狭い水槽の中で生きる人々

さかなくんだったか、島田紳助さんだったか、いくつかの本で読んだのですが、魚の世界にもいじめがあるようで、狭い水槽に入れると起こるようです。いじめられる魚を他に移すと、また別の魚がいじめられる……広ければ問題ないのに狭い水槽だと起こる。でも、わかる気もするのです。

「狭い」という言葉はあまり良い意味では使われません。「視野が狭い」「心が狭い」「料簡が狭い」、とにかく悪いイメージに使われます。「広い」は逆に良いイメージに使われることが多いです。

いじめも学校の教室という区切られた空間の中でよく起こります。狭い中で他者とずっと過ごすというのは、心に何か負担をかけるのでしょうか。パーソナルスペースの話を以前に取り上げましたが(参考記事「コミュニケーションを円滑にする大切な初歩」)、それを適切に確保できないストレスが問題を起こすのかもしれません。

いじめという現象とは別に、狭い空間での問題は水槽や学校だけでなく、大人の社会でも普通に起こります。この「狭い」というのは物質的なものだけではありません。

現代日本であれば、多くの人は物理的にいくらでも遠くの世界に足を伸ばすことができます。高齢者のリハビリをしていて「昔は自分の村から一生出たことがないような人がいた」と聞いたことがあります。現在では病気など特別な事情を除いては考えられないことです。

海外旅行など行動範囲は広がりましたが、精神的にはどうなのでしょうか。自分の周囲の世界が開かれている、可能性に満ちている、そのように考えている大人がどれだけいるでしょうか。封建的であった200年前と比べれば、自分次第でいくらでも人生を開拓するチャンスがあります。しかし人生において、そのように世界を広げようとする人間は少ないと思います。自分が生きているのは身の周りの限られた場所と感じている人の方が圧倒的に多いのではないでしょうか。

逆に目的を持って、そこに邁進する人たちもある意味では水槽の中で生きていると言えます。仕事ばかりに生きて、それ以外の分野のことを全く知らなかったり、日常がおろそかになったりするというのもそれに当たります。

僕自身もパソコンの前でブログを書いてばかりいると、なんだか心がすさむような気がします。これをずっと続けるような人間は魅力もなくなり、いずれブログも書けなくなるのではないかと感じます。

「日々の生活で忙しくてそんな余裕はない」という意見もあるでしょう。しかし、それは忙しいことを理由にして面倒を避けているようにも聞こえます。例えば、育児の母親などは自由に行動できない部分もあるでしょう。でも、何日間も時間を確保する必要はなく、ほんの一時でも目がいつもと違う方に向けば気の持ちようも変わります。

物理的にも精神的にも「狭い」空間というのは人の心に負担をかけます。それにより精神的に追い詰められて、周囲の大切なものを傷つけたり失ったりするのは残念なことです。事件などで問題を起こす人というのは、自覚していないうちに、狭い世界の中に閉じこめられている状態ではないかと僕は考えています。

もし、自分がそのような状態だと思ったら、いつもの自分の世界から少し目を離してみましょう。そして、狭い世界に生きているようでも、本当は周囲に世界が広がっていることを感じてみると良いと思うのです。

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兼業作家。2023年4月『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)上梓。歴史全般が興味の対象ですが、最近は大正~昭和の文化、芸術、演劇、映画、生活史を多く取材しています。プロフィール写真は愛貓です(♂ 2009年生まれ)。よろしければTwitterのフォローもお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。