「人を見る目」に関する考察

「人を見る目がないんです」という人がいます。

人生において「人を見る目」は大きな影響を及ぼします。前記事「運が良くなる10+αの法則」でも書きましたが、その人に運が良い要素がたくさんあったとしても、付き合う人間によっては全てを壊してしまうくらい重要なものです。

異性と付き合ってもすぐ別れてしまう人や、信頼していた人に騙されて手痛い経験をした人にとっても、人を見る能力というのはとても大切になってきます。

「ダメな異性ばかり選ぶ」という人がいます。ダメ男やダメ女が好きというわけでもないのに、いいなと思って付き合ってみると、毎回そうだと言います。1回や2回ならともかく、毎回同じ場合は選ぶ本人に問題がある場合がほとんどです。深層心理でダメな相手を望んでいるのか、相手をダメにしてしまうかどちらかです。このようなパターンについては、またどこかで記事を書きたいと思います。

元タレントの島田紳助さんは著書の中で「酒を飲んだり飯を食ったりしなくても、話せばどういう人間かくらいわかるだけの目は養ってきたと思っている」と書いています(「ご飯を大盛りにするオバチャンの店は必ず繁盛する」幻冬舎新書 P114)。そのように少し接しただけで相手を判断するようなことが可能なのでしょうか?

相手がどのような人間か、ある程度は会ったその時にわかると思います。明るい人、暗い人、外向的な人、内向的な人など、外見や話す仕草はその人の性格を反映させます。見る目が鋭い人であれば、初対面で受けた印象は9割以上当たると思います。

お見合いで最初に会って「この人はダメ」と思ったものの、見た目や条件が良いからしばらく付き合ってみたけどやっぱりダメだったという話を何回か聞いたことがあります。この場合は直感が正しくて、情報が判断を鈍らせたケースと言えます。

しかし、反面でその9割に当てはまらないケースがあるのも事実です。僕も仕事で人の評価を見誤ったことがあります。中途で職場に入ってきた方だったのですが、一日、自分に同行して仕事の見学をしていました。話をしてみると、知識もあり、何よりも向上心があるようでとても有能だと感じました。何より自分と話がよく合ったので、これから頑張ってくれるだろうと期待していました。その人は部署が違ったのでそれ以来会わなかったのですが、ある日、突然会社を辞めたと聞かされました。上司を休みの日に呼んで、預かっていた備品一式を渡してろくに理由も言わずに退職を告げたということです。後々に分かったことですが、会社には偶然その人と以前に一緒に働いた人がいて、その時の職場も急に辞めて周りが迷惑したそうです。そのような性質を持っている人ということで、その時は自分の人を見る目を恥じたものです。ちなみに「何か事情があったのかもしれないね」と同僚に話したら「それは人が良すぎますよ」と言われました。

最初に会った時はあまり好印象を持たなかったけど、途中から意識が変わり、結婚して仲睦まじい夫婦になったという話もよく聞きます。最初の直感だけにとらわれても、相手を見誤る場合があるということでしょう。

結局のところ、最初の直感と後から受けた印象をバランス良く組み合わせることが大切なのだと思います。自分が直感を重視するタイプだと思えば先入観を少し調節することを考えて、情報に惑わされやすいと思えば、素直に受けた印象を少し大切にすると良いと思います。

僕自身「人を見る目を誤った」と思ったことは他にも何度もあります。その中で気付いた教訓をいくつか紹介したいと思います。

自分にとって心地よいことばかり言う人を信用しない

相手の良いところをことさら強調したり、これでもかと言うくらい褒めてくる人を僕は信用しません。僕は一市民に過ぎませんが、歴史を見れば過去に多くの指導者がこのような悪臣によって、その基盤を揺るがされて、場合によっては滅びています。現代もイエスマンばかりを集めた会社が大きな問題を起こすのをよく見かけます。

本当に信用に足るのは自分にとって良いことも悪いことも虚心なく話してくれる人です。相手の心地よいことだけ並べる人は、多くの場合、その人のためではなく自分のために話しています。本人が意識しているかは別にして、相手に好意を持たれることや、保身や利益のために言葉を発しています。そのような人のもう1つの特徴は他人の批判や悪口が多いということです。それらがなくて、ただひたすら褒める人はもしかしたら、まれに見る善人なのかもしれません。

話を盛る人を信用しない

話を大げさに話す人も信頼できません。その人の話を聞いて、実際に自分の目で確かめてみると、言うほど大したことがなかったというケースがあります。物を大げさに話すというのは、ある出来事から必要以上に大きな刺激を感じているということで、そのような人は感情的に不安定な場合が多いというのが、僕が受けている印象です。何かのきっかけで攻撃的になったり、強く依存してくる可能性があるので、必要がなければ僕は距離を置くようにしています。

安易に約束する人を信用しない

騙されたという話を聞くと「なんでそんな話を信用したの?」と言いたくなることがしばしばです。そして、そのような相手はたいていが安易に約束をする人のように思います。女性を口説く時に約束をするだけして、その約束が守られないというのもこのケースです。

僕は約束とは重いものだと思っているので、達成できるかわからないものを安易にできません。それを軽々しくしてしまう人を信用しないのも納得していただけるのはないかと思います。ただ、実行力が飛び抜けてある人もいますので(そのような人はむしろ強く信頼できる人です)、いくつかの約束とそれが実行されるか見定めてから、その人の判断をしても良いと思います。しかし簡単に約束する人は多くが実行力に欠けた人たちだと僕は考えています。

人の評価を簡単に下す人を信用しない

「あの人は○○だ」「この人は○○だから」と口癖のように言う人がいます。また噂話で人を判断してしまう人がいます。人間は多面性を持っていて一言で善悪を断じれるものではありません。ある傾向について論じることができても、その人すべてをわかった気になるのは非常に危険な考えです。そのような判断をしてしまう人は、思慮が到らず、軽い気持ちで話している可能性もあるので、こちらも軽率にその言葉を鵜呑みにしないようにします。間違っても噂話を広げたり、悪口に乗らないようにします。

若い時は、僕も他人が話す内容で人の判断をする時がありました。それで失敗したことも何回かあります。他人を軽率に判断してしまうことは、すなわち自分の思慮の足りなさを周囲に知らせることでもあるのです。

自分を大きく見せる人を信用しない

肩書きに固執したり、自分をことさら有能に見せようとする人もあまり信用ができません。そもそも本当に能力がある人は、肩書きに頼る必要も、自分を有能にアピールする必要もないからです。

行きつけの床屋さんにある議員の名刺が置いてありました。「髪を切る時、気を遣うよ」と床屋のお兄さんが話していました。何か理由があったのかもしれませんが、床屋に行くのに議員である肩書きが必要なのでしょうか? 少なくても市民との感覚がずれていることはよくわかりました。

信用に足る人というのは、裸一貫になっても勝負ができる人です。無一文になっても会社から出ても、そこで勝負できる人です。バイトしてでも自分の(あるいは家族の)人生に責任が持てる、そのような人です。そういう人は魅力的で、放っておいても周りに人が寄ってきますし信頼を集めます。肩書きに固執する必要も有能さをアピールする必要もないのです。

まとめ

「人を見る目」について、実際に自分が基準にしている内容の紹介も含めてまとめました。僕が人を判断する考え方は他にもありますが、「悪口を言う人」とか「感情の起伏の激しい人」とか、誰が見ても明らかに信頼に値しないケースはここでは書きませんでした。

振り返ると、人の判断を誤る時というのは、自分に見る目がなかった時もありますが、相手が巧妙にカモフラージュしていた時もあります。

「人を見る目がなかった」というのは、結果的に相手に騙されたと解釈することもできます。そのような相手というのは、意識しているかは別にして巧妙に自分を偽ってきます。詐欺が相手の欲につけ込んで騙すように、人の評価を誤るのも、どこかでその相手につけ込まれる心の隙があることが多いのです。

その心の隙というのは、単純に無防備であることもありますし、劣等感であったり、自分の心の弱点であったりもします。そこを騙す相手は鋭く突いてくるのです。

村を外壁で囲んで門を閉ざしてしまえば、外から誰も入って来られません。自分たちが望む人も入ってこられませんし、簡単に外に出ることもできなくなります。かといって何もかもフリーにすればつけ込まれる可能性があります。そのバランスが難しいように思います。

そのために普段から人間をよく観察して、自分の中に人を判断する基準やセオリーをいくつか考えておくことは有用に思います。生物の身体には数々のフィルターがあります。ある物質は通過できても、ある物質は通過できないというものです。「人を見る目」においてもそのようなフィルターを作ることは役に立つと思います。そのフィルターを警告に使いながら一方で偏り過ぎないように、柔軟にバランスを保ちながら人を見ていくのが良いと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


ABOUTこの記事をかいた人

兼業作家。2023年4月『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)上梓。歴史全般が興味の対象ですが、最近は大正~昭和の文化、芸術、演劇、映画、生活史を多く取材しています。プロフィール写真は愛貓です(♂ 2009年生まれ)。よろしければTwitterのフォローもお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。