園井恵子の関連書籍・文献・映像作品

(写真:岩手町働く婦人の家「園井恵子資料室」内観 2017年撮影)

園井恵子さんに関する書籍やメディア作品はあまり多くありません。僕が伝記を書こうとしたのも、一般の方が人生を通じて見られるような書籍がなかったからです。

以前の記事でも書きましたが、僕が取材を始めた頃はすでに、直接園井さんと接していた人は証言することが難しくなっていて、伝記執筆では、これら同時代を生きた人が雑誌に寄稿したものや、本人が執筆したもの、日記などが貴重な資料となりました。

全てを載せることはできませんが、主要なものを紹介したいと思います。

書籍・文献

「園井恵子・資料集 原爆が奪った未完の大女優」

桜色が鮮やかなきれいな本です。園井さんを知る上で第1級の資料と言えます。本人が雑誌に書いた原稿、往復した手紙、同時代を生きた人の証言をまとめた形をとっていて、巻末には詳細な年譜も付いています。

この1冊があるだけでも、園井さんの多くを知ることができます。園井さんのことを知りたいと思ったら、まず、Wikipediaを読むことと、この本を手に入れると良いと思います。

書店には流通しておらず、以前は八幡平市松尾ふれあい文化伝承館で取り扱っていましたが、現在は八幡平市役所で取り扱っているようです。購入に関して詳しくはそちらでお尋ねください。

八幡平市役所 0195-74-2111

「櫻隊全滅 」江津萩枝著「さくら隊散る」新藤兼人著

園井が最後に所属していた移動演劇隊「桜隊」は、原爆投下時に広島に滞在していて、運良く他の土地にいた隊員を除いて全滅しました。

桜隊には「新劇の団十郎」と呼ばれた丸山定夫や、原爆症としてはじめて認定された仲みどりもいました。2人ともその場は生き延びたものの、後遺症で亡くなっています。

桜隊は悲劇の劇団として語り継がれていて、新藤兼人監督により映画化もされています(「さくら隊散る」)。関連の書籍には園井についても一部ではありますが触れられています。

「戦禍に生きた演劇人たち」堀川恵子著

桜隊に演出家として同行し、原爆投下時は東京にいて難を逃れた八田元夫を中心に書かれたノンフィクションです。

死後に発見された八田の手記をもとに書かれていて、八田と交流が深かった丸山定夫についても多くのページが割かれています。著者の手腕も手伝って、受難の時代に生きた演劇人たちの様子が生き生きと描かれています。

園井については、最後に過ごした桜隊の日々と、原爆投下後、広島から逃れて死に至るまでの様子が書かれています。

前述の桜隊関連書籍では分かりにくい移動演劇の背景や、戦時下の演劇の状況を知る上でも最適な書籍だと思います。

「苦楽座移動隊(桜隊)日誌 」池田生二著

桜隊の隊員であり、原爆投下時は広島から離れていて難を逃れた池田生二による当時の日誌です。「新劇」(白水社)という雑誌に1966年に寄稿されたものです。

苦楽座とは桜隊の前身となった劇団です。戦時下の政策により、移動演劇で存続せざるを得なくなり苦楽座移動隊となり、後に桜隊となりました。

著者が桜隊を離れていた時期もあり、その時期が足りないものの、当時の様子を知る上で貴重な資料になっています。

園井個人の記録は多くはありませんが、当時の生活の様子を垣間見ることができます。

この資料を手に入れたい時は、国会図書館に所蔵されていますので、遠隔複写サービス(有料)にて取り寄せるのが最も簡単だと思います。

「ガンマ線の臨終 ヒロシマに散った俳優の記録」八田元夫著

桜隊の演出家であった八田元夫の回想記です。桜隊の山陰地方公演時の記録と、原爆投下後に広島に救援に向かった時の記録(八田は東京にいて難を逃れた)、丸山定夫、高山象三、園井恵子の最後、終戦後の内輪の告別式までが書かれています。

丸山の最後の描写については、他の証言者との食い違いがあり異論が唱えられています。そのような点から正確性に若干の疑問はあるのですが、桜隊の島根・鳥取巡演などはこの書籍以外に記録が残っておらず、貴重な文献になっています。

「その日の園井恵子」くろつばき著

この文献は宝塚歌劇団の機関誌である「歌劇」の昭和28年4月号に、くろつばきという人が寄稿したものです。

くろつばきとは、園井さんの友人であった黒田弘子さんのペンネームで、園井さんが好きであった赤い椿に由来したペンネームではないかと思います。


黒田さんは個人所蔵のアルバムを岩手町に寄付されています。そこには園井さんと写った写真が数多く保存されて、親交の深さが伝わってきます。

当時、直接お付き合いがあった方の手記であり、園井さんの他では知り得なかったエピソードが書かれています。特に少女期の夢であった宝塚歌劇団を退団した経緯については、ここにしか書かれておらず、貴重な文献になっています。

もし閲覧したい方は、阪急文化財団の企業図書館である池田文庫に、掲載された「歌劇」が保管されています。あらかじめ、事前予約が必要な書籍もあるので、事前に問い合わせてから訪ねていただくようお願いします。

「青い袴30人」平井房人著

昭和12年に宝琴社出版部から出版された書籍です。著者の平井房人は漫画家で宝塚少女歌劇団の美術部に所属していました。宝塚少女歌劇のスターたち30人の入学前の生活について、それぞれ本人が語る形で収録されています。

園井恵子についても「鈴蘭の咲く丘に」というタイトルで紹介されています。

園井さんの幼少期については、同時期を生きた人の数少ない証言や、本人が書いた文章によって推測するしかありません。特に細かく記載されているのは、「歌劇」昭和13年3月号掲載の「幼き日の日記より」、「宝塚グラフ」昭和15年3月号掲載の「ふるさと」(いずれも園井恵子資料集収録)ですが、この「鈴蘭の咲く丘に」も数少ない貴重な資料になっています。

この書籍は宝塚ファンを対象にしており、全体的に少女趣味的な甘い脚色が施されていて、全て信頼できるわけではありませんが、それでも本人でしか知り得ない情報(恩師の名前、地元の慣習など)も書かれていて、本人への取材が元になっていると考えられます。

古本で時々出回ることがありますが、入手が難しい場合は、前述の池田文庫で所蔵されていますので、そちらで閲覧することもできます。

「人としての園井さん」 河崎なつ著

河崎なつ女史は、戦前から昭和にかけて、女性の権利獲得や社会進出のために活動していた教育者であり運動家です。参議院議員も1期務めています。園井さんの支援者の1人が河崎女史の元教え子で、その人の紹介で2人は出会います。園井さんは河崎女史の考え、生き方に深く感銘を受けていて、戦争末期の多くの時間を一緒に過ごしています。

この「人としての園井さん」は苦楽座や桜隊の演出家であった八田元夫の遺品から出てきたもので、園井さんの最後の時期を知る上で貴重な資料となっています。その自筆原稿には手直しの跡が多く見られ、河崎女史の園井さんへの思いが伝わってきます。空襲の日々や広島行き直前に園井さんがどのように生きたのか、女優としてではなく人間としての魅力を感じることができます。

「人としての園井さん」自筆原稿。手直しの跡が多く見られます。

後述の「草の花」その11に掲載されています。

「草の花」丸山由利亜、加藤ひろむ編集

「草の花」という桜隊で亡くなった人々を追悼した小冊子があります。原爆忌の会(詳しくは記事「園井恵子を語り継ぐ人々」を参照)の事務局長であった加藤博務(故人)と丸山由利亜(丸山定夫の姪で加藤の妻)が編集していて、丸山定夫や園井さんだけでなく、桜隊の隊員たちの足跡を紹介した貴重な文献です。

私家版の冊子で多い時にもおそらく1000部ほどしか発行されていなかったため、書店やネット通販はもとより、図書館においてもほとんどその存在に触れることができません。自分が確認している内容を記します。

その7「逝く夏の日のように」
主な記事:「原爆に倒れた〈未来の星〉羽原京子」「私は見た!『桜隊の山陰巡演』」

その8「いのちの日々をみつめて」
主な記事:「風と光りと土の香りの人 小室喜代さんを偲んで」

その9「出会いと別れ」
主な記事:「”夢は京府をかけめぐる”森下彰子さんを偲んで」「広島の桜隊宿舎の写真があった!」

その10「園井恵子さんへの手紙」
主な記事:「『切られ切られて松さんが可愛そう』園井さんの日記があった」

その11「戦後五十年いま私たちは」
主な記事:「『戦争はやめましょう』と空襲下の叫び ウチなんでも体当たりよと園井恵子さん」

その7~10は鳥取県立図書館に所蔵されています。その他については僕も現物を見たことはありません。

「園井恵子さんの日記」加藤ひろむ著

雑誌「悲劇喜劇」1995年8月号に掲載された文章で、後述の遺品の日記(昭和18年の方)について、その内容が抜粋されています。日記を直接見るのが難しい場合はこちらを見れば、おおよその内容はわかります。こちらも国会図書館に所蔵されていますので、遠隔複写サービスを用いればコピーを取り寄せることも可能です。

「宝塚歌劇の花形 園井恵子物語」丸尾長顕著

雑誌「講談倶楽部」(1938年6月1日発行)に掲載されたもので、園井さんが郷土の岩手を離れて宝塚の門を叩くところから、舞台で認められるまでを書いています。

丸尾長顕は宝塚少女歌劇の機関誌「歌劇」の編集長も務めた人物で、園井さんとも仕事柄、接する機会が多かったと考えられます。

これも脚色が多く施されていて、一種のフィクションとして捉えなくてはいけないと思う内容なのですが、父が借金の保証人になって破産したことなど、ごく私的な事実にも触れられているので、事実をベースにしたとは考えられます。

古い雑誌なので入手困難だと思います。図書館など公立の施設では見たことがありません。

「小樽市史軟解」岩坂桂二著

1ページのコラム記事ですが、小樽時代の園井さんを取り上げた珍しい文献です。著者の岩坂桂二は元市立小樽文学館、美術館の館長を務めた人物です。第51回「女優・園井恵子と小樽」と題して取り上げられています。それほど新しい情報が含まれているわけではないのですが「叔父は多助と言う。当時、入船町8-69で千歳屋という菓子屋を営んでいた(現在の入船4-12 山手循環線の南湯付近)」と書かれていて、それが小樽時代の住所のひとつの情報になっています。市立小樽図書館に所蔵されています。

その他、宝塚関係者の書籍、文献

わが青春の宝塚」葦原邦子著
葦原邦子は園井さんの1年先輩で、「アニキ」の愛称で当時の宝塚の人気を小夜福子と二分するくらいの人気でした。葦原は数多くの著書を残していて本書もその一つです。ページは少ないですが、園井さんについても触れられています。P59「青葉の六月 運動会であったこと」では園井さんが入学直後の時にあった様子、P186「園井恵子を奪った原爆ヒロシマ」ではその思いを書いています。

葦原邦子は園井の同期である大空ひろみや桜緋紗子とコンビを組むことが多く、そちらに言及されていることが多いです。しかし当時の宝塚少女歌劇の雰囲気を知る上では貴重な文献だと思います。

愚女一心」小笠原英法著
宝塚少女歌劇の同期であった桜緋紗子が自らの半生を書いた自伝です。桜は宝塚歌劇を退団後、女優を経て仏門に入りました。小笠原英法、後に日鳳と名乗り、昭和62年の園井の43回忌では法要をあげています。本書では宝塚音楽歌劇学校時代から後の舞台生活まで園井さんとの交流が書かれています(資料集でもその部分が抜粋されていて読むことができます)。

「園井恵子さんを偲んで」内海明子著
内海明子さんは芸名を加古まち子と言って、園井さんが可愛がっていた後輩で、死に際を看取った1人でもあります。本文は「年輪」という新劇に関する雑誌の1988年春号に掲載されていた文章らしいですが、僕も雑誌の実物は見たことがありません。内海明子さんの寄稿は資料集でも見ることができますが、こちらの文章の方が少し詳細に書いてあります。

「君泣くやおなじ心に 宝塚・労音・わが道」須藤五郎著
著者は宝塚少女歌劇で音楽を担当していて、音楽歌劇学校でも声楽を教えていました。園井さんが若かりし頃に思いを寄せていたのではないかという男性ですが、彼女が宝塚に来た頃にはすでに妻帯者でした。ロマンスが書かれているわけではないですが、園井さんについても交流が触れられています。少なくても、演劇や人生について語り合う仲であったようです。

映像・メディア作品

「無法松の一生」角川書店

1943年 大映制作
監督:稲垣浩
出演:阪東妻三郎、園井恵子、沢村アキヲ(長門裕之)

園井恵子さんの代表作であり、演技している姿を市販で見られる唯一の作品です。戦時下の検閲と戦後のGHQの検閲により2箇所がカットされるという憂き目にあった作品でもあります。この映画の演技によって園井恵子の名前は全国に知られるようになり、映画関係者は自分の映画に出てほしいという希望を持っていましたが、その願い叶わず広島の原爆によって亡くなります。

後に2回リメイク作品が作られて、1958年版の稲垣浩監督、三船敏郎と高峰秀子出演の作品はベネツィア国際映画賞金獅子賞を受賞しました。稲垣は「トリマシタ、ナキマシタ」と電報を送っています。そこにはすでに亡くなっていた阪東妻三郎と園井恵子への思いもあったのかもしれません。

宝塚映画「山と少女」「雪割草」「南十字星」

戦前の宝塚では1938年(昭和13年)から宝塚映画と題して映画製作事業も行っていました。そのうちの第1作「山と少女」、第2作「雪割草」、第5作「南十字星」には園井さんも出演しています。映画としてはあまり話題にならず、戦争も厳しくなって映画製作所は閉鎖されました。

戦前の宝塚映画のフィルムは長い間消失したとされていましたが、1989年、大劇場建て替えの際に、倉庫などで昭和初期から昭和40年代のフィルム約130本が発見されて、その中に戦前の宝塚映画も含まれているのが分かったそうです。 そのため現存はしていますが、DVD化などもされておらず、閲覧するのはかなり困難になっています。

「悲しき道化師」

2013年(平成25年)7月、ファンが戦前の宝塚少女歌劇を撮影した16ミリフィルムが発見され、その中に園井さんも映っていて「被爆死タカラジェンヌ舞台映像発見」(平成25年7月16日毎日新聞大阪夕刊)と話題となりました。発見された映像は1936年(昭和11年)の「悲しき道化師」で園井さんは葦原邦子に次ぐ重要な役を演じていました。

「無法松の一生」や宝塚映画はいずれも婦人役でした。この「悲しき道化師」では園井さんが宝塚で得意としていた三枚目を演じています。音声は収録されておらず(あるいは聞き取れないためにカットされたのか)動きのみの映像なのですが、コミカルな演技の様子が映っていて、他の映像にはない貴重な記録になっています。

この映像についても一般に出回っているわけではないので、閲覧するのはなかなか難しくなっています。

「生誕90周年 原爆が奪った未完の大女優 園井恵子展」(VHS)

岩手町教育委員会が編集したもので、「岩手町ふるさと再発見シリーズ③」という副題が付けられています。

2003年(平成15年)に生誕90周年を記念して、資料展とともに園井さんとゆかりのあった人物を招いて「園井恵子さんをしのぶ会」が開催されました。このビデオは主にその様子を収録したもので、今は亡き園井さんのかつての同級生や後輩、友人たちの証言も収録されています。

1度だけ現物を見たことがあるのですが「非売品」と書かれていたように思います。貴重な資料なのですが、これも入手が困難で地元の図書館にも所蔵がありません。

「夏のレクイエム 女優園井恵子と桜隊の記録」

1985年(昭和60年)にIBC岩手放送が製作したラジオドキュメンタリーで、日本民間放送連盟賞(第33回教養番組部門最優秀)、放送文化基金賞(第12回ドキュメンタリー番組部門本賞)、ギャラクシー賞(第23回奨励賞)を受賞しています。園井恵子が再び世に出た最初の動きでした。

神奈川県にある放送ライブラリーに収蔵されているので、そこで視聴できます。詳しくはホームページを参照してください。
放送ライブラリー https://www.bpcj.or.jp/

「夏のレクイエム 原爆に散った女優・園井恵子」

1992年(平成4年)にIBC岩手放送が製作したテレビドキュメンタリー番組です。こちらも前述の放送ライブラリーで視聴できますので、そちらのホームページを参照してください。

「現代ジャーナル 原爆とは知らず 女優・園井恵子の戦争」

1991年にNHKで放送されたドキュメンタリー番組で、葦原邦子、内海明子、黒井真千子(園井の同級生、芸名:社敬子)、池田生二、槇村浩吉(桜隊の事務局長で原爆投下時は桜隊から離れていた)たちが証言しています。公式の番組ホームページなどで見る手段はないのですが、下記のサイトで見ることができます。
https://sites.google.com/site/sakurataipoem/bideo-nhk

日記

園井さんの日記はほとんど現存していません。わずかに残っているのが岩手町に所蔵されている1936年(昭和11年)1月~5月に書かれたものと、八幡平市に所蔵されている1943年(昭和18年)6月~10月の2冊です。

昭和11年1月~5月

岩手町に所蔵されている本人の日記帳(1936年)

当時発売されていた「歌劇日誌」という日記帳に書かれたもので、昭和11年1月~5月の期間書かれています。毎日書かれているわけではなく空白の期間の方が多いです。芝居の悩み、交友関係の憤りなども書かれていて、園井さんの人間的な一面を垣間見ることができます。一部を紹介します。

やっぱり吉ちゃんはこんなものがいい。すうと美しい2枚目。表情も素直だし、セリフも柔らかい、いい感じだ。お化粧も美しい。(1月5日)
吉ちゃんとは1年先輩の春日野八千代(愛称が「よっちゃん」だった)のことで、舞台を観劇した感想を書いています。春日野八千代は園井さんの死後に「歌劇」誌上で追悼の文章を書くなど、お互いの演技を認め合う関係だったのではないかと思います。

何物かを握もうとたえず勉強しているつもりなのに、何かしら目に見えぬ力がぐいぐいとそれを押し倒して行って終う様な気がする。

何がなしに頭の中に崖ありて
日毎に土のくずるるごとし
啄木のこの歌がしきりにうかぶ。
非凡なる人のごとくにふるまえる
後の淋しさ何にたぐえん

自分が舞台生活で得た役とか表現を親しい人達と話合っている時にさえ、ふとそんな歌が頭を中を横切る。

ここに書かれている歌は石川啄木のもので、同郷の詩人と自身の苦悩を重ねています。この時期の日記は出来事よりも心の動きを書き記していることが多く、その多感な内面がうかがえます。

こちらは普段は岩手町の園井恵子資料室に所蔵されています。イベントの都合などで移動していることもありますので、あらかじめ問い合わせて訪ねることお勧めします。

昭和18年6月~10月

こちらはメモ帳に書かれたもので、八田元夫の遺品の中から見つかり、八田の弟子から丸山由利亜のもとに届けられ、丸山から松尾村に寄贈されました。

八幡平市に所蔵されている本人の日記(1943年)

こちらも毎日書かれているわけではなく、空白の期間が多く見られます。宝塚歌劇団を辞めた桜緋紗子が結婚する直前でありその様子や、苦楽座(後の桜隊)にいよいよ足を踏み入れようとしている動きが書かれています。園井本人としては新劇の名優や演出家の中で演技が磨かれていくことに充実感を感じているようにも見えます。1936年の20年代前半とは違い、感情をぶつけるだけでなく、ものごとを見る姿勢にも落ち着きが出ているように思います。

こちらは八幡平市が所蔵していて、以前僕が岩手を訪れた時は八幡平市松尾ふれあい文化伝承館が所蔵していました。こちらにおいても、見学を希望する場合はあらかじめ問い合わせた上で訪問することをお勧めします。

まとめ

園井恵子さんを知る上で主要な書籍、文献、映像作品などを紹介しました。入手困難なものもありますが、図書館のサービスなどを利用して上手く閲覧していただければと思います。これだけの資料を見れば、園井さんの人生について多くを知っていただけるのではないかと思います。他にも伝記執筆において参考にした資料はあるのですが、それらについてはまた別の機会に紹介したいと思います。

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思索にふけるのが好きな無名の作家・ブロガーです。職業は理学療法士、整体師。特技はオセロ(五段の実力)です。将棋、競馬など勝負ごとやゲームも好きですが、最近はブログが忙しくてあまり手を付けられていません。ブログに興味を持っていただいた方は、更新情報もつぶやくので、Twitterのフォローをお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。