誰もがうらやむ才能がある人や、若いうちに自分が望むレールに運良く乗れた人とか、そういう人も確かにいて、それは除きます。
一方で、何か達成したいことがあったり、向上心があるけど、なかなか上手くいかず、もがいている人が多くいます。僕も含めて、そのような人たちが知っていた方が良いんじゃないかな? という考え方です。
世の中では、道徳や倫理が幼少の頃から教えられますが、社会は必ずしも善人に良いようにはできていません。また、努力した人間が必ずしも報われず、惨めな境遇に陥っていることも少なくありません。
それを見ると、因果の法則を疑い、徳を積むことや努力の効用に疑問を持つ人も少なくないかもしれません。
僕も今日の出勤中にたいへん乱暴な運転をする車を見まして、周囲が事故を起こさぬよう配慮していたのですが、その車はそれを尻目にスイスイと進んでいきました。
この車の運転手はすぐに事故を起こしたわけではありませんが、周囲に配慮して譲り合う運転手と、どちらが事故を起こしやすいでしょうか? おそらく、乱暴な運転をする方が事故を起こす確率は高くなるでしょう。
ただ、その確率差は、せいぜい0.X%、あるいは0.0X%ほどかもしれません。
周囲に気を配る模範的なドライバーが大きな事故を起こすこともあれば、危険極まりない運転をするドライバーが一生無事故で過ごすこともあります。
おそらく普段の努力と結果の関係も同じようなものなのだと思います。懸命に努力したところで、目標に達する可能性はすぐには上がりません。大きな目標であれば、目標への達成度は、前述同様に0.X%とか0.0X%の範囲かもしれません。
努力を客観的に評価するということは、その小さな差をどう考えるかです。努力したから必ずしも報われるわけではないですが、そうでない人に比べれば、わずかかもしれませんが確率が上がります。
より効率的な努力にすれば、向上する%も上がるでしょう。しかし、それでも確率の上昇はそんなに高いものではないと考えられます。
どのような練習が目標により近くなるのか、考える必要はありますが、結果を欲張りすぎて、いつまでも計画を考えて実行に移せない人が多くいます。
そのような人は、努力したとしても上がる確率はごく小さい、という本質を知っておくことが大切だと思います。
野球で1回素振りをしても、ヒットを打てる確率は全く上がらないでしょう。毎日、練習後に残って素振りを100回していれば、もしかしたら0.0X%くらいは上がるかもしれません。
そのほんのわずか可能性が上がる行為に、喜びが見出せるかが上達のポイントのように思います。そして、努力を続けていくうちに上昇率がある時に跳ね上がって、上達が手応えとして感じられるようになります。
俗に言われる「壁」を超えた状態というのも、この状態だと思います。そこまで続けた時にはすでに周囲とは大きな差がついていると考えられます。
これは目標と努力というケースにだけ当てはまるものではありません。
人間関係において、自分勝手だったり、他人に迷惑かけてたりする人は、他人との良好な関係に少しずつヒビを入れていきます。それは最初のうちはごくわずかでも、次第に積み重なると修復可能な大きな損傷になります。
逆に普段から他人に気を使い、善行を積んでいる人間は、わずかずつですが信頼が築かれていきます。
総じて言えることですが、下降の率は高く、上昇の率は低いように感じます。銀行で借金の利息は高くて、貯金の利率が低いのと似ている感があります。
努力すれば、必ず結果が出るわけではありません。そこに矛盾を感じますが、少なくても努力が結果の確率を上げる行為と考えれば、納得できるのではないでしょうか。
大きな目標を達成する人、自己実現する人、成功する人というのは、そのわずかな確率を上げる行為に全力を尽くし、徹底できる人と言えるでしょう。