なき父母への思い~もうひとつの『タカラヅカとシャンソンの時代』♯2

〔写真:父・毅三の個展にて。母・展と一緒に(撮影年月日不明)〕

 2026年5月28日に青弓社より『タカラヅカとシャンソンの時代 深緑夏代と千秋みつるが奏でた歌物語』が出版されました。同書は宝塚歌劇団出身でシャンソン歌手として名を馳せた、故・深緑夏代さん(1921-2009)と、同じく元宝塚で現在もシャンソン歌手として活動中の千秋みつるさん(1930-)姉妹の人生を綴ったものです。
 健在の千秋みつるさんに取材を始めたのが2021年1月。そこから出版まで5年余りにわたった取材記録をシリーズ記事としてお伝えします。編集上で割愛されたエピソードも加えて、作品世界をより深く感じていただければ嬉しく思います。

 千秋さんから何度「最後」という言葉を聞いただろうか。その度に撤回されて、96歳(2026年1月末現在)になった今でもステージに立ち続けている。
 しかし、彼女の中で人生の終着点(最終目標)のようなものは一貫していると思う。母親の故郷の笠間(茨城県笠間市)で歌うことである。「最後に笠間で歌って終わりにする」という言葉を何度も聞いた。

 千秋さんは本名を多田充(ただ みつる)という。多田毅三(たけぞう)と展(のぶ)夫妻の第五子(四女)として生まれた。多田家は出生順に、玲子(後の深緑夏代)、恒史、彰、篤、充と続き、ここまでが京城(現在の大韓民国ソウル特別市)生まれで、この後も3人の子宝に恵まれるが、そちらは日本に帰国後の子供である。

 玲子、充は宝塚歌劇団の生徒として舞台に上がったが、恒史も美術部、篤も衣装部でそれぞれ歌劇団に勤めた。
 次女の彰は生まれて早い時期に亡くなっている。多田家の姉弟を7人と紹介されることもあるが、それは早世した彰が数に入れられていないからだろう。

 父・毅三は長崎県対馬市の出身で、もともとは同市の浦田家の生まれだった。旧来から親交を続けていた両家は跡取り(男の子)が生まれなかった時、お互いの家から養子を出す約束をしていて、毅三は多田姓を継いだ形だった。

 兄の浦田芳朗が毎日新聞系の要職についていて、その人脈もあり、毅三も対馬を出て新聞記者になった。京城に移ったのも兄の異動に付いていった形だった。

 記者であった毅三だが、「多田青士」の名前で春陽会に属する画家でもあった。洋画家・版画家の山本鼎(やまもとかなえ)に師事していて、京城に移る前の1921年に心友社から発刊された『漫画案内 入営から除隊まで』で挿絵を担当するなど、すでに画家としても活動していた。京城滞在中は総督府が主管していた朝鮮美術展覧会の入賞を続けている。

 千秋さんに父のことを尋ねても、幼いこともあり、戦前についての記憶は曖昧だった。伯父が新聞社の偉い人で、戦後は京都市議会の議長も務めたこと。その伯父に付いていく形で京城に渡ったこと。記者でありながら画家として個展を開き、日本に帰ってからは家で教室も開いていたこと、従軍記者として招集されたことなどを話してくれた。

〔戦前に自宅の庭にて家族写真。右端の着物姿が千秋さん。後ろの建物は鳴尾変電所〕

 父の経歴については意外な方面からその詳細を知ることになった。戦時下での朝鮮の創作版画について調べたいくつかの論文からその名前が出てきたのだ。

 それらの論文から分かったのは、毅三は所属していた京城日報で美術関係の記事を書くだけでなく、詩人の内野健児と「朝鮮芸術社」を設立して、『朝』『ゲラ』という芸術雑誌を発行していた。さらに朝鮮芸術社内で「絵画研究所」「朝鮮創作版画会」という内部組織も立ち上げている。そこには日本人、朝鮮人、中国人が参加して、創作の名のもとに交流をしていた。毅三は現地で民族の垣根を越えた新しい芸術の形を作り上げようと、若い血潮を燃やしていた。

 京城時代の毅三については、複数の文献に記述が見られるが『空白の美術史 ―植民地下「朝鮮」で見る創作版画―』(辻千春 2020年 中日新聞社刊)が特によくまとめられている。興味深いのは、それら論文では毅三は出自やその後の分からない謎の人物として捉えられていることである。深緑夏代や千秋みつるの父としてではなく、文化人としても歴史の中に爪痕を残した人物だったのである。

 毅三の理想は、満州事変、日中戦争と日本の軍国主義が加速する中で潰えていく。毅三が海を渡った時、日本の朝鮮に対する植民地政策は「文化政治期」とよばれる融和的なものだったが、次第に軍部の動きが強まり、強硬な姿勢へと変化していく。毅三の考えた民族融和の新しい芸術も厳しい目にさらされたと考えられる。1934年後半(あるいは1935年1-3月頃)に多田家は日本に帰国する。

 父は幼い千秋さんによく生き方を説いた――

 30を過ぎたら、女の人も美しいなんてことはないから、30を過ぎても美しいと言われるには人の悪口を言わない、人の嫌なことを率先してやれ。そうしたら30を過ぎてもきれいになれる、と言われて、その日からさっそくトイレ掃除を始めたの。この言葉のおかげでだいぶ損をしたような気もするけど。

父の教えには少し変わったものもある――

 ネギを食べれば頭が良くなると言われて、子供の頃からよく食べさせられたの。このへんのネギは美味しいわよ。今はキッチンバサミで切ってるわ。

 他にも父方の親戚には、鼻を高くするために洗濯ばさみを鼻に付けられたという思い出話も語ってくれた。時に父方には、思い込みともいえる信念とそれを実行する躊躇のなさが手を組んでいたようである。

 母・展は茨城県笠間市の出身で旧姓は堅山といった。堅山家は代々医師の家系で、先祖は藩の典医を務めるほどの家柄だったが、兄が19歳で早世し、その家業が途絶えると暮らしぶりは急激に悪化した。展は家計を支えるために東京に出て、毅三ともそこで出会った。

 口うるさく教訓めいたことを言わなかったが、よく働き、子供たちに優しかった。よく泣く千秋さんに姉(深緑さん)が「なんとかして」と癇癪を起こし、母から抱きしめられたことを覚えている。

 千秋さんは小学校時代、最も好きだった教科を「修身」といい、そこで聞いた偉人のように自分もなりたいと思ったという。
 彼女は今もこの父母から与えられた幼少期の影響が大きいように思う。京城に暮らしていた頃、多田家には朝鮮人の家政婦がいたが、両親は「オモニ(朝鮮語でお母さんの意)」と呼ばせていた。千秋さんが生まれた頃の京城(ソウル)は日本占領下だったが、民族による差別を子供に植え付けない考えだったのだろう。そのような家族の信条は、千秋さんの心の深層に浸み込んでいるのだと思う。

 千秋さんは、父にあまり良い思いを語らなかった。もともと家父長的な家庭であったが、従軍記者で招集されて戦後に帰ってきた父は、すっかり精神を荒廃させていた。酒に溺れて働かなくなり、家計は母や兄妹で担うようになった。それだけでなく、もともと激情的だった性格はさらにきつくなった。本棚には美術関係の立派な本が並んでいたが、腹を立てるとそれを母に投げつけた。
 思い出に残る父は働かずに暴力をふるう存在で、千秋さんは好きではなかった。だが、京城での父の足跡を聞くと、「お父さんにもいろいろあったということを知りました」と、父への思いに少し余白が生まれたようだった。

〔千秋さん小学校6年ごろ(左から2番目)。NHKの俳句のコンクールで入賞してラジオ放送された時の写真〕

 しかし、千秋さんの思い入れが強いのはやはり母親のようだ。多田家のルーツである対馬や、出生地であるソウルのことはあまり口にしないが、母親の故郷・笠間市についてはその思いを何度も話してくれた。

 もともと何の縁もなかった栃木県に住んでいるが、母の故郷に近付いていることを何かの導きと解釈している。私が5年間、千秋さんと接して、今も折にふれて感謝の言葉を伝えられるのは、母親方の戸籍を取り寄せたことだ。父親方の戸籍も取り寄せているのだが、言葉にするのは母親方に偏っている。
 それをもとに周囲の人が縁の土地に車で連れて行ってくれる計画があると、嬉しそうに話してくれた。人の伝手のない茨城県では場所も集客も目処が立たず、ライブの開催には至っていないが、千秋さんの頭の片隅にはいつも母親の故郷・笠間があるようだ。

 千秋さんは対馬も住んだことはないが、笠間にも住んだことはない。おそらく足繁く足を運んだ土地でもないだろう。なぜ、そこまで笠間にこだわるのだろうか。

 千秋さんの人生の軌跡をみると、ところどころに不思議な行動が見られる。女学校の受験の時、受験票を忘れて下宿に取りに帰ったばかりに不合格になっているし(本書第2章)、大人になってからだが、中村錦之助から映画祭で会いたいと言われて、約束したにも関わらず前日に足を運んで、結局無断でキャンセルする形になった(本書第7章)。千秋さんはそれを「ドジ」というが、どこか大人、成熟した自分からいつまでも逃げていたい、そのような意識が働いているのではないかと時に思うのである。

 90歳過ぎてもどこかその面影を感じることがある。コンサートの控え室で食事を取ろうとしない千秋さんに、世話をする人が無理に食べさせようとすることがあった。千秋さんは「ママー」とおどけたように冗談を言って、相手を呆れさせて手を引っ込めさせた。
 最近ではライブの直前に腰を痛めたことがあり、舞台入口まで四這いで歩かなくてはいけない時があった。その時は「どいてどいて、ワンワンで行くわよ」と言って、心配する周囲のもと這っていった。

 冗談を言って周囲と調和しようとするのだが、それがどこか少し「子供」を残しているように思うのである。

 千秋さんは京城で生まれた最後の子供で、次の子供が生まれるまで6年の期間があった。最後の子供を除けば、最も末っ子の時間が長い子供だった。
 12歳で宝塚音楽舞踊学校に入学したが、1年後には学徒動員により軍需工場で働くことになり、戦後は台風で崩壊した自宅のため、契約金目当てに宝塚から映画界に転向することになった。ここまでの人生でパートナーに恵まれることもなかった。90歳過ぎて強い孤独にもさらされて、身体はさらに衰えていく。その長かったけれど急ぎ足の人生の中で、どこか、子供の自分を取り残してきたのではないだろうか。

 千秋さんの本質は良くも悪くも「やさしい末っ子」なのではないかと思うのである。彼女の奥底に今も母親に甘えたい、あるいは大好きだった母親に最後に何かを贈りたい気持ちが残っているのではないだろうか。

 千秋さんが笠間で歌う日はいつだろうか。それが「最後」なら、私としてはまだまだ先に取っておきたい気もするのである。

解説1
【多田家・浦田家と堅山家】
 本文の通り、千秋さんの父・多田毅三は浦田家の出自で、養子として多田姓を継いだ。浦田家と多田家は跡取りが生まれなかった時はお互いから養子を出す約束をしていたので、多田家と浦田家は血脈的にはほとんど同じ一族ということになる。
 江戸時代、浦田家は対馬藩で朝鮮から届けられた献上品を受け取り、幕府に輸送する務めを担っていた。当時、対馬藩は朝鮮との外交窓口であり、その役割の一部を任せられていたのだろう。入江を一部所有していたといい、当時の権勢ぶりが伺われる。

 毅三の兄・浦田芳朗は早稲田大学出身で、大正5年に東京日日新聞社(当時、毎日新聞は東日本ではこのように呼称していた)に入社し、以後、毎日新聞系の要職を歴任した。政治にも関与して、大政翼賛会に要職で関わっていたことから戦後に公職追放を受けていて、その解除後には大野木秀次郎(元国務大臣)の秘書官や、京都市議会の第25代議長も務めた。浦田家は芳朗や毅三から見て、祖父・弘毅が戸長町会議員、長崎県会議員、父・毅も厳原町会議員を長年務めていて、芳朗にも政界進出を期待する向きがあったことを当時の資料が伝えている(『九州文化大観』日本文化研究会 1940年)。浦田家というのはもともと政治的な地盤があり、地域において代々有力者であったことが伺える。
 多田家も武士の出で、その後は商売に転じたという。毅三の義父である棟一郎が市立長崎商業学校で教諭職にある記録が残っている(『職員録 明治四三年現在(乙)』印刷局 1910年)。

 一方の母方である堅山家についてはほとんど史料にたどり着くことができなかった。展は堅山佳之介ときぬの長女で、佳之介の父が才平、その父が玄勝、さらにその父が養憲と戸籍を通じてたどることができたが、自分が調べた限り、水戸藩や笠間藩の記録の中にこれらの名前を見出すことができなかった(片山から堅山に変更したという記録もあり、両方の姓で調べたが見つけ出すことができなかった)。
 母の弟は堅山坦といい、日本画家で毅三と同じ時期に京城にわたり活動した。多田家よりも引き揚げてくるのが遅れたため、筆の中の芯の部分に紙幣を巻いて逃げてきたと、千秋さんは聞いている。
解説2
【多田家が京城で暮らした場所】
 京城はその中央を東西に流れる清渓川(チヨンゲチヨン)によって南北に分かれ、王朝時代にはそれぞれ北村(プツチヨン)、南村(ナムチヨン)と呼ばれていた。北村は上級両班(「両班」とは王朝時代における支配階級の官僚を示す)、南村は下級両班が住む地域であった。南村は南山の麓にあり、日本人はここにある泥峴(チンゴゲ)という水はけの悪い場所に住み始め、徐々に開発を進めていった。総督府は1914年、それまでの行政区間である五部八面制を改め、主に朝鮮人居住地域の北村には洞制、日本人居住地域の南村には町制を敷いた(趙景達『植民地朝鮮と日本』)。
 多田家も京城移住当初は舟橋町58番地、みつるが生まれた前後は旭町1-56、日本に戻る直前は南山町1丁目と、南村の日本人街の中で過ごしている(辻千春『空白の美術史』)。
 日本人、朝鮮人ともにお互いの居住地域を自由に行き来することができたが、街の発展の仕方も2極化が進み、商業施設や劇場・映画館などの娯楽施設も日本人向けと朝鮮人向けがそれぞれの地域に作られていった。インフラ整備や景観の近代化は南村が進んでいた。
 農村の貧困化が進み、都心に活路を求めた結果、北村の高台に土幕民(不法に小屋を建てて居住する人々)の集落が形成された。日本の統治に対して民族としての鬱屈した感情もあっただろう。

 千秋さんの記憶にあるのは3歳頃、南山町に住んでいた頃である。南山町はその名の通り、南山の麓一帯の地域で、京城駅から直線1キロメートルほど、駅から南大門前を歩いて、家まで15~20分ほどの距離だった。裏手の南山には京城神社や朝鮮神宮が祀られていた。ただし、これらは朝鮮人が信仰していたものではなく、日本統治後に建立されたものである。
 家は平屋建てで、オンドルと呼ばれる薪の煙を使った朝鮮式の床暖房だった。そこに寝そべって近所の子供と絵を描いていた。家の前の坂道は冬になると雪が積もり、子供たちはスキーを楽しんでいた。街の中心部には百貨店があり連れて行ってもらった覚えもある。
 問題も多かったが、居住地域が分かれて、学校は常用語によって、日本人学校、朝鮮人学校と分けられていた。少なくても子供たちの周りには一触即発のような危険な雰囲気はなく、穏やかな日常を暮らしていた。

参考文献(解説部分)
1)『植民地朝鮮と日本』趙景達 岩波新書 2013年
2)『空白の美術史 ―植民地下「朝鮮」で見る創作版画―』辻千春 中日新聞社刊 2020年
3)『九州文化大観』日本文化研究会 1940年
4)『職員録 明治四三年現在(乙)』印刷局 1910年

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兼業作家。2023年4月『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)上梓。歴史全般が興味の対象ですが、最近は大正~昭和の文化、芸術、演劇、映画、生活史を多く取材しています。プロフィール写真は愛貓です(♂ 2009年生まれ)。よろしければTwitterのフォローもお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。