健在の千秋みつるさんに取材を始めたのが2021年1月。そこから出版まで5年余りにわたった取材記録をシリーズ記事としてお伝えします。編集上で割愛されたエピソードも加えて、作品世界をより深く感じていただければ嬉しく思います。
「対馬には行ったことがあるの。木に隠れた5艘分くらいの入江だったと思うわ。あそこがかつて浦田家のものだったと教えられてね。そうか、私の先祖は海賊なのかもしれないと思ったのね」
千秋さんは対馬の思い出を、気性の強かった姉弟への揶揄を交えながら話してくれた。
長崎県対馬市は父方のルーツとなる土地である。千秋さんは京城で生まれて、その後、家族が大阪に引き揚げるのに付いていったので、対馬に住んだことはない。しかし、姉の深緑夏代さんは父の実家である浦田家(父・毅三は多田家に養子に迎えられた)に下宿し、対馬高等女学校に1年通っていた。日本の女学校に通いたいという本人の希望で、京城から1人離れての生活だった。当時の彼女の夢は東京音楽学校に進学してオペラ歌手になることで、それは後に方針転換されて、宝塚音楽歌劇学校に入学することになった。対馬はその直前の多感な少女期を過ごした土地でもあった。
ここから旅立った深緑さんは宝塚、そしてシャンソンへと人生が拡がるが、どのような景色を見て、その人生の旅路へ向かったのか、私は現地を見て確かめたい気持ちになった。
令和7年2月、この冬で最も強いと言われた寒波により、全国で雪や強風の脅威に見舞われる中、私は博多埠頭から汽船で対馬に向かった。
対馬島は福岡から北西へ約130キロ、朝鮮半島の釜山から南へ50キロほどに位置する長崎県に属する島である。周辺の有人島、無人島を含めて「対馬」と呼ばれることも多い。日本から見ると、朝鮮半島の間に位置し、古来から文化、経済交流の要所として栄えただけでなく、朝鮮、中国、ロシアなど北東に広がる大陸との境界としての役割も担っていた。
遠くにうっすら見えていた島影が徐々に近づき、山林の緑が鮮やかに見えた。対馬は島土の9割近くが山地で占められている。海上から見えるものは山岳の緑がほとんどで、そのふもとや谷間の建造物が点々と白く映えている。それが外観からも自然と調和した「対馬」のイメージを与えてくれる。汽船は静かに対馬の主要港である厳原港に入っていった。港内にはフェリー「なぎさ」だけでなく、海上保安庁の「らいざん」「なつぐも」など巡視船舶も停泊していて、他の土地にはない独自の風景をつくっていた。
港のある厳原町は、公共の庁舎や住宅、商店や企業が集まっていて、対馬の中心地といえる。その市街地から少し南に歩いた久田道という海岸沿いの地域の一角に、かつて浦田家があった。
戸籍で調べた久田道1620-2に足を運ぶと、そこは空き家で表札もかかっていなかった。雑草が生い茂り、金属の門扉もすっかり錆びて外れたまま放置されていた。人が住まなくなってから、かなりの年月が経過していることがわかる。
玲子が対馬で暮らしていた時期の様子は、宝塚在籍時の雑誌(「深緑夏子物語 下着一枚で発声も」則武亀三郎〔『宝塚グラフ』昭和28年1月号〕)に「女学校はおじいさん、おばあさんのいる長崎へやられて、そこの石畳の坂道を、年頃のロマンチックな心持ちで歩いたものだったが、お家は、かつて阿蘭陀船などが訪れて来た海沿いにあった」と触れられている。取材の精度が低く、対馬を長崎(市街)と間違えているが、海沿いという点は一致している。
玲子が対馬で暮らしていた時期の旧版地図(昭和10年 2万5千分の1)を国土地理院から取り寄せて確認すると、家の前は遮るものがなく、県道24号を隔てて海岸が広がっている。現在は海岸との間に建物があり、さらに2013年に建設された「志賀ノ鼻大橋」が海岸線沿いに走っていて、視界は大きく妨げられている。

志賀ノ鼻大橋、あるいは県道24号から下をのぞくと、海岸沿いの入江は今もわずかながら残されていた。海岸は砂ではなく石や小岩が敷き詰められているようで、所々に突き出た巨岩が自然の入江を形成していた。入江近くの水面は陽に反射して鮮やかな緑色を放っていた。
入江に降りてみると、太陽に照らされて水面は光のしぶきで輝いていた。水中の石を見ると、緑の苔が薄く覆っていて、緑に反射していた理由がわかった。小岩のいくつかには貝がびっしりとこびり付いていて、もはや人の出入りもほとんどない、手付かずの空間であることを感じさせた。
その入江だけは時間が止まったようだった。



浦田家の前には道と岸壁しかなく、当時、その先の入江も厳原港も一望できたはずである。現在でもこれだけ美しいのだから、当時の景色はいかほどのものだったのか。
久田道の浦田家から対馬高等女学校には、県道24号を北に道なりで行けばよい。途中、厳原の市街地に差し掛かるくらいまで下り坂で、そこからはなだらかだがずっと上り坂が続く。この道は厳原の中央を縦断する道で、郵便局、図書館、ショッピングセンター、裁判所、対馬振興局などが並び、少し入ったところにも対馬市役所や県立対馬歴史民俗資料館がある。
市街地を抜けると、周囲の山地が徐々に近くなり、谷間の奥に進むような感覚になる。小学橋を渡ってひとつ目の道を左に入り、丘に上がっていくと対馬高校の学生寮や県職員の独身寮が並ぶ桜ヶ丘という高台に出る。その駐車場の片隅に対馬高女の石碑がある。周囲は舗装されているが、石碑の周りだけは土のままで草木が生い茂っている。

女学校の跡地から見える景色は、辺りを山に囲まれて、港の方向が少し開けて住宅や建物が密集して見えた。ホテルや企業など戦前はなかった高層の建築物が眺めを遮っているが、当時は港も一部見られたのかもしれない。
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対馬高等女学校について、深緑さんが通っていた当時の様子を示す資料がないか、市立つしま図書館や県立長崎図書館に問い合わせた。双方とも所蔵の資料を紹介してくれたが、後者はさらに長崎歴史文化博物館が当時の同窓会誌『桜友』を所蔵していることを教えてくれた。
当時、女学校では同窓会活動が盛んで、多くの学校で同窓会誌が発行されていた。それらの会誌では現役生たちの様子や当時の風景の写真を載せていて、貴重な資料となっている。前著『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)でも、庁立小樽高等女学校の同窓会誌を入手して参考文献としていた。
対馬からの帰路の途中に長崎歴史文化博物館に寄り、『桜友』(1935年、1936年発行)を閲覧させてもらった。深緑さんが女学校に通ったのは1934年なので1年ずれているようだが、写真や内容については前年度のものを使用していることも多く、まさしくぴったりの年代だった。郷土にたった2冊しか残っていない会誌が自分の調査対象の年代と一致している、その事実は言葉で形容しがたい幸運だった。

同窓会誌には、在校生の作文や俳句、短歌などがよく掲載されていたので、もしかしたら、深緑さんの作品もあるかもしれないと隅々まで目を通したが、残念ながらそのような箇所はなかった。しかし、当時の写真も何枚か掲載されていて、他の資料で調べたことも合わせて当時の雰囲気を感覚として得ることができた。
対馬高等女学校は島で唯一の女学校で、夏は白のシャツにスカーフ、冬は紺のセーラー服という制服だった。自然に恵まれた土地を生かして、丘陵の一部に畑が作られ、鶏が飼育されていた。夏になると全校生徒でそれらの手入れをするのも学校行事だった。同窓会誌には鍬を持ち、桶を担いで畑作業をする姿や、鶏の飼育場を掃除する写真が掲載されている。他にも玲子が在学した年の年間歴を見ると、遠足が年4回、運動会が2回、庭球大会が2回、さらに夏季の海岸を使った水泳、算盤・漢字書取競技会、西洋料理講習会、雛祭などが記録されている(文献2)。後に戦争が激しくなると、テニスコートは畑に変えられて、閉塞した毎日の中で夏の水泳が数少ない学生の息抜きになった。
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もし、宝塚に入学せず対馬で女学校を卒業していたら、深緑さんにはその先、どのような人生が待っていただろうか。夢だった東京音楽学校を目指して海を渡ったのか、それとも島に残って家庭を持つような人生を歩んだのか。対馬高女は叔母(父の実妹)の浦田ユキ、浦田シナも卒業していた。当時、島の裕福な家の女性にとって、対馬高女を卒業して家庭を持つことはごく一般的な進路だった。人生は深緑さんにいずれでもない道を用意していた。
岐路に立っていた女学生のことを覚えている人はもういないだろう。彼女が学んだ校舎もはるか昔に取り壊された。今はただ静かに石碑が佇んでいる。
【引用・参考文献】
1)「深緑夏子物語 下着一枚で発声も」則武亀三郎(『宝塚グラフ』昭和28年1月号)
2)『桜友 一九三五年』長崎県立対馬高等女学校(長崎歴史文化博物館所蔵)




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