞在していたのだが、予定がひとつキャンセルとなったので、迷惑だろうと思いつつ、名刺をもらった小津和さんに連絡して、劇団新制作座を見学させてもらった。
 高尾駅から車で10分ほどの山中に切り拓かれたように並ぶ建造物群は緑が生繁げて、すでに何かの遺構のような雰囲気すら持っていた。確かに、そこは新制作座の発起人である眞山美保やその夫である槇村浩吉たち、演劇人の激しい情念の痕なのかもしれない。
「テレビ愛媛の人たちが『泥かぶら』の公演に付いて取材してくれたんだけど、足に白粉を塗っているところまでカメラに撮ってね。テレビはどんなに撮っても、出てくるのは一部でしょう? カットするなら、そこの部分を削ってほしいと言いました(笑)。新制作座の取材をするのは、やはり桜隊がやっていた移動演劇の空気をまだ残しているからでしょうね」
 新制作座は創設から地方巡業とともに歩んでいて、それは70年以上経過した現在も変わっていない。テレビ愛媛は継続的に丸山定夫を中心とした桜隊の取材を行っていて、当日の深夜24:15には『亡びるな 生きろ 俳優丸山定夫と桜隊の青春』が放送されている。
 話している横を今日の出演者たちが歩いていった。
「もう一年経つのですね。昨年ここでお話しした時は、直前まで〈これは話して良いものか〉と青田さんと検討してました。ここは桜隊の追悼の場で、自分たち(新制作座)のことにどれだけ触れて良いのかは悩みました」。

小津和知穂さん(劇団新制作座)
テレビ愛媛『亡びるな 生きろ 俳優丸山定夫と桜隊の青春』(放送:2025年8月7日)はYouTubeでも配信されています。リンクからページに移動できます。亡びるな 生きろ 俳優丸山定夫と桜隊の青春

 10時が近付くと会場は満員となっていた。
 8時からの法要と同じように、本堂で行われる読経の様子をホールで見て、順次、来場者は焼香に移っていった。例年、本堂前の空間は焼香を待つ人々が並ぶのだが、今年はそこは途切れて建物の日陰で待つ人が多かった。桜隊の法要がはじめて行われた時代と比べると、気候までも変化してしまっている。

 会場に戻ると、昨年と同じように入口近くで追悼会を見ることにした。
 例年と同様に、山崎勢津子会長が挨拶と桜隊の概要を説明をして追悼会は始まった。会場の中にはこれまで桜隊に接点がなかった人もいるだろうから、この説明は朗読劇を聞く前にイメージの助けになっただろう。

桜隊平和祈念会 山崎勢津子会長の挨拶

 続いて第一部に移った。『新劇女優 仲みどり ~もう一度 あなたの笑顔が見たい~』(演出:山崎勢津子、脚本:佐藤成美、音楽:坂本貴啓)と題して、仲みどりの生涯を佐藤哲也さん、清家朋代さん、吉平海遥さんが朗読劇で演じた。
 佐藤哲也さんの「2025年8月15日、戦後80年を迎えるこの夏、戦後生まれが約88%を占め、終戦の時に成人だった明治、大正生まれだった人は、0.3%に過ぎない今……」という導入で劇は始まり、仲の少女期のエピソードから、新劇女優としての軌跡、そして原爆後に東大病院で亡くなるまで生涯をたどるものであった。
 仲みどりは、他の隊員がそれぞれに活躍の場を他に持っていたのに対して(丸山、園井、森下、羽原は映画にも出演している。仲も映画出演はあるが時期が遡る)、生粋の新劇人という印象を受ける。朗読劇の中でも、容姿が美しかったわけでもなく、演技を磨く方向で活路を見出していく様子が描かれている。
 『桜隊全滅』を著した江津萩江さんは演劇研究所の二年後輩で、著書の中でも「何とかして仲さんの死について調べたい。私の桜隊追跡は、この点の解明から始まりました」(P13)と記している。青木笙子さんが後に『「仲みどり」を探す旅』という書籍も著している。
 よく知られているように、仲は被爆後に東京に移動して東大病院に入院したことで、原爆症患者の第一号と診断される。後にカルテの原本が発見されて話題にもなった。
 江津さんの影響もあるのだろうが、すでにスターだった丸山定夫や園井恵子と違い、その足跡の追い方には、どこか仲間という意識、強い新劇人の匂いを感じるのである。

 私が仲さんについて胸に詰まるのは、東大病院の臨床講義で「プログノーゼ・ゼア・シュレヒト」という言葉が発せられているエピソードである。見通しは完全に悪い、つまり100%死ぬという意味で、それをドイツ語がわからないとはいえ面前で言われた彼女は、すでに死との境界の向こう側にいる存在として扱われている。朗読劇ではこのシーンにも触れられている。
 そして、仲の身体の一部は標本となり、現在も東大病院で保管されている。清家朋代さんの「私は、今でも漂っています。標本の中で」という台詞が彼女の悲劇を表わしている。
 清家さんの「36歳の私は九死に一生を得たと思っていました。まだ生きていけると思っていました。芝居ができると思っていました」という言葉で終演のアコーディオンの演奏が始まり、 「平成元年生まれの私は今年36歳になります。私と同じ年で亡くなった仲みどりさん、私が80年前にタイムスリップしたとしたら、その時、演劇隊として広島にいたとしたら……」という吉平海遥さんの言葉が繋ぎ、最後に佐藤さんの「私もあなたの笑顔、あなたの芝居が見たかった!」という叫びで幕を閉じた。

第一部の様子 左から佐藤哲也さん、清家朋代さん、吉平海遥さん、坂本貴啓さん

 5分間の換気休憩を挟み、第二部では『平和への願いを歌声にこめて』という題でミニコンサートが行われた。会場が暗くなり、童謡『ほたるこい』の歌声が静けさの中に響いて、3人が静かに舞台に上がった。
 Soft Voiceは東久留米市の少年少女合唱団「みずうみ」(現在はそよかぜに改称)出身の4人によるコーラスグループで、ピアノなどの伴奏なしにアカペラで歌うことをメインにしている。

第二部Soft Voiceのミニコンサート 左から、はるかさん、あさこさん、みきさん

 この日は『アメイジング・グレイス』『ふるさと』『翼をください』の3曲が歌われた。それぞれメンバーが曲紹介とともに平和や鎮魂への思いを述べている。

はるか(『アメイジング・グレイス』)「今日は鎮魂への祈りと平和への願いを歌に乗せてお届けしたいと思います。この曲は、時をこえて、国や宗教をこえて、人々の心に寄り添っているもので、悲しみや痛みの中にも希望を見出そうというメッセージが込められた曲です」

あさこ(『ふるさと』)「私たちにはそれぞれふるさとがあります。それは生まれ育った土地であったり、幼い頃に遊んだ山や川の風景だったり、あるいは心を寄せてくれた人のまなざしや温もりかもしれません。ふるさとは忙しい日々の中でつい忘れてしまいそうになる時もありますが、ふとした時に心に浮かび上がってくる、とても静かで、でも確かな存在です。この曲に込められたのはそんなふるさとの懐かしさや、遠く離れても必ずあり続ける深い愛情です。本日はここに集まった人々、それぞれのふるさとと、そして今はもう会えなくなった大切な人に思いを馳せながら、心を込めて歌わせていただきます」

みき(『翼をください』)「この曲は1971年に発表されてから、小学生だったり大人の皆さんにずっと愛されて歌われてきた名曲です。自由に、この空を、羽ばたきたい、そんな思いで作曲されたそうです。大きな苦しみや悲しみを乗り越えた先に希望や自由を見出す、そんな小さな静かな祈りが、美しいメロディに響き、私たちもとても大好きな曲です。今、この時だからこそ心を込めて大切に歌わせていただきたいと思います」

 第二部が終わりに差し掛かると、入口がわずかに開けられた。青田さんが浦吉さんに「30分枠にするから」と告げている。入口を開いたのは喚起をするためで、休憩の5分を省略するためだろう。毎年のことながら時間は予定通りに行かず、第三部に近い頃には慌ただしくなる。

 第三部は『未来に繫ごう平和のバトン』と題して、常盤貴子さんと青田いずみさんのトークが展開された。常盤さんが桜隊平和祈念会に携わるようになった経緯や、朗読勉強会のこと、記念碑の掃除など、桜隊平和祈念会の活動の様子などが話された。

第三部 青田いずみさん(上)と常盤貴子さん(下)

 話が進み、事務局の若い俳優たちへも話が振られた。「桂古ちゃんとかどう?」と常盤さんから声をかけられた瞬間、三輪さんの背中がビクッとするのが見えた。やはり話を振られることを事前に知らされていなかったのだと、いつもの追悼会らしくて微笑ましい。三輪さんもその後の谷さんもさすが女優で、急な振りにもしっかり答えていた。
 自分の目の前では浦吉さんがカンペに「あと20分」と書いて、それを持って歩いていった。しかし、脇から精一杯掲げるも、常盤さんも青田さんも話に夢中でなかなか気付かない。浦吉さんはとうとう諦めて(呆れたのか?)若いスタッフにカンペを託すと戻ってきた。
 そして、いよいよ終了が差し迫った頃、カンペをめくると「時間です」と書いて、最後に思いっきり「!」を付けた。横で見ていて思わず吹き出してしまった。浦吉さんが健在そうで嬉しい。
 その浦吉さんが閉会の挨拶をして、昨年と同じく追悼会は終了となった。

浦吉ゆか副会長から閉会の挨拶

 来場者とスタッフやキャストも交えて、名残惜しそうに話をする様子がいたる場所で見られた。
 人が少なくなるに連れて会場は後片付けが始まった。

 追加していた椅子を外に運んでいると、建物の入口に宝塚の88期生コンビ(夏月都さんと早花まこさん)がいた。写真を頼むとさっとポーズを取れるのがさすがである。「なんの取材ですか?」と尋ねられたので「真面目なやつだよ」というと、さっそく別のポーズもとってくれた。

左:夏月都さん、右:早花まこさん ……園井さん、後輩たちは健やかに育っています。

 会場を後にして、来た時の逆の道を、大圓寺前の上り坂を消化しきれない思いを持って歩く。盛況で安堵に包まれた追悼会だったが、どこかに重苦しい空気も感じていた。毎年、平和祈念会や取り巻く状況は厳しさを増している。社会全体が苦しむ中で、ゆとりはなくなり、メディアを賑わす言論でも極右的なものが散見されるようになった。経済的に何も生み出さず、80年前に消えた劇団に思いを馳せる余裕は年ごとになくなっているように思う。
 青田さんは言っていた。「今年はメディアから、戦後80年だから何か特別なことをするんですか、とよく聞かれます。その度に私たちは80年目も81年目も変わらず粛々と法要と追悼会を行います、と答えているんです」。80年の節目に何かを企画するのも大変だが、継続するのがそれ以上に難しいことを身に染みて感じているのだろう。

 翌日、前事務局長の近野十志夫さん宅に伺った。高齢になり、身辺の資料など整理を進めているという。もともと編集者だった近野さん宅には、様々な分野の蔵書にあふれている。「行き先なんて、処分するしかないんだよ」「集める時はなんにも思わなかったけどね、終わりが来るとは思わなかった」。
 棚を見ていると『草の花』が出てきた。元事務局長の加藤博務さんと丸山由利亜さんが中心になって発行していた小冊子で、まだ存命だった関係者を訪ねた記録など貴重な資料となっている。20冊ほどが発行されているが、公共図書館には鳥取県立図書館に一部蔵書があるだけで、国会図書館にも所蔵されていない。
 その冊子の隙間から何枚も紙が出てきた。当時の追悼会のメモや、当時欠席したハガキに書かれた短信をまとめたものである。そこには「丸山定夫が公演前に将棋を指していた」などと戦前の思い出を書いた記録もある。私はそのハガキの主たちの名前をほとんど知らなかった。そのような無数の人々との関わりの中で今も桜隊の法要と追悼会は続いている。

 追悼会の前、第一部でアコーディオンを担当した坂本貴啓さんがこんなことを話してくれた。先日、ある公演で一緒になった歌手の方(柴田泰孝さん)とSNSで繋がったが、お互いの共通の友人があまりに多いので、確認してみたら「園井恵子を語り継ぐ会」の柴田会長の息子さんだった。桜隊と全く関係のない公演だったので驚いたという。坂本さんは打ち上げの席で次のようなことも言った。「縁は不思議なもので、でも天の上から見ると案外簡単なもので、色々と見えるから導いてくれているのかもしれない」。
 第一部の終了後には来場されている関係者が紹介された。この日は都築正夫教授(仲みどりの治療に携わり原爆症を診断)の御孫様、森下彰子さんの甥御様、江津萩江さんの御孫様が会場に訪れていた。紹介されると会場は拍手に包まれた。会を続けていることで、本来であれば繋がらないはずの人の縁が繋がる。
 偶然に見える縁でもそこに意味を見出すことで、人は何かを生み出すのだろう。

 世間は夏休みの最中である。移動中の地下鉄で麦わら帽を被って子供の手を引くお母さんがいた。戦争ではその手を引くのが空襲から逃げるためにもなった。
 その手は何のために繫がれるべきものなのだろうか。できれば喜びや楽しさのためであってほしい。今日もまた誰かの手がこちらに掌を向けて待っている。

追悼会後の集合写真。「女優の横は嫌だ」という佐藤さんと今年も並びました。
 この記事の作成に当たっては、桜隊平和祈念会の中村真一郎様から写真を提供していただきました。また法要と追悼会においては、ここで紹介できなかった多くのスタッフ、協力者の尽力のもと成り立っています。それらの方々に心から感謝申し上げます。

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ABOUTこの記事をかいた人

兼業作家。2023年4月『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)上梓。歴史全般が興味の対象ですが、最近は大正~昭和の文化、芸術、演劇、映画、生活史を多く取材しています。プロフィール写真は愛貓です(♂ 2009年生まれ)。よろしければTwitterのフォローもお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。