〈アイキャッチ画像は、丸善丸の内本店3階 Cafe 1869 より〉
台風7号がいよいよ上陸に迫った2023年8月14日の午前。前日までワークショップを受けて東京に滞在していた僕は、名古屋に帰る前の時間を使ってシナリオ・センターの大前玲子先生に会うことにした。
大前先生は北青山にあるシナリオスクールの老舗、シナリオ・センターの大人気講師である。シナリオ・センターが外部で大前先生の宣伝をする時、人気№1講師と銘打つこともある。真実を確かめる手段はないけど、これは大げさではないと思う。先生の教え子の中からは実際にプロのライターになった人間が何人もいる。
僕は20代の前半からシナリオを学んでいた時期があった。手塚治虫に憧れて漫画家になりたかったが、絵が絶望的に上手くならず、シナリオならできるんじゃないかと門を叩いたのだった。
シナリオ・センターは東京、大阪教室がメインで、横浜でも一部開講している。しかし名古屋在住の自分は通うことは困難で、通信生として学ぶことにした。通学生も一緒なのかもしれないが、センターのカリキュラムは基礎科、本科、研修科と続いていて、各科の中にテーマがずらりと並んでいる。最初はペラ(200字詰原稿用紙)数枚、過程が進んでいくと20枚シナリオという形式になり、テーマに沿って課題を書く。20枚以上はどこまで行っても増えない。
この「20枚シナリオ」という学習方法は、シナリオ・センターの創設者・新井一氏が始めた学習方法でシナリオ・センターの指導基盤となっている。
通信生として始めた僕は課題を提出して、添削された原稿用紙を見て、また次ということを繰り返した。基礎科は坂井昌三先生、本科は江田昌子先生、研修科はまた坂井先生だったように思う。本科くらいになると少しは書けるような気になってコンクールにも出し始めた。コンクールに出す味は一種の麻薬のようなもので、もしかしたら受賞して華々しく脚光を浴びるかもしれない、その可能性の低い快楽を想像して、その楽しい夢想が増えるに従い、地道な普段のカリキュラムが手につかなくなった。
次第に課題を提出する速度が鈍りはじめ、ようやく本科を卒業して研修科に歩を進めたものの、そこでどうしても20枚シナリオが書けなくなり、そこでドロップアウトした。僕はコンクールのシナリオを書き続ける生活に入った。
シナリオ・センターには「シナリオ診断」という有料サービスがあって、コンクール応募作など作品を事前に提出すれば、講師が批評してくれるというものだった。自分が書いたものがどのように評価されるかというのは、創作する人なら誰もが気になることだと思う。カリキュラムこそ続かなくなった僕だが、シナリオが上手くなりたいという意欲は強いままで、コンクールに提出する前にはほぼ必ずこの「シナリオ診断」を受けるようにしていた。
シナリオ診断は郵送で批評をもらうことも可能だが、通学生やシナリオ・センターに足を運べる人は講師と会って直接診断を受けることもできた。
何回かシナリオ診断を受けた後だったと思う。その時は東京に足を運ぶ用事があり、そのついでにシナリオ診断も直接受けてみたいという衝動に駆られた。
まだ20代真ん中くらいだったと思う。はじめて北青山のシナリオ・センターに足を踏み入れた。センターは入り口に入ってすぐに事務所があり教室は奥にある。事務所の人が優しくそちらに案内してくれた。
教室は午前と午後のクラスの間で誰もいなかった。そこで座って待っていると当時、40代? 50代? の大前先生が部屋に入ってきた。「わざわざ東京まで来て熱心ね。こちらも一生懸命やらなくちゃって思ったわ。本当は私を指名してくれていたらベストだったけどね。うふふ、冗談冗談」と悪戯っぽく笑うと、自分の斜め前に腰掛け、ビッシリ書き込まれたプリントと僕のシナリオを鞄から出して机に置いた。
先生は作品全体の印象について一通り話した後、シーンそれぞれについて指摘した。シナリオには至るところに付箋が挟み込まれて、赤字でびっしり書き込みがされていた。
同じシナリオ・センターのシナリオ診断でも原稿用紙1枚ほどに当たり障りのないことを書く講師もいる。大前先生はそれと対極で、溢れんばかりの熱意を惜しみなく注ぐ。
「あなた、ストーリーテラーとしては才能あるかもしれないけど、シナリオはね、ストーリーを書くものじゃないの。葛藤と対立、それがドラマなの」
大前先生の指導は基本的に10年以上何も変わらない。「葛藤」「対立」これがメインである。10年近く指導を受けて、同じ言葉を何度も繰り返し聞いてきた。それがドラマの本質だからだろう。
1時間ほどの面談を終えて僕の内面は心地よい充足感に満ちていた。自分のシナリオや技術の欠点を知り、それを克服することで向上する可能性を実感したからだった。「上手くなる」ことは何よりも嬉しい。
その日は直後の大前先生のゼミに参加させてもらい、たくさんの気付きを胸に名古屋に戻った。心にお土産をたくさん持たせてもらったような気持ちだった。
それからコンクール用の作品を書き上げる度に、大前先生を指名してシナリオ診断を頼んだ。何回も大前先生指名で送られてくるので事務の方も名前を覚えてくれたらしい。人気講師の大前先生は多忙で、一時はシナリオ診断の依頼もずっと断っていたという。
僕のシナリオが届いた時、事務の方が「大前先生、今、シナリオ診断とか無理ですよね?」と聞き、先生が「ごめんなさい、今ちょっと忙しいの」と答えた時でも「そうですか、千和さんなんですけど、そう返事しておきますね」と一言添えてくれた。「千和さんなの? わかった、見るわ」と受け取ってくれたエピソードを大前先生から後で聞いた。
当時の事務所の人には色々と優しくしてもらった。足をろくに運んだこともないのに名前を覚えてくれて、初めてシナリオ・センターを尋ねた時も、熱心な生徒と思い、当時すでに人気だった大前先生を厚意でセッティングしてくれたのかもしれない。
大前先生はよく怒っていた。自分のことでなく他人のことでも怒っていた。たいていは理不尽な人間関係や業界に対してだった。ある時は「コンクールの募集要項に年齢のことが書いていないのに、年齢を受賞の要素に入れるのはおかしい。抗議しようと思う」と怒っていた。教え子が受賞直前で落選したがその理由に年齢が含まれていたのか、そのような事情だったと思う。
先生はとにかく筋が通らないことが嫌いで、現役時代に関係者と喧嘩した話は何度も聞いた。結局、脚本家の現役を退いたのも関係者と折り合いがつかなかったのが一因だった。「私、生意気だって思われていたの。脚本の質でどうこう言われるのはわかるけど、性格でどうこう言われるのは我慢できなかったのよね」。
生徒もズルをする人は嫌い、でも一生懸命な人は好き……どの生徒にも博愛的に接していると思っていた僕は、最初に先生からその言葉を聞いた時に意外に思ったものだった。ある人が「大前先生は生徒が活躍した時、少しでも悔しいという思いは沸かないのですか?」と聞いたという。先生は「それは全くない。生徒が活躍したら自分のことのように嬉しい。生徒に悔しいと思う人は講師をやったらいけないと思う」という。そして、シナリオ講師という職業が楽しくて仕方ないという。
「何歳になっても未熟で青臭いって言われる」という大前先生の言葉は、生き方そのものを表しているように思える。
僕はコンクールに応募する毎日を過ごしていたが落選を繰り返した。2011年に「第35回NHK仙台放送局オーディオドラマ脚本募集」で審査員奨励賞をいただいたが、それが唯一の受賞だった。その時、シナリオを学び始めてすでに10年ほど経っていた。
その後、僕は仕事の訪問リハビリで巡り会った偶然の出会いをきっかけに、戦前に活躍した女優の園井恵子さんの取材を始めた。シナリオから離れて、大前先生に作品を見てもらうこともなくなった。ただ、暑中見舞いや年賀状で近況報告はしていて、先生は律儀に返事をくださり、そしていつも励ましてくれた。
師匠というものは存在がとても嬉しいもので、師匠が喜んでくれるのがまたこちらの喜びになる。名古屋在住のシナリオライターで知人の、いとう菜のはさんは「麻創けい子門下」を名乗っているけど、その気持ちはすごくよく理解できる。大前先生は「弟子ではない」と言うけど、こちらから勝手であっても門下生と名乗ることが嬉しいのである。
ドラゴンボールで悟空がいつまでも亀仙人の武闘着を身にまとっているのも、同じ気持ちなのではないかと個人的には考えている。
2020年に取材の成果をもとに自費出版で『流れる雲を友に 園井恵子の生涯』を出版した。大前先生はたいへん喜んでくれてシナリオ・センターの機関誌『シナリオ教室』の「卒業生の活躍」欄に掲載を働きかけてくれた。
そして、自費出版本が出版社の目にとまり、2023年4月に『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)として加筆修正の上で企画出版された。
本屋で平積みになり、店員さんのポップも作ってもらった。雑誌や新聞に取り上げられて、8月6日の移動演劇桜隊(園井恵子さんが最後に所属した劇団)の追悼会では講演もはじめて経験した。若い時から夢に見ていたことがここ3ヵ月ほどの間に次々に実現した。
大前先生も我がことのように喜んでくれて、新聞で記事を見つけるとその度に知らせてくれた。僕も先生に報告ができて何より嬉しかった。
ここにきて僕には新たな願望が生まれていた。一受講生に過ぎない身として、これまでお会いするのはずっと控えていたけど、長年の夢である企画出版も実現したことだし、今だったら一回くらいお会いしてくれるように頼んでも良いのではないか。意を決してメールしてみると、お盆期間の休み中ならということで、ワークショップの帰りにお願いした。長くなったが、お会いするまでの経緯はこんなところである。
東京駅前にある丸の内オアゾ。「丸善」丸の内本店も1階~4階に展開していて、もはや全国的に希少になってしまった超大型書店を体感できる。スペースがどんどんなくなる全国の書店の中で、ここでは1冊の本をこれでもかというほど贅沢に場所を使って陳列している。
そのオアゾビルの3階にある「Cafe 1869」。待ち合わせ時間に少し遅れて店に入ると、大前先生はすでに到着してコーヒーを飲みながら待っていた。
10年以上お会いしていないのだが、先生は以前と変わった様子はなく、若いままの雰囲気を維持していた。
「私、最近『怖い』って言われるの。受講生が『シナリオ・センターで一番怖いと聞いて来ました』って言うのだけど、たぶん褒めているつもりだろうけど『怖い』って言われるの、意外にこちらはダメージあるのよね」
苦笑いしながらの開口一番がそれだった。大前先生の熱心な指導はシナリオ・センターの評判で、ゼミは希望していても定員に入れない人もいるくらいだ。授業中の先生は熱意の塊だが、その素顔は、素直で可愛らしい。
僕は8月6日に生まれて初めて講演する機会があったのだが、その話を聞くと大前先生も自身の壇上での経験について話し出した。
「私ね、人前で話なんて全然できないの。本当、足がすくんで歩けなくなるの。ある地方のシナリオ教室で何回かに分けて依頼を受けてね。そこでは1回目、2回目の時は『シナリオ・センターで大人気の、美しく、頭脳明晰で……』なんて最初紹介してくれたのね。そうしたら、何だか自分が本当にそんな存在のように錯覚して、それでしゃべれたのね。まさに演じているみたい。でも、司会の人が3回目から紹介を省いたのね。そうしたら、急に足がすくんで動けなくなって。素の大前玲子じゃ話せないのよ。私思わず『この間までは、美しくて、頭脳明晰で、なんて紹介してくれたのに、そう言ってくれないと話せない!』って言っちゃったの。大受けしたんだけど、私本気なのよ!」
壇上に何回も上がる大前先生を見ているので、若干オーバーにも思うのだが、そういえばシナリオ・センターの講演で大前先生が話す時は、小林幸恵先生が「カリスマ」「アイドル講師」と紹介していたのを記憶している。それは小林先生のマジックだったのかもしれない。
大前先生はご自身を、様々なことに次々に関心を持つタイプという。
最近、先生は「ゆるゼミ」という企画を始めた。コンクール受賞やデビューを価値観の頭に置くのではなく、書く楽しさを大切にするクラスにしたいと話していた。
自称60歳以上が条件で、小泉さんという講師をパートナーに置いた。彼女を講師にした理由は「年をとるのは素晴らしい」という価値観を体現しているからだという。「シナリオ・センターでやらないなら他でやるって言ったの。そうしたらウチでやるからって話がまとまったわけ。でもやって良かったわ。私楽しいし、みんなも楽しそうだもん」。
先生の中にはひとつの疑問がしばらく住み着いている。それは「夢を持つこと」への疑問である。1年前の暑中見舞いには「一生懸命シナリオに取り組んでいるゼミ生たちを見ていると、ふと考えてしまうのです。夢を持つって本当に幸せなことなんだろうか、なんて」と書かれていた。
たぶん、「ゆるゼミ」もその疑問の先にたどり着いた取り組みのひとつなのだろう。
この日も先生は「夢」についてよく話していた。暑中見舞いから1年以上も経っているのに、それが頭から離れないというのは、先生にとって避けては通れない向き合うべき大きなテーマであり壁なのだろう。
先生は「一生懸命やっても、どうしても夢が叶わないことってあるでしょう?」という。多くのプロを輩出してきた一方で、そうでない生徒もたくさん見てきたからだろう。
「夢は持っていた方が良い、そうに決まっているのだけど」と心の中で結論はすでにあるのだが、「だけどね」と言葉が続く。先生の思考に根深く杭を打ち込んでいるのだ。
「先生の生徒たちでプロになった人たちは何人もいるでしょう? その人たちはプロになれない人と何が違うのですか?」と僕自身がとても気になる疑問を聞いてみた。
「それは、人から言われなくても自分からどんどんやる、エネルギーに満ちたタイプね、伸びていくのはみんなそういう人だと思う。あなたはどう思う?」。
「僕の知っている人でもプロになった人はいますけど、まあ、これだけやっていれば、それは結果が出るよね、というそれなりのことをやっていますね」
「そうよね……」
ずっと教えてもらうだけの存在だった自分が、大前先生とあるテーマについて話しているのがとても不思議だった。でも先生が直面している「夢」というテーマについては、僕はたくさん語れる自信があった。
僕は10代の頃から手塚治虫に憧れて漫画家を目指したが挫折し、20代はシナリオ、30代はノンフィクションと次々に夢の形が変わった。初めて企画出版できたのが45歳の時で、漫画家を目指していた時から考えると30年ほどかかっている。
「夢が叶わない」期間を誰よりも経験しているし、何より先生の言う「夢が叶わない生徒」であり続けた。そんな自分だからこそできる話があるのだと思う。
先生と話していた中、「才能」というキーワードはほとんど出てこなかった。才能という要素がないと言っているわけではない。あきらかにスタートした時の地点は不公平で、残酷なまでにその差はある。すぐにコンクール受賞する人もいるし、熱心にやってもいつまでも結果に恵まれない人もいる。
でも、僕は才能の差を認めつつも、夢が実現するかしないかにとって決定的な差ではないと考えている。それは大前先生も一緒だと思う。
企画出版は10代のうちに早々に実現する人もいる。30年かかった自分が才能に恵まれていたとは思えない。
才能の高さに比例して他に必要な要素は少なくなる。その代わり、才能が乏しくなるに従い別の要素が必要になってくる。「好きであること」「楽しいこと」が必須で、あとは「素直さ」「優しさ」「思いやり」「根気」「知的柔軟性」など人格的なことが続く。才能はあった方が良いに決まっているが、それは夢を叶えるためのひとつの要素に過ぎない。
大前先生は生徒に「チャンスの女神の前髪をつかめ」とよく助言するという。もともとはギリシャの詩の一節だったこの言葉はよく知られている。前髪というのは比喩で、チャンスは通り過ぎた後にはつかむことはできないから、目の前に来た時につかめというものである。
僕の場合は、訪問リハビリという仕事中に、戦前の女優・園井恵子さんの小学校時代の同級生と偶然にお会いしたのがそのチャンスだった。そこから多くの縁がつながり、4月の初めての企画出版にこぎ着けた。
チャンスなどというものは多少の差はあっても、誰にでも訪れるものだと思っている。それも1回でなく何回も訪れる。ただ、そのチャンスに気付く人はほとんどいないのだろう。僕が出会った同級生と会った人は何人もいて、園井恵子さんの話も聞いていただろう。でも、そこから本を書こうと考えて実行に移したのはおそらく僕一人だったに違いない。
前述の桜隊の追悼会には、女優の常盤貴子さんも参加されていて、短い時間だがお話しする機会に恵まれた。執筆の始まりのエピソードはすでに本で読んでくれていた。「すごい偶然の出会いですよね」と言いながらも、その後に「でも、それは前向きにアンテナを立てて毎日を過ごしている結果ですよね」と言葉をつなげた。
チャンスをつかむにはチャンスと気付かなければならない。チャンスと自分を結び付ける何かが必要で、常盤さんはそれを「アンテナ」という言葉で表現していた。
そのアンテナを常に磨き続けなればいけない。といってもそれはそんなに難しいことではない。自分の世界を自分の方法で広げていくことだ。
それは言い換えれば、日々を一生懸命に生きていることとも言える。興味の幅や知識を広げることだけでなく、人生について考えること、常識や自分に疑問を持つこと、他の人が悩まないことで悩むこと、もがくこと、あらゆることが自分の世界を広げることに役立つ。
僕の場合は、大阪芸大の通信学部文芸学科に通っていたが、その時に書いていた映画関係の課題レポートが園井恵子さんの知識と興味を自分に与えていた。大阪芸大へはシナリオや芸術的な素養をより高めようと通い出したものだが、その効用のひとつは全く予期しない形で現実に現れた。
才能が乏しければ、その分なにかで補わなくてはならない。キングコングの西野亮廣さんは芸人から絵本作家に転向、現在は様々なメディアを活用してマルチに活動している。その西野さんが絵本を書き始めた時、当然本職の絵本作家より技能は劣っていた。その時の戦略的思考は、他の分野の表現者にも参考になる。
絵本制作を生業としている方は、その売り上げで生計を立て、ご家族を養っていかなければならないので、基本的には短いスパンでコンスタントに仕事をしていかないといけないけれど、絵本の売り上げを収入源としていない人間は、極端な話、一冊の絵本を作るのに10年や20年をかけることができる。これが副業のアドバンテージ。僕でいうところの「プロに勝っている部分」になる。
(中略)
結果、一冊作るのに、4年半ほど費やすことになった。
決して、「時間をかければいい」というわけではないけれど、時間さえかけてしまえば、プロと競うことがなくなる。つまり負けることがなくなる”
(『魔法のコンパス 西野亮廣』主婦と生活社 p105)
海外ドラマ『刑事コロンボ』にも興味深いセリフがある。『殺しの序曲』というエピソードでの一節。
才能が乏しいと思えば、才能がある人間より何かを注ぎ込めばよいわけで、その代表的な要素が時間と熱意である。もちろんそれで全ての差が埋まるわけではないが、いくらか補うことはできる。
僕の場合は取材の始まりから企画出版まで12年ほどかかっている。
シナリオ・センターには、どんな作品でも完成まで書きなさい、という教えがある。僕はドロップアウトしたけど、不思議とこの教えだけはその後もずっと守っていた。
僕の場合は10年かかっても最後まで書くと心に決めていた。中断することはあっても、途中で死なない限り、あきらめないつもりだった。
夢も似たようなものだと捉えている。死ぬのが先か、あきらめるのが先か。あきらめなければ、死なない限りはいつか叶うのだ。
ただし、それだけ続けるのは苦しい。時には投げ出したくなることもあるし、自分のやっていることに不安を抱くこともある。だから「好きなこと」「楽しいこと」という点が大切になってくる。前述の西野さんは本を読んだ限りでは「好き」よりも戦略的な思考で進めている。計算だけで続けられるのならそれでも良いが、それは人によって向き不向きがあるだろうからそれぞれで判断してほしい。
そして、創作が個人業であっても世に出すには多くの人との繋がりが助けになる。長い時間をかける中で軌道を維持できることも大切になる。そこには人間性が重要になって、自分なりの表現として「素直さ」「優しさ」「思いやり」「根気」「知的柔軟性」を挙げた。
大前先生は「プロになる人ってそもそも情熱やエネルギーがすごいのだけど、それって後から増えるのかな?」とつぶやいた。
情熱やエネルギーも先天的な要素があり、それに若い時の成功体験など後天的要素が加わるのだろうと思う。しかし、そこから増えないかというとそうでもないように思う。年を経た後からでも自分なりの成功体験を重ねることで、自己肯定感が強まり、結果、情熱やエネルギーを引き出すのが容易になると思う。
もともと情熱やエネルギーというのは、多少の差はあれ多くの人が普通に兼ね備えているもので、それを奥にしまっているか、出すことができるかの違いなのだと思う。
「言う通りにやって夢が叶わなかったらどうしてくれるんですか?」「結局、そう言っても、あなただから出来るんじゃないですか?」という声はありそうである。
そういう人はやらなければ良いと思う。夢、特に創作活動などは費用対効果など効率的なことを考えれば、きわめて割の合わないものである。
それをやりたいからやればいいのであって、やりたくないならやらなければいい。やりたいことに夢中になることは素晴らしいと思うが、それは他人が押しつけるものでなく、あくまで自分が選択するものである。
世の中には才能がある人がたくさんいる。そしてその才能ある人が努力している。そのようなことは実際に多い。そうなると、僕のような凡人はもっと工夫しないと太刀打ちできない。どうやっても適わない可能性もある。ただ、自分の特性や個性の良い部分を上手く世の中に適合させていくことは楽しい。自分なりに進む方法をつかんでから、僕は他人の才能をうらやむことが少なくなった。
大きな山があったとして、たとえ2合目だとしても麓にいたよりもずいぶん視野が広がる。丘のような小山に登っただけでも周囲を見渡すことができる。僕は実績としてはまだまだで、せいぜい2合目とか丘に登ったくらいだけど、それでも経験しているという事実は大きい。
やってみると(経験すると)、意外にできるものだなという感覚で「自分にできたのだからあなたにもできるよ」となる。
大前先生が「園井恵子さんの話を書く時、どんな思いだったの?」と尋ねた。
こんな有名な女優を本当に自分が書いて良いのか、という思わぬ幸運を感じた気持ちがすぐに思い出された。そしてしばらく沈黙が続いたが、もうひとつは、このままの人生では嫌だという感覚があったのではないかと気付いた。コンクールに落ち続けて、何も世に表現できないまま死ぬような人生は嫌だったのだ。
外に出ると、快晴であったが地面は濡れて、まばらに水たまりもできていた。話している間に短時間だが豪雨があったことを示していた。
2時間ほどだったがあっという間に時間が過ぎた。
大前先生は「楽しかった。たくさんの刺激を受けて、私もまた何か始めたいという気持ちになった」と話してくれた。
東京駅で先生と別れた後、僕の中でまた小さな夢が生まれたのを感じた。それは大前先生とどこかで一緒に仕事をすることで、それはどんな形になるか分からないけど、また実現すると思う。
新幹線の指定席は満員だった。シートのリクライニングを少し下げると軽く身を預けて、そして目を閉じた。
楽しく読ませていただきました。
ありがとうございます。恩師とのあまりない機会でしたので記事に残しておきたかったです。好意的な感想でホッとしました。