園井恵子という女優

宝塚歌劇の発展に貢献した人物を顕彰者として紹介する「宝塚歌劇の殿堂」、最初は100人が発表されましたが、その後も少しずつ追加されていきました。

2019年5月、新たに105人目の顕彰者として園井恵子さんが選出されました。園井恵子の名前を知っている人は、かなりの宝塚ファンか映画通ではないでしょうか。

園井恵子(雑誌「エスエス」昭和14年6月号より)

園井恵子は1913年(大正2年)8月6日、岩手県の生まれで本名は袴田トミと言います。祖父が村長という裕福な家でしたが、昭和初期の恐慌で家の経済状況は傾き、トミは通っていた女学校を中退します。その後、トミが活路を見いだしたのは幼い時から憧れだった宝塚少女歌劇(現在の宝塚歌劇)でした。

現在と違い、情報もほとんどない時代にトミが取った行動は、家出同然で家を飛び出し、単身宝塚に向かうことでした。1929年(昭和4年)6月のことです。すでに宝塚では受験が終わって新学期が始まっていました。当然、帰るように説得されたと言いますが、最後は熱意に負けたのか特例として試験を受けさせてもらい、トミは宝塚音楽歌劇学校に入学します。このような入学の経緯は、長い宝塚歌劇の歴史でも園井恵子だけかもしれません。

1年先輩には「宝塚の至宝」と呼ばれた二枚目男役の春日野八千代、「アニキ」の愛称で戦前宝塚の人気を小夜福子と分け合った葦原邦子がいます。同期にも平成まで宝塚に在籍した神代錦がいます。そこでトミは名脇役として宝塚一の芝居巧者と言われるほどの評価を得ます。

デビューの頃(園井恵子資料集より)

1942年(昭和17年)に宝塚歌劇を退団して、映画と新劇に新しい道を見出します。1943年(昭和18年)戦前映画の名作「無法松の一生」にヒロイン・吉岡未亡人役で出演、阪東妻三郎を相手に好演技を見せて、その名前は全国に広がります。

その後、園井は戦時下の移動劇団「桜隊」に身を投じ、各地を慰問します。そして慰問先の広島で被爆し、その時は無傷に見えたのですが、後遺症が現れて、避難先の神戸の支援者のもとで亡くなります。32歳の若さでした。

原爆がもとで若くして亡くなったという悲劇性が人を引きつけるのか、時々、園井恵子の名前は新聞やネットニュースで取り上げられます。

そこには「悲劇の女優」「被爆死のタカラジェンヌ」というコピーが付けられます。確かに、それも園井恵子の1面ではありますが、それだけではない不思議な魅力が彼女にはあるように思います。

終戦直後は園井の名前を思い出す向きも見られましたが、徐々に人々から戦前の女優の記憶は薄れていき、一時期は時代の地層の中に埋もれて、忘れられた存在になっていました。

世の中に再び園井恵子の名前が思い出されたのは、小学校高等科時代の同級生・渡辺春子さん(故人)が、IBC岩手放送の戦争体験募集に亡き友人への思いを寄稿したのがきっかけでした。

郷土の放送局もそこで園井の存在をはじめて知りました。1985年(昭和60年)10月、同局でラジオドキュメンタリー番組「夏のレクイエム~女優・園井恵子と『桜隊』の記録」が放送されて、それは数々の賞を受賞しました。

1989年(平成元年)には故郷である岩手県松尾村が『園井恵子・資料集 原爆が奪った未完の大女優』を編纂しました 。この資料は巻末に詳細な年譜も付いていて、現在に至るまで園井恵子の足跡を知る上で貴重なものになっています。

1995年(平成7年)園井が幼少期を過ごした岩手町の有志や、かつての同級生たちなどが「園井恵子を顕彰する会」を発足しました。この会はメンバーの高齢化などの事情で後に解消されましたが、現在は「園井恵子を語り継ぐ会」がその事業を引き継いで、園井に関する啓蒙活動を行っています。

1996年(平成8年)には宝塚在籍時代を象ったブロンズ像(加藤豊 制作)が完成し、「岩手町働く婦人の家」敷地内で地元の小学生による序幕式が行われました。

この他にも岩手町では生誕後や没後の節目にイベントが行われ、新聞やメディアでも時々名前が取り上げられます。2016年(平成28年)には詩森ろば演出で舞台「残花 1945 さくら隊 園井恵子」が上演されました。詩森はこの演出などが評価されて、第51回紀伊國屋演劇賞個人賞を受賞しています。

このように園井の名前は現在に至るまで、様々な人により語り継がれています。

宝塚で最後の舞台となった「ピノチオ」(写真:岩手町所蔵)

僕と園井さんとの関わりは全くの偶然から生まれました。リハビリの仕事で先輩に同行して訪問したお宅が、偶然にも前述の渡辺春子さんのお宅だったのです。

大阪芸大在籍時にレポートで「無法松の一生」についてまとめたことがあり、園井恵子の名前は知っていましたが、当時の愛知県内の図書館には園井について書かれた書籍はほとんどなく、興味は持っていたものの深く調べることもなく月日が流れていました。

当時、すでに春子さんは園井さんのことを話せる状態ではありませんでしたが、家族の方が色々とお話してくれました。

それをきっかけにして、僕はその後、6年ほど園井さんの伝記を執筆する作業に取り組みました。故郷・岩手県を中心に多くの人々の協力を得ながら、完成させることができました。現在まで出版には至っていませんが、この活動では自分の作家として、人生において得難い貴重な経験をさせてもらいました。

僕が取材を始めた時点で、園井さんと生前に交流があった人々は多くが亡くなり、生存していたとしても証言を引き出せる状態ではありませんでした。

そのため取材では、証言者と接した人たちからの伝聞や、多くの書籍や文献を紐解く作業が多くなりました。それを続ける中で、多くの人たちが園井さんの記憶を残すべく記録や証言を残していることがわかりました。それはまさしく糸を紡ぐようで、もしその人がいなければ、その時の記録は永遠に闇の中であっただろうと思われる箇所がいくつもあります。

その糸というのは、不思議な縁でつながっているように思います。僕と渡辺春子さんが会ったのも春子さんが亡くなる直前で、結果的に1度お会いしたのみでした。

今思うと、何か園井さんの記憶を残すために強く引き寄せられたような、そのような感覚を覚えます。そして、取材においても導かれるように人や資料と出会えました。普段は霊的なことをあまり信じない僕ですが、園井さんに関しては何か不思議な力が働いているように思います。

このブログではこれから園井恵子のことを知りたいという人のために、ゆかりの地や関連施設、書籍などの案内をするとともに、取材はしたものの伝記からは割愛された情報も書いていきたいと思います。

ガイドブック的な内容から、超マイナーな話まで少しずつ紹介していきます。

園井さんの人生の概要については、Wikipediaがよくまとまっていると思います。僕が取材を始めた2010年頃は、今よりずっと内容に乏しかったのですが、ずいぶんと充実したように思います。そちらも見ていただけると良いと思います。

このブログで園井恵子さんに少しでも興味を持っていただけたら幸いです。

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ABOUTこの記事をかいた人

兼業作家。2023年4月『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)上梓。歴史全般が興味の対象ですが、最近は大正~昭和の文化、芸術、演劇、映画、生活史を多く取材しています。プロフィール写真は愛貓です(♂ 2009年生まれ)。よろしければTwitterのフォローもお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。