フランスのサミュエル・ベケットの作品に「ゴドーを待ちながら」という戯曲があります。
ウラジミールとエストラゴンの2人の男性がゴドーという人物が来るのをただ待ち続けるという内容で、不条理劇の名作とされています。内容についてさらに書き加えると、2人の登場人物は2幕の間、ほぼドラマらしい展開は何も起こさず、舞台の上で時間つぶしか喋るか、脈絡のないことを続けます。僕たちがよく見る演劇の主人公たちは多くが能動的で、自分から困難を克服しようとするような傾向があると思います。「ドラマ」という単語には「劇的」という意味もありますが、「ゴドーを待ちながら」にはそのようなシーンは全くありません。
前知識なくこの演劇を見て「面白い」と言える人が何人いるのか疑問に感じます。僕には自信がありません。観客からすれば暇つぶしを見せ続けられるようで、一種の苦行のようにも感じられます。退屈で寝てしまう人もいるのではないでしょうか。この演劇が1950年代に初演された当初も不評だったというのがよくわかります。しかし、徐々に評価が高まり、現在では世界各国で公演されています。
日本では、いとうせいこう作「ゴドーは待たれながら」、別役実作「やってきたゴドー」というパロディ作品(あるいはインスパイア作品?)も公演されています。高いレベルでパロディ作品が生まれるということは、原作自体が名作であることの裏返しであると思います。
一見難解に見える原作に内在したテーマとは何なのでしょうか? 解説については山内登美雄「ドラマトゥルギー」が実に明快に表していると思います。
ウラジミールとエストラゴンが待ち続けたゴドーですが、とうとう最後までやってきません。この作品ではひたすら「待つ」が続けられます。そこに何の意味が込められているのでしょうか? この演劇で有名なエピソードが「ドラマトゥルギー」に紹介されています。
1957年11月19日、アメリカのサン・クェンティン州立刑務所で1400人の囚人を前にして「ゴドーを待ちながら」が上演されました。この演劇が選ばれた理由は「女性の出演者がいないから」というただそれだけの理由でした。この監獄には死刑など重い刑罰を課せられた囚人も収容されていて、上演する側も知的階級の人々でさえ理解に苦しんだこの作品をここの囚人たちが理解できるのか不安に感じていました。
しかし、実際に上演されると、囚人たちは途中で監獄に帰ることも罵声を浴びせることもなく、最後まで観劇していたと言います。その時の様子を前述の「ドラマトゥルギー」から引用します。
「待つ」という行為は受け身的に思えます。しかし本当にただの受動的な行為なのでしょうか? 待つという選択自体が人生に対して何か希望を持ち、そこに意味を見出すという能動的な行為、普遍的な人間の活動なのではないかと捉えることができます。
僕たちは実際に多くのことを待っています。「結婚すれば」「大学に合格すれば」「この会社に入れば」「お金がたくさん手に入ったら」と、いつか来るのではないかという希望を漠然と持ち続けて待っています。しかし、実際に結婚してみれば面倒なこともたくさんありますし、良いことばかりではありません。大学に合格しても、そこからさらに努力する必要があります。刑務所の教誨師が語った「案外つまらないもの」の意味がそこにあります。
しかし、それからも人はまた漠然と待ち続けるのだと思います。そこに人間の尊さや悲しさがあるように僕には感じられます。あるいは「待つ」こと自体が人生のひとつの希望であり、生きていることの拠りどころになるようにも思います。「ゴドーを待ちながら」はそのような人生の問いを僕たちに投げかける作品なのです。
参考文献
1)山内登美雄「ドラマトゥルギー」紀伊國屋書店.1994
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